第一章 プロローグ
皇国最北端の都市ブランシュを出て十日あまり。
シャルルたち三人は、カスティヨン皇国東北部に位置するヴェルヌイユ領に到着しようとしていた。
山裾を縫うようにして流れる小川に沿って、かろうじて小さな馬車が一台通れるくらいの山道が一筋、一行の眼前に伸びている。
その向こうには、頂を純白に染めた高い山々が、人々の往来を拒むように聳え立っている。
道を覆い隠すように天に伸びる針葉樹は、日中だというのに陽光を遮り、陰鬱な雰囲気を醸し出している。
左手を流れる小川は、ときおり水飛沫と冷気を三人の顔に投げかけては、ミヨの顔をしかめさせていた。
「この山道の先がヴェルヌイユ領よ。もうすぐ着くわ」
疲れを滲ませながらも、すこし浮き浮きとした声でクラリスはミヨに囁きかけた。
「その台詞、もう何度も聞いた気がするよ」
一人では乗馬できないミヨは、クラリスに半ば抱きかかえられるようにして馬に跨がったまま、不平をこぼした。
馬に慣れていないせいで、疲労がかなり溜まっているようであった。
クール盆地から撤退する途中で手に入れた馬は、女性二人を背に乗せながらも、二人とは対照的に、まるでへばった様子を見せずに傾斜のきつい山道を黙々と歩む。
全身を黒鋼で固めた上にすっぽりとローブで身を包んだシャルルが、二人の右隣を音を立てずに歩いていた。
右肩に抱えるようにして長大なバルディッシュを持っているが、疲れた様子はまるでない。
「ほら……シャルルはずっと歩き通しなのに、耐えているじゃない。ミヨもあと少しの辛抱よ」
クラリスは幼児のように不満たらたらのミヨを宥めた。
「シャルルはいいの……。だいたいさ、寒村だとは聞いていたけど、こんな山の中にあるとは思わなかったよ、クラリスの領地」
げっそりとした表情で、ミヨは溜息をついた。
「あら、山裾にあると言ったはずよ?」
「クラリス……これは山裾とは言わないよ。山裾ってのは山の麓のことじゃないの? ちょうど昨日泊まったオルセーみたいにさ。これはどう見ても山中でしょ」
「そんなことはないわ。ここはまだローヌ山脈の入り口みたいなものよ。本当の山中はもっとはるかに厳しいわ。馬なんかじゃとても歩けないくらいよ」
「さいですか……。ああ、文明からどんどん切り離されていく気がしてならないよ。冬は雪で道が埋まりそうだし」
ミヨは大袈裟に身震いした。
「あと一月もしたら雪が積もるでしょうし、そうなったらオルセーに出るのも一苦労になるわね」
「雪で孤立するってのに、よくそんなに平然としてられるね」
十日前とはうって変わって不満しか口にしないミヨに、クラリスは苦笑した。
「慣れているせいね、きっと」
冬の気配を漂わせている空気が、湿気に混じって低い轟きを伝えてきた。
三人が歩を進めるにつれて、次第次第に大きくなっていく。
「これ、何の音?」
ミヨは顔を上げた。
「大滝よ。この向こうはもう、うちの領地よ」
クラリスの声に懐かしさが滲む。
大滝という言葉にミヨが反応した。
興味深そうに前方を見つめる。
歩くことしばし、坂道を登り切った三人の眼前に飛び込んできたのは、人の背丈の五倍はあろうかという滝であった。
絶壁を流れ落ちた水は大きな池をつくり、そこから流れ出た水が小川となって山中を下っている。さきほどまで三人の左わきを流れていた小川だ。
「あの滝壺には大きなマスがいるらしくて、夏には子ども達がよく釣りに来るわ」
「へえ……」
「さあ、この滝を迂回したらうちの城が見えるわ。もう少しよ」
クラリスの励ましに、ミヨはかすかに頷いた。
滝を離れて蛇行する山道を登ることひととき。
山道を登り切った三人は、急に射し込んできた西日に目を細めた。
それまでの山道が鬱蒼と茂る針葉樹に覆われて薄暗かっただけに、太陽の光が一際網膜に負担をかけたようだった。
