27:アジェへⅣ
「それでは、行ってらっしゃいアネーシャさん」
「遅い新婚旅行だと思ってゆっくり楽しんでくるといい」
新婚旅行という言葉に微かに恥ずかしそうに微笑んで、ステラはゆっくりと頷いた。
当初、ただ身代わりとして輿に乗ったステラは幽閉されるように生活を送るものだとばかり思っていた。それが、どうだ。アゼルはステラをアネーシャの代わりなどではなく“ステラ”として大事にしてくれる。幽閉されるどころか、こうして旅行までさせてもらえている始末だ。
どうせ、一時の夢。そう思って素直になる道を選んだが、これで良かったのか―――ステラは微かに幸せな自分に不安を抱いていた。
*
馬車の旅は存外快適だった。それはもちろん快適であるようにと様々な人間が心配りしているからだというのをステラは承知しているが、エデタージュからノクールへ行くまでの馬車でさえ、ここまで快適には感じなかったものだ。なるほど、ただの身代わりにそこまでの気配りはしなかったということなのだろうか。
しかしそんなことよりも、ステラは窓の外に広がる景色に目を奪われていた。遠くにかすんで見える山、裾野に微かに散らばる砂粒のような家々。その家々を少し超えたところからがアジェ地方らしい。後ろには品よく豪奢な城を中心に城下町の賑やかさがあって、ノクールに来た時を思い出させる。後ろと前をかわるがわる見ながら、ステラは子供のように笑みをこぼしている。エデタージュの下町しか知らないステラにとってはノクールの城から見える景色すら真新しかった。
エデタージュの下町は、所狭しと家が並んで道という道はそうなかった。それ故に近所は家族ぐるみで仲が良いのだが、敷地が狭いのでできることも限られてしまう。ステラの家は数少ない比較的舗装された道に玄関を構えていたが、向かいの家の玄関との間に人一人は通れるが二人は通れないような隙間しかない家がざらだった。だから、ただただ広がる平原や農地というのがきちんと整備された街以上に珍しいのだ。
アゼルはアゼルで、楽しそうなステラを見ているのが楽しかった。目をキラキラさせて外を見ているステラはいつもより数段幼く見えて、まだ少女なのだということを再確認する。最近はしっかりと食事をとっているからか肉付きが良くなってきて、“アネーシャ”のためにと誂えられたドレスもさほど補正を必要とすることはなくなったらしい。それでも、そうそう肉のつかない部位というのは確かにあって、ステラは胸元の開いたドレスは好まなかった。今も、首まできちっと詰まったデザインのドレスを着ている。それもまた、子供らしさを演出する一つの要因となっていた。
「あまり乗り出すと危ないぞ。御者がひやひやしている」
あ、という顔をしたステラは、そのまま言葉が口から飛び出さないように細く長い、されど小さく白い指の先でその桜色の唇を押さえた。そうして、照れたように笑う。
「はしゃぐのも良いが、程々にな」
その、保護者のような言葉にステラは素直に頷いて、ようやっと背もたれに背を預けた。
馬車の中とはいえクッションを包んでいる布は一級品で、手触りも座り心地も抜群である。ワインレッドを基調とした配色は、この馬車がアゼル個人に宛がわれたものだからなのだろう。
きちんと座りなおして馬車の内装を改めて確認し、狭いのにしっかりとした部屋のようだ―――と考えて、ステラはふと恥ずかしくなった。狭い場所というのはさておいて、アゼルとこうして長時間二人きりというのはよくよく考えると久しぶりのことである。もちろん御者台には御者がいるのだがそれはそれ、気配少なく馬を往なしているので勘定に入れて良いものかどうか迷うぐらいだ。
「どうした?」
びくっと肩を揺らして、ステラは両手を所在なく動かす。口から言葉がこぼれそうになるが、懸命にこらえる。声が出なかった頃は悲鳴すら出ないのが悲しくてならなかったのに、今はそれを堪えているだなんておかしな話だ。
