五話 新居
「じゃあ、僕からは怖いけど、怖くなかった怪談を一つ。
いやいや、一休さんみたいな話じゃないよ。普通の怪談。僕が大学に入学する為のアパートを探してたときの話だ。いや、正確に言うと部屋が見つかった後の話、かな。
ありきたりな話で、学校の近くで、そこそこ広い部屋が結構安く借りられたんだ。うん、テンプレートと言われても仕方ないけど、やっぱり便利な部屋を安く借りたいのは人情でしょう?
で、住み始めて少しして、案の定金縛りにあったんだ。いや、当時は全然『案の定』なんて思わなかったし、最初は新生活で疲れてただけだと思ってたんだ。疲れてると金縛りにあいやすい、っていうのは聞いた事があったからね。
でもさ、流石に何度も何度も金縛りにあってると、ちょっと怖くなってきた。
そんなある日――――
いつものようにと言ったら語弊があるけど、寝ていた僕は目覚めると金縛りにあっていた。目は開かなかったけど周囲は明るかったので、今は朝だとわかった。そして、僕は聞いたんだ。
ずる……、ずる……、って音を。裾の長い服を引きずるような、その服がビニール袋や、散らかしたものに触れてたてる音。ゆっくりと、一歩一歩近づいてくるような、そんな音を。
実にありきたりで、テンプレートで、よくある怪談って感じの展開なんだけど、当事者としてはそんな感想は抱けなかったね。ただただ怖かった。怖くて逃げだしたくて、でも体は動かないし、声も出せない。いや、出せたのかもしれないけど、あまりに怖すぎて、声を出す事も、目を開く事もできなかったんだ。
そんな風に恐怖に苛まれている間にも――――
ずる……、ずる……。
どんどん音は近付いてくる。
怖いでしょ? 正直このとき、僕は金縛りにあっていたのか、ただ恐怖に身を竦ませてたのかわからないんだよね。だってさ、身じろぎ一つでもして、注意を引くのは絶対嫌だったんだ。逃げるにしたって、その為には目を開かなきゃならないじゃん? でもさ、目を開いたら音の発生源まで視界に入っちゃうかもしれない。いやいや、どころか、目を開いたら鼻と鼻の触れ合いそうな距離にソレ《・・》がいかねない。だから、僕はもしこのとき金縛りが解けてたとしても、動けなかったという自信があるんだ。
ずる……、ずる……。…………。
いよいよ僕の寝ている布団の近くまで近付いてきた音は、しかしそのあとしばらく聞こえなくなった。
そうなってくると、僕も『もしかして』と思うわけだ。もしかして、さっきの音はネズミなんかがなにか引き摺ってたとか、隙間風とかでなにかが動いてただけなんじゃないかってさ。僕が心配過ぎてただけで、勝手に怯えてただけで、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』の言葉通りの事をしていただけなんじゃないかってね。
僕はなんだか、さっきまでの恐怖が薄らいでいくのを感じたわけだ。そんな瞬間――――
『――……その女、誰…………?』
まるで鼻先にいるかのような至近距離から、呻くような低い女の声が聞こえたんだ。
僕は思わずこぶしを握り締め、歯を食いしばり――――カッと目を見開くと、布団を跳ね上げ上体を起こした。そう、金縛りはいつの間にか解けていた。そして――――僕は――――叫んだ。
『一人寝だよッッッッッ!!!!』
いやぁ、怒りのままに叫んだね。それこそ、隣近所にすら響き渡るんじゃないかってくらい。だってそうだろ? 彼女いない歴=年齢の、清く正しい大学生なりたて男子に対して『その女誰?』だよ? こちとら、そんな経験皆無だよ! 浮気? 二股? 沈みっぱなしで一股もねぇよッ!!
爽やかな朝日の差し込む窓を見て、キョロキョロ僕をおちょくりやがった女を探したんだけど、もう影も形もありゃしない。次出てきたら絶対ぶん殴るって思ってたのに、その後は二度と金縛りにあう事はなかった。マジ不完全燃焼。
あ、言っとくけど、別に僕がモテないってわけじゃないからな? 普通、進学してすぐに彼女とかできないだろ? その後できたしー。ちゃんと彼女できたしー……。
ね? 途中までは、ちゃんと怖い怪談だったってのに、最終的に全然怖くなくなっちゃっただろ?
その幽霊だかなんだかもさ、ずるずるって近付いてくるだけだったらちゃんと怖かったってのに、最後に余計な事を言うから怖くなくなっちゃうんだよ。全く全く、余計な事は言うものではないって典型だよねぇ…………。え? なに、どうしたの?
なんでそんな、哀れなものを見るような目で僕を見るの?」