第一章 第四話
第一章 第四話
馬蹄を轟かせながら、皇国軍が斜面を駆け下りてくる。
全てを呑み込む大波のような迫力が、待ち受けるアジャンクール軍将兵の肝を寒からしめた。
固唾を飲んで皇国軍の突進に備える部下たちを見ながら、アジャンクール王フィリップは傍らに控える少女に問いかけた。
「闘牛という南部の見世物を知っているか、クレマンティーヌ?」
蒼白な顔をして皇国軍の突進を見つめていた少女は、王にして父たるフィリップの問いかけに目をしばたたかせた。
――皇国軍が目前に迫っているというのに、この方は何を仰っているのだろう。
淡い水色の双眸が、彼女の想いを雄弁に物語っていた。
少女の父フィリップは三十九歳になる。先王の第五子で、何事もなければ、豊かではあっても退屈な日常を送った末に、王弟としてひっそりと生を終える定めにあった。
だが、彼はそのような詰まらない人生を送るつもりはなかった。
十年ほどまえから、王太子をはじめとする四人の王子が次々と怪しげな状況で命を落とした。
そして三年前、先王も突然病を患い、医師の必死の治療の甲斐もなく、命を落とした。およそ健康だけが取り柄の先王が突然急病で倒れたことに、多くの側近たちが驚いた。
そして、誰もがこれらの王族の死に、王家の闇を感じ取った。
「秘密とは、誰もが知ってはいるが、誰も口に出して言えないことを言うものだ」
かつて父は、まだ幼いクレマンティーヌに向かい、そう豪語した。
当時、彼女には父の言っていることがさっぱり分からなかった。
「おとうさま、クレマンティーヌのひみつは、だあれもしりません」
たどたどしい彼女の言葉に、父は穏やかに微笑んでいた。
今ならば、その微笑みの意味がわかる。
秘密という言葉で、父が具体的に何を言おうとしていたのかも。
「くわしくは知りませんわ、お父様」
――迫り来る皇国軍の威容を前にして、なぜ突然そのような世間話を。
クレマンティーヌは父の真意を測りかねた。
王でありながら、父は他の貴族と同じく馬を降りて、歩兵と同じ長槍を手に持っている。
クレマンティーヌと同じ淡い水色の瞳は、土煙を上げながら指呼の間に迫る敵兵を前にしてもなお、穏やかな光をたたえていた。
「ふむ……。いずれ一度連れて行ってやらねばならぬな。あれは実にためになる見世物だ」
フィリップは端麗な唇を微かにつり上げて、毒を潜ませた笑みを浮かべた。
「闘牛というのはな、一人の闘牛士が赤布とナイフで猛牛を仕留めてみせる出し物だ。猛牛の角に一突きされたら、人間などひとたまりもない。その緊張感が見るものを興奮させるのだが……。どうやって闘牛士は手強い猛牛を仕留めると思う?」
今にも皇国騎兵が自軍戦列に突入しようとしているのに、フィリップは関係ない話をやめようとしない。
眼前の光景に気を取られながら、クレマンティーヌは上の空に、「知りません」と応えた。
「なに、そう難しいことではない。猛牛の性質をよく知れば、造作もないことだ。猛牛は赤い物を見ると興奮して突進するという。ならば話は簡単だ。闘牛士は赤い布で猛牛の行動を操ればよい。赤い布目がけて突進してきた牛の急所にナイフを刺せば、牛は弱り、最後には死ぬ」
「はい……。ですが、皇国軍が……」
焦りを含んだクレマンティーヌの声に、フィリップは耳を貸そうとはしない。
「よく見ておくがいい。セーヌ公リシャールはただの猛牛だ。たしかに奴の突進力は素晴らしい……。だがな、クレマンティーヌ。人間は遙か昔に、猛牛のいなし方を会得しているのだよ」