目をしばたたかせていたミヨは、目の前に広がる光景に、「おお」と感嘆の吐息を漏らした。
小川を中心に、扇状になだらかな斜面が広がっていた。
木々はまばらで、視界は大きく開けている。
斜面の中程には煙突から煙を出す家々が、西日を浴びて朱く染まっていた。
そのさらに向こうに視線を移すと、小さな丘の上に城が聳え立っている。
ちょうど山の陰になっていて、正確な形は判別できないが、こんな山腹の小村には不釣り合いなほど堅牢な造りになっている。
ミヨはしばし見とれていた。
「どう? 悪くない眺めでしょう?」
クラリスは自慢げに少し鼻を膨らませた。
「たしかに……。昔泊まったアルプスのロッジを思い出すよ。夏は気持ちいいだろうなあ」
「夏はあたり一面に色とりどりの花が咲き乱れるわ。平地と違って暑くもないし、本当に過ごしやすいのよ」
「だろうねえ」
「さあ、もう一息よ。暗くなるまえに城に着くわよ」
一刻も早く家に帰りたいとばかりに、クラリスは馬の腹を軽く蹴った。
馬はクラリスの要求に素直に応じ、駆け足になる。
それに釣られるように、シャルルも馬の後ろを走り出した。
「クラリス、シャルルが着いてこれないよ。城は逃げないんだから、ペースを落としなよ」
ミヨは飛び込んでくる風に身を震わせた。
クラリスは聞く耳を持たない。
「シャルルなら大丈夫よ。ねえ?」
そう言って、後ろを振り向いた。
シャルルは顔色を変えずに「ああ」と応じた。
三人は川に沿って一直線に伸びる道を走った。
たちまちのうちに、村の入り口を通り過ぎた。
籠や道具袋を手に抱えて歩く村民たちが、何事かと振り向く。
「なんだなんだ」と誰何の声を上げる男たちもいたが、クラリスは取り合わない。
急に道が開け、数百人程度の村民が全員集まれるくらいの広場が現れる。
広場の真正面には煉瓦造りの教会。広場を取り囲むように、見るからに裕福そうな家々が軒を連ねている。
この村の中心部だ。
籠を頭にのせた女たちが、あちらこちらに固まって世間話に興じている。
それらの光景に見向きもせずに、クラリスは馬を走らせる。
三人が広場を通り抜けようとしたところで、突如としてよく通る声が響いた。
「クラリス様? クラリス様ではありませんかな?」
さしものクラリスも声のほうに向き直り、問い掛けてきた人物を認めるや、大慌てで手綱を引いた。
馬がいななき、後ろ足で立ち上がるようにして立ち止まった。
「クリストフ司祭!」
クラリスは嬉しそうに叫び声をあげた。
「クラリス様、ご無事でなによりです」
司祭の叫び声を聞いたのか、女たちは皆、井戸端会議を中断して、クラリスたちのほうをみていた。
「これも神のご加護があったからですわ、クリストフ司祭」
「有り難いことですな。ときに、ジャンやほかの者たちの姿が見えませぬが」
司祭が語りかけたとき、突如として強い風が地表を撫でた。
シャルルのフードがめくり上がり、黒い短髪が露わになった。
「彼らとは、戦地で離ればなれになってしまいました。生きていればよいのですが……」
心痛を湛えたクラリスの声に、かん高い悲鳴が被さった。
「黒髪よっ!」
突如として、空気が凍った。
立ち所に全てを悟ったクラリスは、しまったという表情をした。
「鬼よ。クラリス様が鬼を連れて来なすった」
女たちが口々に大声を上げながら、慌てふためいたように広場から逃げ出した。
「ここはいいですから、早く城へ」
司祭は厳しい表情でクラリスに告げた。
「このことはいずれ後ほど……。行くわよ、シャルル」
クラリスは馬の脇腹を蹴った。
勢いよく走り出す馬に続き、シャルルも走り出す。
司祭は厳しい表情をしたまま、立ち尽くしていた。
