始まりの夜校舎
夜風が涼しくなり始めた九月下旬。時刻はもう深夜零時を過ぎている。満月の光がただっ広い敷地内に建てられた校舎とグラウンドを照らしている。グラウンドは人工芝が引き詰められ、部活動に励む生徒たちはさぞや快適に練習をしていることだろう。二年前に建て替えられた五階建ての新校舎は月明かりが反射して白く輝いている。南側の廊下は窓からの光で明るい。
その新校舎の昇降口から中に入った人影があった。月明かりに映し出されるその影の主はこの学園の生徒、畑原 湧哉のものだ。着ているブレザーの名札の色が青いことから学年は二年だとわかる。
「なんで俺が夜の学校に入り込まなきゃならないんだ」
湧哉は不満そうにつぶやく。
『畑原、文句があるなら聞くけど?』
今度は湧哉が持っているスマートフォンから声が聞こえてくる。声は女性のものだが随分と威圧的だ。画面には奥崎先生と表示されている。
『私の言うことが聞けないなら、お前が私の着替えを覗いたことを学校中に言いふらすぞ』
「不可抗力だったって何回言ったらわかるんですか……。それにいくらなんでも教師が夜中に生徒を出歩かせるのはまずいんじゃないですか?」
『私を脅してるのか? 感心しないな」
「そういうわけじゃないですけど……」
『別に誰かに言っても構わないぞ。その時は覗きをして夜中に出歩いた生徒として世間様に知れ渡るな』
脅しはよくないと言いつつも、公にされても私は気にしないが君は大変だなと脅しをかけてくる女性はこの渡ヶ丘高校の教師だ。赴任してから五年になる。年齢はまだ二十代後半でこの学校教師の中では若いほうだ。
「はあ……。それで、俺は何をすればいいんですか?」
少々投げやりな感じだが、このまま言い合っても勝機はないので今回の目的を確認した。
『職員室で教頭のパソコンからデータを引っこ抜いてこい』
「それって犯罪なんじゃ?」
『お前がミスらなければ大丈夫だ』
「そんな無茶苦茶な」
湧哉が奥崎から今回のことを聞かされたのは昨日の放課後だ。『日付が変わるぐらいに学校に忍び込め』と言われただけで詳しいことは何も聞いていない。
似たようなことは湧哉が奥崎の着替えを覗いた二学期の初日から(本人は覗くつもりはなかったっと訴えているが)約一ヶ月で何度かやらされていた。
まず初めに今年来た新任の女教師の机を漁らせられ、次に点検と称して学校内のすべてのトイレを見周らせられた。極めつけは女子更衣室に忍び込めというものだった。その時は更衣室を使おうとした先輩に危うく見つかるところだった。
『USBメモリは渡してあるだろ? それをパソコンに繋いでチョチョイとコピーするだけだ』
湧哉はブレザーの内ポケットに手を入れUSBがあることを確認した。
「言うだけなら簡単ですけどね、目的のデータがどこにあるのかわからないんじゃチョチョイのチョイとはいきませんよ。パソコン内のデータ全部なんて、こんなUSBじゃ無理ですし」
『どうせこの時間じゃ誰も来ないんだから関係ないだろ? じっくり探せ』
「明日も授業あるんですが。日付変わったからもう今日ですけど」
朝のホームルームが始まるのは八時四十分だ。湧哉は学生寮に入っているので登校時間は大してかからない。しかし、今から職員室に忍び込みデータを探しそれをコピーすることを考えると睡眠時間はあまり取れなさそうだ。
「しかも奥崎先生の授業、今日までの課題ありましたよね?」
『今日の授業開始時に提出だ。言っておくけど特別扱いはしないぞ。今日まで手を付けてないお前が悪い』
「マジすか……」
まだ大丈夫まだ大丈夫、と先延ばしにしていたのだがよくなかった。湧哉には課題を計画的にやろうという考えがそもそもないのだが。
『それともう一つ―――』
「なんですかー?」
『私はもう寝るからよろしくな』
「ええぇぇ!? ちょっと待った!この後どうす―――切れた……」
奥崎はさっさと通話を切ってしまった。
一人残された湧哉は廊下の先を見つめた。始めから一人だったが会話相手がいなくなると急に不安になる。新校舎とはいえ、夜の学校というのは何やら不気味な印象を与えるものだ。そんなことはないとわかっていても曲がり角の先に何かいるんじゃないかと想像してしまう。
ゴクリと唾を飲み込むと月明かりに照らされた廊下を進む。今いる場所は明るいが校舎の奥に進めば光はほとんど届かない。
湧哉はブレザーのポケットから小さめの懐中電灯を取り出す。スイッチを入れるとカチッと言う音とともに少し黄色がかった光が放たれて行く先を照らした。
「どうか、何もありませんように」
軽く手を合わせると湧哉は暗い廊下に足を踏み入れた。