フィリップは口元に冷嘲を浮かべ、王国軍の長槍目がけて突っ込んでくる敵騎兵を冷ややかに見やった。
「なに。レオは余の命がなくとも、猛牛の操り方など心得ておる」
端然とフィリップがうそぶいたとき、大地を揺らしながら駆け下りてきた皇国騎兵が王国軍歩兵と激突した。
たちまちのうちに、もうもうとした土煙が立ちこめ、軍馬のいななき、兵士の怒号があたりにこだまする。
身の毛のよだつような鋭い悲鳴があちこちから上がり、金属が擦れ合う甲高い音が空気を切り裂いた。
その瞬間、両翼から蒼穹めがけて無数の矢が飛翔し、緩やかな弧を描きながら、皇国騎士に降り注いだ。
人馬の悲痛な悲鳴がクレマンティーヌの耳朶を打つ。
クレマンティーヌは、女だてらに馬術や剣術をたしなみ、用兵学も学んでいた。もともと勝ち気な性格だったこともあり、戦の話は大好きだった。それと同時に、貴族の令嬢と同じように着飾って無駄話に興じるなど、我慢がならなかった。
「十代で無能な大公に嫁ぎ、子を産み育てるだけの退屈な人生など、まっぴらごめんだ。男に並んで武勲を上げたい」
縁談を持ち込んできた父フィリップに、クレマンティーヌはそう懇願した。
娘の願いを聞いた父は、愉快そうに笑いながら、
「ならば、セーヌ攻めについてこい」
と言ったのだった。
クレマンティーヌは驚喜した。
華々しい本物の戦場。勇猛な騎士たち。その戦列に自分も加わることができるのだ。
興奮のあまり白磁の肌を赤く染めた彼女を待ち受けていたのは、しかし、どこまでも生々しい肉と肉とのぶつかり合いだった。
前方を見やれば、歩兵の長槍に貫かれた敵騎士が、もんどりを打って落馬している。
その隣では、突進してくる馬に抗しきれずに千切れた長槍の柄が宙を舞っていた。
いずれも彼女から三十歩ほどしか離れていない。
泥と汗と血が混ざり合った不快な臭いが、彼女の鼻孔を刺激する。
――これが戦場。
クレマンティーヌは思わず吐き気を覚えた。
そんな愛娘の様子を、冷めた目でフィリップが見つめていた。
父王の視線に気付く余裕は、彼女にはなかった。
「ミヨ、さっきタギナエの二の舞と言っていたが、それはどういうものだったんだ?」
戦場をはなれて丘の斜面を周りながら、シャルルはミヨに問いかけた。
左下では、皇国軍と王国軍が正面からぶつかり合っていた。
シャルルの見るところでは、形勢は互角。いや、皇国軍が若干有利にみえた。
それだけに、ここからどう皇国軍の敗戦につながるのか、シャルルにははかりかねた。
「ああ、タギナエの戦い? ときのローマ皇帝、背教者ユリアヌスの宦官ナルセスが、東ゴート王トティラに勝利を収めた歴史的な戦いのことだよ。東ゴート族はこの戦いの後、カシリヌムで再度ナルセスとぶつかって殲滅されて、東ゴート王国は滅亡することになるんだ」
ミヨは眼下で繰り広げられる戦場を冷めた目で眺めていた。
戦場が遠いから戦争をしているという実感がわかないようだった。
そうでなければ、とても冷静ではいられなかっただろう。
「この戦いもそれにそっくりだということか?」
「うん。中央突破を図る東ゴート王に対して、ナルセスは中央に重装歩兵、両翼に弓兵を配置した。まあ、東ゴート王は最初に弓兵を排除しようとして果たせなかったので、今回と全く同じってわけじゃないけど……。で、騎馬を前列に並べて突進したトティラはナルセスの重装歩兵に阻まれて、両翼の弓兵の十字砲火を浴びた。何度か突撃を繰り返したみたいだけど、そのたびにいたずらに兵力を消耗しただけで終わったみたい。でも、それだけならトティラは撤退できたはずだったんだ」