村を走り抜けたところで、フードを押さえたまま馬上で縮こまっていたミヨが口を開いた。
「こんな田舎でも、黒髪ってだけであそこまで強烈な反応が返ってくるのかあ」
「大陸中どこでもこんなものよ。司祭が落ち着いていただけ、だいぶマシだわ」
クラリスの口元は険しい。
「たしかにね……。あの司祭、シャルルのこと見ても、別段怖がっていないように見えたよ。村民のパニックを宥めるために、あたしたちを立ち去らせた感じがした」
「クリストフ司祭はサン大学で神学を学んだ学士よ。町娘のように慌てふためいたりはしないわ」
「それは助かるね。村中敵だらけだと、いつ寝込みを襲われるか分かったもんじゃないしね」
クラリスは強ばった表情のまま頷いた。
「さあ、一気に丘を登るわよ。舌を噛まないようにしてね」
馬は川沿いの道を離れ、右に進む。
道が石畳に変わり、傾斜が急になる。
ミヨとクラリスをのせた馬はペースを乱すことなく、丘の外周を一周するように弧を描く急勾配の坂道を、一気に登り切る。
少し遅れてシャルルがあとに続いた。
坂道を登り切ったところに、突如として威圧的な城門塔が姿を現した。
皇都にある三階建ての建物の屋根と同じくらい高い。
左手には絶壁が迫り、右手には城壁が訪れる者を見下ろしている。
ルマンやブランシュほどに堅牢ではないが、山賊や地方領主軍が相手なら数ヶ月はゆうに持ちこたえられそうな城塞だった。
固く閉ざされた門扉に向かい、クラリスが声を張り上げた。
「フランソワ・ド・ヴェルヌイユが長女、クラリス。アジャンクール軍との戦いより帰還したわ。直ちに門を開けなさい!」
門扉の向こうに足音。人の気配が漂う。
門扉の中程にしつらえられた細長い覗き穴が開き、人の気配がいっそう濃くなる。
「フィリップね。クラリスよ。この二人は私の部下。早く城門を開けなさい」
クラリスが再度命じる。
「ただちに」
扉の向こうからくぐもった声が響き、覗き穴が閉じた。
金属製の閂が外されるかん高い音が空気を震わせ。
ギギィという重々しい響きとともに、分厚い木で出来た門扉がゆっくりと口を開けた。
大柄の門番がカンテラを片手に、城門より姿を現した。
「お嬢様、ご無事でなによりでございます」
唸るように低い声でクラリスの帰還を歓迎した。
「そこのお二方はお連れの方でございますね……? ジャンやアランの姿が見えませんが……」
「彼らとは戦場で別れて、散り散りになってしまったわ。ひどい負け戦だったのよ」
「さようでございましたか……。旦那様もお喜びになるでしょう。どうぞお入りください」
そう言ってクラリスを招き入れるフィリップに頷き、クラリスは馬を降りた。
「ここからは歩いて行くわ」
そう言って、彼女はミヨの下馬を助けた。
ミヨが馬からすとんと降りると、クラリスはフィリップに馬の手綱を渡し、厩舎に預けておくよう命じた。
「まずはお父様のところに行くわ」
そう二人に告げるや、クラリスは中庭を突っ切るように進み、主館の扉を叩いた。
フードを目深にかぶったシャルルとミヨが後に続く。
ほとんど間を置かずに、扉が勢いよく開いた。
「クラリス様」
感極まったような声を上げる老人に、クラリスは苦笑した。
「そんなに大声を出さなくても逃げはしないわよ、じい。積もる話もあるけど、まずはお父様のところに行くわ」
「はい。それがよろしゅうございます……。ときに、こちらのお二方はお嬢様のお連れの方でございますか?」
「ええ、そうよ」
「申し訳ありませんが、かぶり物を脱いでいただきませんと、館内にお入れするわけには参りません」
「彼らのことなら私が保証するわ。ちょっと容姿に障りがあるから顔を隠してもらっているだけよ」
クラリスが少し語気を強めた。
「お嬢様がなんと仰ろうと、お顔も拝見せずに旦那様のもとにお通ししては、城代の名折れでございます」
