1:仮初の関係Ⅰ
コツコツと革靴を鳴らし、正装のためにつけているマントを華麗に翻しながら青年は歩いていた。深い紫色の髪は腰までの長さがあり、それをワインレッドの飾り紐で高い位置に結わえている姿は凛とした好青年という印象を与える。瞳は銀灰色だが光の入り具合で紫に見えたり虹色に見えたりと様々な光彩を放つ。しかしその美しい瞳は今半分ほど伏せられて何の色も帯びていなかった。
人々が彼を噂するときに言うのは、美青年、美丈夫、麗しの君―――と外見に対しては非の打ち所の無い評価だが、内面となると一転する。無能、お飾り、退屈王子、無気力王子、バリエーションは様々だが一貫しているのはやる気がないだとか能力がないだとかそういった類のものである。
容姿では兄王子を凌ぐが、能力面では比べるべくもない。兄王子が容姿を母親の腹に忘れたかわりに能力をすべて持っていかれたのではないか、というのが市民の無邪気な感想だ。
「アゼル様」
音もなく現れた側近についと視線をやって、先を促す。
「もうそろそろお着きになるようです。先にアゼル様との顔合わせを済ませ、王様と王妃様にお目通りする手はずになっております。市民への顔見せはそのあとで行われます」
「―――面倒だな」
「通過儀礼ですから、面倒なものですよ。それに、今回は少し事情も違いますし」
その言葉に目を伏せ、やがてわかったと頷くと少しだけ歩調を早めた。
*
エデタージュ王国の長女アネーシャ姫とノクール王国の二男アゼル王子の婚礼は、隣り合った国同士の平和を願う意味も込めた所謂政略結婚である。国同士の交易を深める意味もあるので、商人たちはこぞって彼らを祝福した。
もともとはアゼルではなく兄のディヴィが結婚するはずだったのだが、歳が離れすぎていることとディヴィが政略結婚を嫌がったことによって二男であるアゼルに回ってきた。
結婚の時点でアゼルは二十一歳、アネーシャは十六歳である。そんな未来に溢れた若者同士の結婚が祭りの火種になるのは当たり前ともいえることで、顔見せの儀がある今日は朝から城下町で賑やかな祭りが開かれていた。
「お着きになりました」
夫婦の部屋となる応接間と寝所が内扉を挟んで一続きとなった部屋の応接間側で待っていたアゼルは、側近のユアンの声に体を起こした。ゆっくりと扉が開かれ、入ってきたのは眩い金髪を緩く結い、純白のドレスに身を包んだ美しい少女だ。
少女はしずしずと、それこそ深窓の令嬢さながらの所作でアゼルの前に滑るように進んだ。
「初めまして」
アゼルの言葉に少女は微笑んで頭を下げた。
少女を連れてきた使者は先に王と王妃に到着の挨拶に向かっており、ここにいるのはアゼルとアネーシャ、ユアン、そしてアネーシャ付きの侍女としてアネーシャと共にやってきたアンジュだけである。
「ここにいる者だけが、事情を知っている。だから、頼るのはここにいるものだけにしてもらいたい」
少女は柔らかな微笑みを浮かべたまま頷く。
「籠の鳥なのはお互い様だ、我慢してくれ」
それだけ言うと、アゼルは少女が頷くのも待たずにその手を取った。アンジュが何か言いたげに表情を動かすが、ユアンに視線で謝られて居住まいを正す。
「行こう、面倒なことは早めに済ませたい」
くすりと少女は笑った。少女とて疲れ切っていただろうに、そんなことはおくびにも出さずまるで今までもそうしていたかのようにアゼルの腕をとって歩き出した。二人の姿は陰と陽のようで、正反対であるからこそ何故かとてもお似合いだ。
王と王妃は今か今かと待ちわびていたようで、アゼルが少女を連れて謁見の間に現れると見るからに嬉しそうに表情を崩した。ディヴィもアゼルもいい年だ、それなのに妻もいないことが二人とも不満だったのだから、たとえ政略結婚とはいえアゼルが伴侶と連れ立って歩いているところを見て感極まったのだろう。
少女の一歩後ろにはアンジュが控えている。そうして、膝を折って挨拶する少女の動作に合わせるようにアンジュが口を開いた。
「アネーシャ姫でございます。姫はお声が出ませんので、失礼とは思いますが私が代わりにご挨拶させていただきます」
「よい、よい。事故のショックで声が出なくなってしまったのであろう?であれば仕方のないことだ」
「お心遣いに感謝いたします」
少女が腰を折るのに合わせてアンジュが言う。打ち合わせでもしていたのかというほどぴったり合っていた。
「アネーシャ……と、呼んでもいいかしら。もう少し、近くへ」
王妃が手を差し出し、アゼルがエスコートするように歩いて王妃の元へ行く。
「とても綺麗な金色の髪ですね。わたくしには娘はいませんから、こうして娘ができたことが嬉しくてなりません。これからは、わたくしのことも母と呼んで下さいね」
少女は更に王妃に近付くと、そのまま差し出された手の平に己のものを重ねた。本来ならば許されない行為だが、義理の娘となったということと喋ることができないという理由があるために誰も咎めたりはしない。
ふわりと微笑むとまるで空気が明るくなったような気がして、王妃は更に表情を柔らかくした。重ねられた手を握って、にこりと笑う。
「父上、母上、顔見せの時間がございます。そろそろバルコニーへ移りましょう」
アゼルの提案にようやく手を離した王妃は、少しだけ照れたように微笑んで少女をアゼルに返した。