ミヨは騎兵に続いて丘を駆け下りる歩兵部隊を指さした。
「あの歩兵部隊さえいなければね」
「……どういうことだ?」
シャルルには、どういうことだか分からない。
「前列に騎兵をならべて、後続の歩兵とともに突撃するというやり方には、致命的な弱点があるんだ。騎兵の戦闘力の要は、機動力と突進力だよ。だから、一度の突撃で相手を崩せなかったら引き返して、再度突撃する。でも、そのためには広大な空間が必要だ」
「ああ」
「その空間を、あの歩兵部隊が奪っている」
ミヨが指さす方向をシャルルは見た。
歩兵隊が騎馬隊に続いて、敵重装歩兵陣に突撃している。
――騎馬隊が敵歩兵と自軍歩兵に挟まれ、前後から押されている。
シャルルは戦慄とともに、ミヨの言わんとしていることを理解した。
「騎兵が動けない」
「そう。それが、中央突破を狙うあの陣形の致命的な弱点だよ。騎兵の突進力が十分にあって、実際に敵陣を突破できたときはいい。後続の歩兵が敵陣の穴を押し広げて、大勝する。でも、今回のように敵が持ちこたえ、しかも敵の攻撃の中心が飛び道具である場合……騎兵は文字通り死ぬ。実際、敵と味方に挟まれて身動きがとれなくなった東ゴート王トティラは、タギナエで戦死した」
眼下では、ミヨの予言通りに戦闘が推移していた。
動けなくなった騎兵に敵両翼の弓兵が集中砲火を浴びせていた。
騎士の集団が見る間に縮んでいく。
このままでは、セーヌ公が東ゴート王の轍を踏む瞬間も近かった。
ミヨを見ると、相変わらず冷めた目で戦場を眺めている。
――ミヨにとって、戦闘結果は始まる前からわかりきっていたことだったのだろう。
そうおもったとき、シャルルの背筋に震えが走った。
――ミヨと自分とでは、見ているものが違いすぎる。
自分にとって戦場とは、あくまで人と人がぶつかりあう血腥い死の舞踏会だ。
だが――。
ミヨは、戦場のはるか遠くから勝敗を見定める。
――自分よりも、ミヨのほうがよほど鬼に相応しい。
かつてミヨは、シャルルのことを称して、単に戦闘で強いだけの黒髪の少年と言っていなかったか。そんなのがどうしてここまで恐れられるのか、理解できない、と。
今ならば、その言葉の意味がよくわかる。
軍師や知将と呼ばれる人々は、シャルルの比ではないほどに人を殺す。
自ら武器をとることなく、戦略や戦術と呼ばれる実体なき刃を使って、人を実に効率的に屠っていくのだ。
突然、バルディッシュを振り回しているだけで鬼呼ばわりされる自分がひどく滑稽な存在に見えた。
ちょっと力が強いだけだというのに、自分こそが鬼だと思い上がっていたとは――。
こういうのをミヨの世界では何というのだったか。
たしか、井戸の中の蛙は外の世界を知らずに威張っている。
――自分はまさに蛙だった。
思わず、嗤い声を上げていた。
クラリスとミヨが驚いたようにシャルルを見上げた。
それも気にならない。
嗤いながら、シャルルは思う。
髪が黒いとか、力が強いとか、そんなことはどうでもいいくらいの絶対的な差が、自分とミヨとの間に横たわっている。
血を見るだけで動転するような戦慣れしていない小娘のはずなのに、ミヨはその頭脳を使って、その気になれば淡々と一万の兵を殺すのだろう。
根拠はない。だが、シャルルはそのことを確信していた。
それに比べて、自分はなんとちっぽけなんだろう、と思う。
たかが槍一本振り回していい気になっていたとは!