老人は頑として道を譲ろうとしない。
「私が問題ないと言っているのよ」
「だめなものダメです」
クラリスがどれほど睨みつけても、老人は少しもひるまない。
ミヨは二人のやりとりを無言で眺めていたが、いきなりフードに手を掛けた。
「どうせすぐに分かることだし、問題ないよね?」
そうつぶやくと、クラリスの制止の声も聞かずに、一気にフードを降ろした。
黒い長髪が館内のロウソクの光を吸って煌めく。
「黒い……髪……」
呆然と呟いてよろめく老人を尻目に、シャルルもフードを降ろした。
短く揃えた黒い短髪が、再び外気に触れる。
クラリスは、ミヨとシャルルがフードを降ろしたことに呆気にとられていたが、すぐに我を取り戻した。
「これで問題ないはずよね、じい。お父様のところに行くわ」
クラリスは老人のわきを通り過ぎて、右奥にある階段に向かった。
ミヨとシャルルが無言で続こうとする。
老人は我を取り戻し、ほとんど悲鳴に近い声を上げた。
「問題あるに決まっているじゃありませんか、お嬢様。一体全体、これはどういうわけです? なぜ黒髪の者をお連れになったのです?」
老人の切羽詰まった声に、あちこちから使用人が顔をのぞかせ、本物の悲鳴を上げながら顔を引っ込めた。
「何てこと、黒鬼よ! この城はもうお仕舞いだわ」
「呪われてしまうわ」
下女の叫び声が新たな連鎖反応を呼び起こし、館全体に広まっていく。
クラリスは辟易したように大きく溜息をつくと、シャルルとミヨを階段に引っ張っていった。
「お待ちください」
なおも言い募る老人を鋭く睨みつけると、クラリスは階段に右足を伸ばした。
「だから二人のフードをとらせたくなかったのよ。……二人のことについては、お父様にきちんと説明するわ。どうしても気になるというなら、じい、あなたも来なさい」
彼女は振り返りもせずに、階段を上り始めた。
シャルルが続く。
「いくらなんでも、これは少し変だ……。黒鬼が来ただけで城が終わるっていうのは何なんだ……」
ミヨは独り言のようにぶつぶつと呟きながら、二人の後に続いた。
クラリスは二階を通り過ぎ、三階の廊下を突き当たりまで真っ直ぐに進んだ。
丈夫な木製の扉をドンドンと叩き、「クラリスです、只今戻りました」と告げる。
「入れ」という男のしわがれた声が聞こえるや、彼女はドアを力強く開いた。
室内右奥の寝台に、初老の男が一人、横になっていた。
男の枕元に、初老の女が一人、付き添っている。
「クラリスか……。よくぞ無事に帰ってきたな」
男はしわがれてはいるが暖かみのある声で、クラリスの帰還を歓迎した。
クラリスに続いて室内に入ってきた二人の黒髪の者をみつめ、
「ふん、黒髪が二人もか」
と蔑むようにつぶやく。
三人の後に、クラリスが「じい」と呼んだ老人が続き、扉を閉めた。
「お父様、アジャンクールより無事に戻りました」
クラリスの声は喜びに弾んでいた。
「よくぞ戻ってきたな、クラリス。積もる話もあるだろうが、まずは他の者はどうしたのか、そこにいる二人の黒髪は何なのか、話せ」
威厳のある声で命じられ、クラリスは姿勢を正した。
彼女はそのままの姿勢で、皇国軍がクール盆地で大敗し従士たちとは離ればなれになったこと、死の危機に瀕したところで二人に助けられ何とか生き延びたこと、シャルルに金五十枚の支払いを約束したことなどを告げた。
「そうか……。希に見るほどの大敗だったというわけだな?」
フランソワは目を閉じた。
「はい。あの様子では、アジャンクール王はすぐにも皇都まで押し寄せてくると思います」
「敗戦のさなかに従士とはぐれてしまったのは仕方がない。本来ならば何があろうともお前の傍を離れてはならんはずなのだ。それを好き勝手に逃げだしおって……。何のための従士かまるで分からんわ」
