31:アネーシャⅠ
壊れたティーカップの破片を拾い集めながら、男―――ルートは泣きわめいて疲れて眠っているアネーシャの寝顔を見てため息をついた。出会ったのはエデタージュだ。牛乳を卸に行った際に、お忍びで城から抜け出していたアネーシャと出会った。―――否、見つかったといった方が正しい。どうやらその頃庶民も気軽に読める大衆小説を読みふけっていたらしいアネーシャは、身分違いの恋という物にいたく感銘を受け、自分も痺れるような身分違いの恋をしたいと下街をうろついていたようなのだが、そこへ運悪く出くわしてしまったのがルートというわけだ。
アネーシャはそのままルートの荷馬車に問答無用に乗り込み、アジェまでついて帰った。世間知らずの高飛車なお姫様は知らなかったのだ、アジェがどんなに遠いところかなど。途中で“遊び”に飽きたアネーシャは帰ろうとした。けれども、荷馬車は借り物でルートのものではない。しかも、期日までに帰らなければならない雇われの身だ。だから、エデタージュには帰れない、と話したのだが無駄だった。自分の言い分が通らないことの無い生活を送っていたアネーシャはそれに腹を立て、荷馬車を飛び出したのだ。しかしそこは舗装も何もされていない場所で、その上周囲には何もない。よしんば馬車が通ったとしても、アネーシャは金を持っていなかった。
アネーシャはヒステリックに怒り来るい、ルートにあたり散らした。そうして、どんどん頭に血が上っていく彼女に“足元に注意する”などという芸当ができるはずもなく―――血が上っていなくてもできたかどうかはわからない―――彼女はそのまま、土手へ転がり落ち、川につかる結果となった。それだけで元気ならばよかったが、こけて足を折ったアネーシャは、川に頭から落ちるという予想外の出来事に、それこそ物語の姫君よろしく気絶してしまったのだ。ルートは水を吸って重たくなったドレスに四苦八苦しながらアネーシャを再び荷馬車に乗せ、赤く腫れあがった足に驚いてアジェまで急いで荷馬車を走らせた。
幸いにも大事には至らなかったが、アネーシャはそれ以来ルートの家から出ようとしなくなった。ただルートの母親とルートにあたり散らして暮らす日々。足が治った今でも、それは変わらない。
「そう言えば今日、アゼル王子とお妃さまが来たのだけれどね」
片付けを終わらせて母親に話を振ると、母親、ミッテはゆるりと顔を上げた。そこには、微かに楽しそうな表情が見える。
「ああ、そうだね、そういえば昨日来られたんだった。どんな方だった?」
「とても素敵な方だったよ。王子はお妃さまがとても大切なんだってすぐにわかった。―――けれど、」
ルートは、アネーシャがエデタージュの姫であることは知らなかった。ただの、道楽ものの貴族の令嬢だと思っていたのだ。アネーシャは自分を姫であると知らないものがいるはずがないという考えの元、素性は言わなくても知れていると考えている。だからこそ、ルートは昼にステラとアゼルが来たときに驚いたのだ。アネーシャにそっくりだ、と。
ルートは、エデタージュの姫がアネーシャという名前だということも知らなかった。ただ皆がアゼル王子のお妃さま、と呼ぶからだ。
「お妃さまがアネーシャにそっくりだったんだ」
かたん、と物音がして振り返ると、アネーシャが驚愕の表情を隠そうともせずに立っていた。
「今、何といったの?」
「アゼル王子のお妃さまが、アネーシャにそっくりで……って……」
「アゼル王子の妃の身分は!?」
「え、っと、エデタージュの姫のはず」
「私の偽物だわ!!」
今まで聞いたこともないような歓喜の悲鳴をあげたアネーシャはその場でくるくると回った。
「あは、アゼル王子が本物の私を迎えに来てくれたんだわ!!今すぐ案内なさい!」
え、でも、とルートは口ごもる。けれども、ヒステリックな叫び声でさあと促されると、ルートは従わざるを得ないのだった。