同時に、疼くような欲望が胸中に広がった。
――ミヨが見ている世界を、自分も見てみたい。
戦争はさぞかし違った風に見えるのだろう。
数字と数字のぶつかり合いだろうか。
それとも文字の羅列だろうか。
その世界を見たとき、自分はどうなるのだろうか。
「シャルルどうしちゃったんだろ? 何か悪い物でも食べたのかな」
ミヨが心配したような、呆れたような視線を投げかけた。
「さあ……」
クラリスも、シャルルの哄笑を呆気にとられて眺めていた。
「そんなことより、ミヨ。私たちもそろそろ動かないと。このままでは、リシャール殿下も討ち取られてしまうわ」
見る間に数を減らしていく騎士たちを見ながら、クラリスが我に返ったように、ミヨに詰め寄った。
「うん、そろそろ行こうか。ほら、シャルルもいつまでも笑ってないで。こっからはシャルル頼みなんだから」
ミヨに肩を揺さぶられて、シャルルもようやく我に返った。
「わかった。で、どうする?」
「あたしたちは今、完全にノーマークだ。誰もあたしたちに注意を向けていない。だから、右側から迂回しながら丘を下って、敵左翼を蹴散らす。たぶん、左翼弓兵は千から二千。でも、彼らは満足な鎧も身につけていない。武器も、弓のほかにはナイフくらいしか持っていないはずだ。百騎で突撃しても蹴散らせると思う」
「ああ」
「あの弓兵を蹴散らすことができれば、中央への攻撃が弱まって、味方の歩兵は脱出できると思う。それから、シャルルは敵陣中央を後ろから襲って。アジャンクール王の本陣を叩くんだ。王本人を無理に倒す必要はないよ。王国軍が動揺すれば、それで十分なんだ。退路をふさがれないうちに逃げてね、シャルル。あたしたちの作戦は、敵軍に騎兵がいないっていう機動力の優位を、どれだけ活かせるかにかかっているんだから」
「分かった」
「あたしとクラリスは、向こうの茂みに隠れているよ。戦場に出て行っても足手纏いになるからね」
ミヨは、戦場から離れたところにある茂みを指さした。
「ああ」
「シャルル、お願いね」
「まかせておけ」
すでにミヨが最高の戦術を考えてくれた。
これをただ実行すればよい。
シャルルはクラリスに頷いて、兜をかぶった。
彼にあわせて、他の従士たちも兜をかぶり、バイザーを降ろした。
シャルルは馬上にくくりつけていたバルディッシュを手に持ち振り上げた。
「総員、続け」
手綱を左手に握り、馬を勢いよく走らせる。
百騎が一丸となり、丘を駆け下りた。
草が芽吹く前の褐色の斜面を、黒一色の騎兵が百騎、疾駆する。
馬蹄に蹴り上げられた土の塊が宙を舞い、そのたびに馬はどんどん勢いを増す。
すぐに敵陣左翼がシャルルの視界に飛び込んできた。
王国軍は皇国軍殲滅に熱中していて、まだ気がつかない。
――もう少し。
シャルルを中心とする一団は、見事な雁行陣を作りながら、王国軍弓兵の後背に迫った。
最後列の弓兵がシャルルたちに気づき、警戒の声を上げる。
だが、遅い。
この距離まで近づけば、敵が弓を射るよりも先にバルディッシュの斧が敵兵を打ち砕く。
恐慌をきたした農民弓兵の群れに、黒装束に身を包んだ百騎が激突した。
シャルルは、人馬一体となり、逃げ惑う弓兵にバルディッシュを振り下ろす。
楯もなく、近接武器はナイフ一本という弓兵に、シャルルの猛撃を躱す術はない。
まるで麦の穂を刈るように、シャルルは敵兵の首を狩った。
シャルルの斧を避けようとして転んだ敵兵を、乗馬が踏みつぶす。
敵兵は弓を放り出して逃げようとするが、味方がじゃまで退路がない。