それっきり、フランソワは黙りこくった。
「……お父様、シャルルに約束した金貨のことなのですが……」
クラリスはフランソワの機嫌をうかがいながら、慎重に切り出した。
「ん……? ああ、もちろん払うとも。ヴェルヌイユ家の者はいつだって契約に忠実だ……。わかったな、リュシアン?」
フランソワは、シャルルの後ろに控える老人に念を押した。
「はい……。ただちに金貨をご用意いたします」
退室するリュシアンを見送ると、フランソワはシャルルを見つめた。
「シャルルといったか……。お前はどうするのだ? 金貨五十枚はすぐに渡そう。それを手にしたら、お前は出て行くのか?」
「お父様、それについては……」
「私は今、シャルルと話している」
フランソワは、口を差し挟もうとする娘を一蹴した。
「私はこのままクラリスのもとにとどまろうと思う」
ヴェルヌイユ領についてから全く口を開かなかったシャルルだったが、はじめて自らの意図を口にした。
「ほう……。それは何故だ? うちはこの通り豊かとは言い難い。ルイ陛下とはちがい、俸給は支払えんぞ」
フランソワは器用に片方の眉をひそめた。
「私にはまだまだ戦士として学ぶことが多い」
「戦士とは何たるかを学びたいだと! しかも、ルイ陛下のもとでは学べず、我が娘のもとでなら学べると。お前、そう言いたいのか」
病に冒されているとは到底思えないような大音声で、フランソワは一喝した。
「そうだ。これは、クラリスとミヨがいなくては、なしえないことだと思っている」
シャルルは、殺意すら感じさせるほどに濃密なフランソワの視線を真っ向から受け止めた。
「……ふん。勝手にしろ。だが、ヴェルヌイユ家からはびた一文たりとて金はださん」
しばらく睨み合ったのちに、フランソワはそう吐き捨てた。
「問題ない」
二人の間で合意が成立したことに、クラリスはあからさまな安堵の溜息をついた。
「それでミヨと言ったか、お前もそこのシャルルと同じか?」
「はい、そーです」
「そうか……」
それっきり口を閉ざしたフランソワに、ミヨは問い掛けた。
「あのー、あたしからも聞いていいですか?」
「なんだ」
「フランソワ様は黒髪の者を見ても、まったく怖がっているように見えません。村の司祭も、さきほどのリュシアンさんもそうでした。どうしてです?」
「ミヨ」
窘めるようなクラリスの声を無視して、ミヨはフランソワを見つめた。
「なぜ髪の色が黒いだけの者を一々恐れねばならんのだ?」
フランソワから逆に問いかけられ、ミヨはしばし絶句した。
「え、いやー、だってですね……。来る途中、黒髪を見た人はみんな、天地がひっくり返ったような大騒ぎをしているんですよ。そんな中で全く怖がってない人がいたら、その理由が気になるじゃないですか」
「ふん……。愚弄するのも大概にせよ、小娘。そのような有象無象と、このフランソワ・ド・ヴェルヌイユを一緒にするでない。何を恐れねばならぬか、そんなことまで一々他人から教わらねばならぬほど落ちぶれてはおらぬわ」
実に堂々とした受け答えであった。
ミヨは困惑したように考え込んでいる。
「気が済んだら、クラリス以外の者は皆退出せよ。エレオノール、そなたもだ」
「はい」
女性はフランソワの枕元から静かに立ち去り、扉を開けた。
シャルルとミヨも黙って続く。
部屋の内側から、クラリスがバタンと扉を閉める音が聞こえた。
「ねえ、どういうことだと思う?」
女性が立ち去るや、ミヨはシャルルに語りかけた。
「どう、とは?」
「決まってるじゃない。なんでここまで黒髪の者に対する反応に差があるのかってことだよ」
「さて、考えたこともないな。今までそういうものだと思っていた」