肘置きに頬杖をついたアゼルは、不思議そうな顔でステラを見つめたままだ。
「―――っ、」
ええと、ええと、と言葉を選んだステラは、やがてなんでもないです、と言わんばかりに視線をアゼルからそらして俯いてしまった。酔ってしまわないために言葉を伝える手段が用意されていない馬車の中ではそれが精いっぱいである。アゼルの方もそれを汲み取って、どうしたんだ一体と笑うだけに留めてそれ以上追及はしなかった。
*
途中草原の上で休憩として軽食を食べ、再び馬車に揺られることしばらく、空が茜色に染まるころに一行はアジェへと到着した。公の行動は明日からということでその日はすぐに別荘へ移動したが、馬車にまとわりついて来る人々を無下にすることは出来ず、人だかりの中をゆっくりと進みつつステラは様々に声をかけてくる人々に手を振り続けた。アゼルも、自分の名が聞こえたときにはきちんと手を振るなり黙礼するなりしている。その姿に驚いた人々は、アゼルもステラも同様に歓迎してくれたようだった。そのため、別荘に着いたのはアジェについてからまた暫くしてからのことだった。
別荘では先遣隊の使用人達が綺麗に整えられた屋敷を背に待っていて、馬車どまりに馬車を止めると門の向こうにたかっている人々に最後にもう一度だけ手を振ってからステラとアゼルは屋敷に入った。
「悪いが飯は軽食だけで良いから、アンジュに事づけてくれ。長旅でアネーシャも疲れているから、二階は人払いをしたい。ユアンとアンジュ以外は何かあれば二人に事づけてくれればいいから、頼んだ」
言いつけられた使用人達は畏まりましたと請け負って各々の仕事に取り掛かるべく散っていく。アゼルはステラの手を取ってゆっくりと階段を上った。ユアンがその後ろから荷物を持ってついて上がり、アンジュは軽食を受け取るべく厨房へ向かっていく。整えられた部屋に入って初めて、二人―――特にステラは一息つけたのだった。
「声が出なかった時とは違って、声を押さえるのは大変だったろう?」
「ええ、少しだけ」
「ゆっくり休めばいい。アンジュが来たら、部屋着に着替えろ」
ステラが着ているドレスはとても一人で脱ぎ着できるようなものではない。コルセットをはめるのに手間がないとはいえ、着脱には時間がかかる。
「一人でできればいいのですが……」
「いや、無理だ。そもそも人に手伝ってもらうことを前提で作られている服だぞ?」
「そ、それはそうですけれど……」
やはり少しでも迷惑を無くしたい、と顔に書かれている。アゼルとユアンは顔を見合わせて苦笑した。気遣いができるというのはステラの良いところであり、反面頼り過ぎないという悪い面でもある。もう少し人に頼ればいいのに、と思うが、生い立ちから人に頼ることをそもそも念頭に置かないようになっているのだろう。
「お前はもう少し人に頼ることを覚えた方がいいな」
何の気なしに放たれたアゼルの言葉に、ステラは淡く笑みながらも心臓がきゅっと音を立てたように縮まったのを感じた。
いつまでもこうしていられるわけではない。それは、ずっと考えていることだ。アゼルはいつまでも自分を側においていてくれるつもりでいるようだが(ああ、そうであったら何と幸せだろう!)そんなにうまくいくはずがない。自分はいつかあの下町へ帰る。アネーシャ姫が嫁いで行ったあとのエデタージュの下町で、今は見えぬノクールの城の中で仲睦まじく暮らすアゼルとアネーシャの幸せを祈るだけの存在になるのだ。そうなったときに、自分はもう誰も頼らずに生きなければならない。身の回りをやってくれる人間などいるはずもなく、むしろ自分が両親の代わりに働くことを望んでいるのだから。
―――けれど、それをアゼルに告げることは出来なかった。それがステラの我儘だった。