シャルルの右隣では、カトーが巨斧を旋回させながら、縦横無尽に暴れ回っていた。
バルディッシュを振り下ろし、薙ぎ払うたびに脳漿まじりのどす黒い血が空中に撒き散らされる。
完全に戦意を喪失した弓兵たち。
農民あがりなだけに、正面衝突に弱い。
シャルルは戦場を震わすような大声で雄叫びを上げた。
このまま、この哀れな子羊たちを殲滅するのは簡単だ。
――殺し尽くせ
血が囁く。
甘美な誘惑だ。
だが、シャルルの任務は、敵左翼の殲滅ではない。
ここで本能の赴くままに皆殺しにするだけでは、意味がない。
ミヨには、この戦いの終わりが見えていたはずだ。
それがどんな絵になっているのか、シャルルにはハッキリとは分からない。
だが、それを見てみたいと思う。
芸術家は絵の具を使ってキャンバスに感動を生み出し、軍師は血で大地に叙事詩を刻む。
シャルルは、血の芸術を生み出すための絵筆であり、彫刻刀だ。
少なくとも、今はまだ――。
「全騎反転」
シャルルは大声で叫び、馬首をめぐらせた。
「反転だ!」
カトーがシャルルの命令を復唱する。
押し寄せた波が退くように、百騎は立ち所に敵弓兵から遠ざかり、敵軍中央に向かった。
狙いは――王国軍本陣。
シャルルたちに気付いた敵歩兵最後列が、進路を妨害しようと立ちふさがる。
だが、悲しいかな、機動力が違いすぎた。
シャルルたちは巧みに歩兵の集団をかわし、アジャンクール王フィリップに襲い掛かった。
慌てて長槍を揃えて騎馬の突撃を食い止めようとする王国軍重装歩兵。
わざわざ騎士を下馬させて強化させているだけあって、弓兵部隊とは違い混乱はない。
並の騎兵であれば串刺し担っていただろう。
だが――。
「反転騎射」
シャルルはバルディッシュを鞍にくくりつけ、弓を持ち上げた。
手綱を絞り、馬を急停止させる。
それに部下が続いた。
「放て!」
重装歩兵隊から離れながら、次々と矢を射かける。
矢が来るとは想定しておらず、楯を正面に構えていた歩兵たちは、頭上から降り注ぐ百本の矢に隊列を乱した。
重装備なだけあって大損害を与えたとは言い難い。
だが、隊列のところどころに穴が空き、槍衾に隙ができた。
「反転、突撃」
シャルルは弓を鞍に下ろし、バルディッシュを掴んだ。
まさに訓練どおりの動きだった。
「火器登場以前の騎兵隊の運動は、世界史上最高の戦術家チンギス=ハーンによって完成を見た」
シャルルにそう説明したミヨは、騎射の重要性をくどいほどに強調した。
いずれは軽騎兵と重騎兵の二兵種を揃えたいと言っていたが、現在のヴェルヌイユ家にはそこまでの余力はない。
重騎兵が騎射も行うことになったのだった。
理想の騎兵戦術には及ばない。
それでも、効果はあった。
敵戦列の乱れに、シャルルは突進した。
重装歩兵が四列とは言っても、王の周辺はさすがに何列もの歩兵が固めている。
それを突破するのは容易ではない。
それでもシャルルはバルディッシュを振り回し、戦列歩兵を薙ぎ払う。
戦列に空いた穴が広がる。
そこに黒騎兵が次々と雪崩れ込む。
敵歩兵が槍でシャルルの乗馬を突いた。
重騎兵の馬は鉄製の防具で身を固めている。
その歩兵は、目的を果たすことが出来ず、シャルルの反撃で上半身を散らした。
だが、シャルルが血の雨を降らせているにもかかわらず、アジャンクール王直属の歩兵たちは動揺しなかった。
次々にシャルルの馬を攻撃する。
そのうちの一つが、ついにシャルルの乗馬の命を奪った。
馬がいななき、後ろ足で仁王立ちになる。