「かー。やっぱこういうときはシャルルは当てにならないなあ」
そう言って頭をかきむしっていたミヨだが、手を止めた。
「ねえ、シャルル。今なんて言った? 『今までそういうものだと思っていた』ってどういうこと?」
声が緊張している。
「どういうことと言われても、そのままの意味だ。黒髪を見て恐れおののく者もいれば、大して気にしない者もいる。その理由など一々気にしたこともない」
シャルルはミヨの剣幕に少したじろいでいるようだった。
「なんでそういう大事なことを最初に言わないのっ」
「別に大事でも何でもないだろう?」
「大事に決まっているじゃないか。なんで黒髪の者が一部の人からここまで恐れられるのか、その理由を解明するヒントが隠されているかもしれないじゃないか」
「そんなこと、考えもしなかったよ」
「少しは考えようよっ。……いや、今ここで言ってもはじまらないや。で、シャルル、どんな人がシャルルのことを怖がらなかった?」
「どんな人と言われてもな……。ああ、陛下には何度か謁見したが、怖がっている様子は全くなかったぞ。他の皇族もそうだった」
「皇族かあ。つまりは、身分の高い者ほど黒髪の者に恐怖したりはしない、と。ああ、司祭のことも考え合わせると、貴族と聖職者は恐れないと考えておくのが正解かな。でも、それだけじゃない気もするんだよなあ……」
ミヨはそう言ったきり、フランソワの寝室の前で、クラリスが退室するまで考え込んでいた。
「あら……。二人とも、こんなところで待っていなくてもいいのに」
クラリスは苦笑しながらフランソワの寝室の扉を閉めた。
「いやー、どこにいればいいかわからなかったしね」
ミヨの言葉にシャルルも頷く。
時折視線を感じるが、触らぬ神にたたりなしとばかりに、誰も近寄ってこようとしない。
「二人は厩舎の隣の物置小屋に泊まってもいいと、お父様からお許しをいただいたわ。本当は客間にしたかったんだけど、二人は客人でも何でもないとお父様が……」
クラリスは詫びるような顔で告げた。
「押しかけたのはこっちなわけだしね。屋根のあるところに泊めてもらえるだけでも満足だよ」
「そうだな」
「食事なんかは私が運んでいくね。城内ならどこに行ってもいいけれど、下男や下女たちは迷信深いから、ちょっと注意していてね」
「心得た」
要するに皇都で生活していたとおりにしていればいいわけだ、とシャルルは頷いた。
「まあ、あの反応を見る限り、そうするしかないよねえ」
ミヨは肩をすくめた。
「で、二人でどんな話をしてたわけ? これからの方針なんかについても、少しは話題になったんでしょ?」
少し身を乗り出すようにして、ミヨは尋ねた。
「ええ、もちろん。でも、ここで話すようなことでもないわ。小屋についてからにしましょう」
人目を気にするようにクラリスは告げ、廊下を歩き始めた。
主館を出た三人は、すでに真っ暗になっていた中庭をつっきり、城門近くの粗末な小屋にたどりついた。
左手にカンテラを持ったクラリスが、右手で薄い木製のドアを開ける。
カビくさい臭いが三人を出迎えた。
クラリスがカンテラを壁に掛けると、小屋の様子が見渡せた。
「厩舎から藁を持ってくるわ。ちょっとカビ臭いけど、今晩はこれで我慢してね。明日、三人で大掃除しましょう」
クラリスは済まなそうな声で提案した。
「うー。でもまあ、野宿よりは大分マシだしね。ありがとう、クラリス」
ミヨはカビの臭いに顔をしかめながらも、クラリスに礼を言った。
「皇都で住んでいたところと大差ない」
シャルルは別段気にしなかった。
実際、物置小屋としては上等な部類に入る。
建て付けも案外しっかりしているようで、雨露は十分にしのげるだろう。
物置小屋にしては物が少なく、一通り掃除はされている。