馬上のシャルルは、それに反応できず、鞍から落ちた。
そこに、敵歩兵が殺到する。
「隊長!」
カトーの絶叫が聞こえる。
一度馬から落ちた重騎兵は、甲冑の重量のせいで立ち上がることもできない。
それが戦場の常識であった。
だが、それはシャルルには当てはまらない。
敵の攻撃が分厚い黒鋼の装甲に阻まれているうちに、跳ね起きる。
そのままバルディッシュを振り回し、なおも敵陣に突っ込む。
馬上から降りたことで、シャルルの攻撃は、却って苛烈さを増した。
前後左右から襲い掛かる敵兵を、バターを斬るように次々と仕留める。
足は絶えず動き回り、変幻自在に体勢を変える。
ときおり黒鋼の鎧を刃が撫でるが、シャルルの皮膚に到達することはなかった。
踏み込み鋭く、シャルルは駆け抜ける。
一人、また一人。
まるで無人の野を行くごとく、シャルルはアジャンクール王旗目指して走った。
クレマンティーヌは、自分目掛けて突進してくる黒装束の一団に恐怖した。
彼らは、どこからともなく現れ、王国軍左翼の弓兵隊を瞬く間に蹴散らした。
まさに鎧袖一触。
彼らはそのまま転進し、本陣を守ろうとして駆けつけた歩兵たちをするりとかわし、本陣を真後ろから強襲したのだ。
「戦場を離脱する黒い一団のことは気になっていたが……。まさかこのような形で余に牙を剥こうとはな」
万事につけ冷静な父フィリップが、珍しく焦りを滲ませた声で呟いた。
「陛下、このままでは突破されます! どうかお逃げください」
近衛兵が悲鳴を上げて、父王に上申した。
「もう遅いわ!」
フィリップが大喝した。
見れば、黒いプレートアーマーから血を滴らせている敵兵が一人、近衛兵を切り倒し、こちらに襲い掛かってた。
「ひっ」
全身黒一色。それに血でどす黒く染まった大斧。
その敵兵が放つ圧倒的なまでの死の気配に、クレマンティーヌは心から怯えた。
「下がれ、クレマンティーヌ!」
父王の叫び声が聞こえる。
けれども、すくんでしまって動けない。
そこに、黒い死に神の斧が迫る。
彼を倒そうと駆け寄る近衛兵たちが遠くに見える。
とても間に合わない。
「いや……いやぁああ」
喉から絶叫が迸る。
叫んだところでどうなるものでもない。
それでも、泣き叫ぶ以外、彼女にできることはなかった。
クレマンティーヌは頭に重い衝撃を感じて、意識を失った。
愛娘が倒れ込むのを、フィリップは呆然と眺めていた。
ちょっとした余興のつもりだったのだ。
騎士の真似事をして楽しんでいる娘に本物の戦場を見せて、どう反応するか。
普通の娘なら怯え、失神する。
だが、この子なら、もしかしたら使い物になるのではないか。
そんな予感があった。
長子のピエールには戦の才はない。
とても覇道を歩めるような性格をしていない。
内政には光るところがあり、太平の世であれば名君と謳われたかもしれない。
だが、今は戦乱の世だ。
皇国を征服したところで、次は東のロレーヌ王国、西のヴュルツブルク大公国が待ち構えている。
この時代を生き延びるには、ピエールは温和すぎた。
だが――長女クレマンティーヌならば違うのではないか。
自分の血を濃く受け継いでいるこの子ならば、あるいは――。
そんな仄かな期待があって、フィリップはクレマンティーヌを戦地に連れてきた。
だからこそ、戦闘の気配に怯える娘に身勝手な失望を覚えたのだが――。
――こんなことなら連れてくるのではなかった。
自分の身勝手な願望が、愛娘を死に至らしめたのだ。
その瞬間、フィリップは完全に自失していた。
このときシャルルがフィリップに襲い掛かっていれば、彼は間違いなく命を散らしていただろう。
だが、シャルルのほうにも限界が訪れていた。
「隊長、両翼の歩兵が回り込んできます! このままでは退路を断たれます!」
カトーの絶叫が、フィリップに襲い掛かろうとしていたシャルルの動きを止めた。
――潮時か。
シャルルの判断は素早かった。
アジャンクール王殺害はシャルルの任務には含まれない。
ここで無理をする必要はない。
「退くぞ!」
シャルルは大声で命じた。
足元に倒れ伏していた敵の女を、素早く担ぎ上げる。
バルディッシュを振り下ろそうとしたとき、彼女が悲鳴を上げたおかげで、女だと分かった。
アジャンクール王家の紋章を縫い付けた外衣からして、王族だろう。
シャルルは咄嗟にバルディッシュの柄で彼女の頭を殴りつけていた。
「隊長、その馬を!」
シャルルはカトーの指さした方向を一瞥した。
敵に殺された味方騎兵の乗馬だろうか。
鞍を空にした馬が一頭、佇んでいた。
肩に担いでいた女を、カトーに放り投げた。
「そいつを連れて、先に戻れ! 私もすぐに行く」
――こいつは逃げるときに人質になるかもしれない。
咄嗟にそう判断してのことだった。
シャルルは王の周りを固める近衛兵には目もくれずに、邪魔な敵兵を蹴散らしながら馬に駆け寄った。
「クレマンティーヌ!」
アジャンクール王のものと思われる絶叫が響いた。
シャルルは振り向きもせず、馬にまたがった。
たちまち、敵歩兵がシャルル目掛けて殺到する。
「逃がすな! 追え!」
詰め寄せる敵兵を薙ぎ払いながら、強引に血路を切り開く。
次々に押し寄せる敵兵を蹴散らし、馬体を隙間に押し込むようにして、シャルルは敵陣を突破した。
なおも左右からは戦列を構成していた歩兵が続々と迫ってくる。
一刻の猶予もない。
シャルルは馬に鞭をやり、平野を一気に駆け抜けた。
先に逃げた黒騎兵たちが矢を放ちながら、シャルルの撤退を援護する。
彼らのもとにたどりつくと、シャルルは「総員撤退」と大声で命じた。
セーヌ方面を目指して、黒騎隊は街道を一気に駆け抜ける。
落ち延びる味方歩兵を追い抜き、シャルルたち一行はひたすらに退却した。
陽は既に傾き、空は紅に染まっていた。
戦場となった丘の斜面は、赤光に塗りつぶされた無数の死体が横たわっていた。
「作戦は成功よ、シャルル」
セーヌ方面に向かって進むことしばし、茂みからクラリスとミヨが飛び出してきた。
クラリスはすっとシャルルに馬を寄せた。
「リシャール殿下は近衛数騎と一緒に、少し前にお逃げ遊ばしたわ」
「そうか」
「それよりも、カトーが連れているその白い人は何?」
ミヨが割り込んだ。
「ああ。アジャンクール王の隣にいた女だ。王家の紋章をつけていたから、王族だと思う。敵陣を突破できるか危うかったんでな、いざというときの人質にしようと思ってさらってきた」
シャルルはちらっと後ろを振り返った。
カトーは女を鞍の上に乗せていた。
まだ目覚める気配はなかった。
「ねえ、クラリス。アジャンクール王家の若い女って誰がいるの?」
「私もあまりよくは知らないわ……。アジャンクール王には娘が一人、いたはずよ。もしかしたら、その子かしら……」
クラリスは首をかしげた。
「ふーん。まあ、もしそうなら身代金をたんまりと取れそうだね。でも……敵の追撃が厳しいかもしれないなあ……。下馬騎士は追撃戦のときは騎乗するのが普通だから、追いつかれるかもしれないし……。あー、しまったなあ。撤退のこと、あんま考えてなかったわ」
ミヨは詰めを誤ったことに気付き、ほぞをかんだ。
撤退のことを計算に入れるのは、戦術の基本。
だが、ミヨは眼前の戦闘を見るのに手一杯で、そこまで頭が回らなかったのだ。
いっぱしの軍師を気取ってみても、素人の付け焼き刃ではここらへんが限界か。
ミヨは顔をしかめた。
「街道を逸れて山に潜むか? そうすれば、アジャンクール王が追撃してくるとしても、そうそう簡単には捕捉されないと思うぞ」
シャルルの提案に、ミヨは首を振った。
「いや、折角セーヌ公が逃げ延びたんだし、まずは公に合流しよう。シャルルは気付いていないかもしれないけど、シャルルたちが敵陣をさんざん掻き乱したせいで、皇国軍は敵陣中央と左翼の間を斜めに突破して逃げることが出来たんだ。あのときは、皇国軍も死にものぐるいだったし、敵も混乱して結構な被害を出していたように見えた。だから、敵も本格的な追撃態勢を整えるのに、それなりに時間がかかると思う」
「ミヨ、どうにか追撃を食い止められないかしら? このままでは、歩兵たちは逃げ延びられないかもしれないわ」
クラリスは街道を逃げる歩兵たちを追い抜きながら、目を伏せた。
ミヨはちらりと空を見上げた。
太陽は西に沈みつつあった。
間もなく、日が暮れるだろう。
逃げるものに恵みをもたらす夜が間近に迫っていた。
ミヨは、素早く計算を巡らせた。
逃げる敵兵を追撃しようとして、逆に痛烈な反撃をくらった例は、戦史上いくらでもある。
「この先、街道は狭まって、両側から山裾が迫る場所があったね、たしか?」
「ええ。なだらかな峠道になっていたわね」
クラリスが同意した。
「そこで罠を仕掛けよう」
「わな?」
「うん。でも、そのためには、セーヌ公から殿の許可をもらわないと」
自分の考えに没頭しているミヨに、クラリスは同意した。
「分かったわ。私の馬はまだ飛ばせる。一足先に進んで、セーヌ公に殿の役を授けてくださるよう、お願いしてみるわ」
「あ、あたしもついていくね。シャルルたちの馬はかなり疲れているだろうし、無理させないで。この先の峠道を登ったあたりで待っててよ」
ミヨはそう言うと、馬に鞭をくれた。
クラリスがそれに続き、二人は見る間にシャルルから遠ざかっていった。
「隊長?」
二人が去ると、入れ替わりにカトーがシャルルに並んだ。
「今聞いたとおりだ。この先の峠道を上りきったあたりで、休止して二人を待つ」
シャルルはカトーのほうを向いて、そう告げた。
「分かりました」
「何騎死んだ?」
皮膚から湯気を出して走る馬に気遣い、シャルルは速度を落とさせながら、カトーに問いかけた。
「二十九騎、欠けています」
つまり、あの短時間の戦闘でシャルル麾下の部隊は三割近い損失を出した、ということになる。
「そうか……」
シャルルが寝る間も惜しんで育て上げた騎兵たちだった。
今まで部下の生き死になど、興味はなかった。
けれども、今回は違う。
戦場で死ぬのは当たり前とはいえ、自分が心血注いだ部下が三割も消えたと聞いて、シャルルは意気消沈した。
潤沢とは言えない資金を惜しげもなく使って、育て上げた騎兵だ。
クラリスとミヨに申し訳ない。
もっと戦場をよく見て、退却の時期を逃さなければ、救えた命もあったのではないか。
そんな気がしてならない。
――もっと戦に巧くなりたい。強い弱いというよりも、巧くなりたい。
そんなシャルルの思いをよそに、空には一番星が輝きはじめていた。