小屋の隅に大工道具や掃除用具などがまとめられているだけで、大人が数人横になれるだけのスペースは十分すぎるほどある。
「厠は馬小屋の反対側にあるわ」
「オーケー」
「とにかく、わらを持ってきて寝床をつくりましょう」
クラリスの提案にしたがって、三人は隣の馬小屋から藁を持ち出し、石畳の床に敷き詰めた。
「それにしても、よく城内に石畳を敷き詰めるだけのお金があったね、クラリスのご先祖様。この城も地方領主のものにしては随分と立派だし……」
せっせと藁を敷き詰めながら、ミヨがしみじみと呟いた。
「ああ、それはね。この城が何百年か前に当時の王から私のご先祖様に授けられたものだからよ。その当時、東側から山脈を越えて異教徒が押し寄せてきたことがあったらしくて、異教徒に対する備えとして当時の王がここに城塞を造ったらしいの。で、当時、戦上手で鳴らしていたご先祖様が城の管理を任されたというわけよ。これがヴェルヌイユ家のはじまり」
「なるほどねえ。それにしても、異教徒もいるのかあ」
「ええ。何度か諸王たちが再征服に乗り出して、今ではロレーヌ王国の東に退いているわ。今の教皇猊下は再度の聖戦に大変ご熱心だという噂だけど、王たちは今一つ乗り気じゃないらしいわね」
「ふーん。そこらへんの事情も、詳しく知っておきたいなあ」
「また今度ね。クリストフ司祭は歴史にも詳しいから、一度話を聞いてみるといいわ」
クラリスは敷き詰め終わったばかりの藁の絨毯に腰を下ろした。
「是非とも話を聞いてみたいね」
ミヨもクラリスに釣られたように絨毯に横になった。
それを見て、シャルルはプレートアーマーを脱ぎだした。
あとは話をして寝るだけだ。
十日以上着通しだったので、いい加減脱いでしまいたいという思いは強かった。
プレートアーマーをはずし、チェインメイルを脱ぐと、残すはフェルトの下着とズボンのみとなる。
シャルルは甲冑一式を小屋の隅に寄せ、藁をかぶった。
少しちくちくとするが、藁が体温を逃さずに、疲れ切った躰を温めてくれる。
クラリスはそんなシャルルの様子をいたわるように眺めていたが、再び口を開いた。
「それで、お父様と話してきたことなんだけど」
藁の上でごろごろとしていたミヨは動くのをやめて、クラリスを見上げた。
「明日の朝に皇都に早馬を出して、様子を探らせると仰っていたわ」
「それは願ってもないことだね。こんな田舎にいたんじゃ、中央の様子がどうなっているか、まるで分からないもん」
「そうね。今後わたしたちがどう動くかはその情報次第だけど、お父様はわたしにお任せくださるそうよ」
クラリスは嬉しそうに告げた。
「へえー。珍しいご領主様だねえ。普通、娘に一族の命運がかかるような大事を一任したりはしないでしょ?」
ミヨは驚きをあらわにした。
シャルルも意外の念を禁じ得なかった。
優秀な婿養子を探して一族の存続に腐心するのが、嫡男を持たない貴族の常だ。
その常識からすれば、すべてをクラリスの自由にさせるというのは、非常識と呼ぶほかない。
「私もお父様と一騒動あるかと思っていたわ。でも、お父様に言われたの。『俺はもう長くはない。お前には良い婿をと考えてほうぼう探し回ってみたが、どいつもこいつもこのヴェルヌイユのことをまるで考えていないような輩ばかりだった。そんな奴らに先祖伝来の地を委ねるくらいなら、お前に女領主として統治させたほうがマシだ』って」
クラリスは、フランソワの威厳たっぷりな声を真似してみせた。
「はー。変わってるねー」
ミヨはしみじみとつぶやいた。
「私の夫にと名乗りを上げた近隣の領主の次男坊三男坊が、よほどひどかったのね。私にとっては、嬉しい誤算だったわ」
クラリスは苦笑しながら、そう言った。
「ふーん。それで、どこまで話したの? 従兄弟を殺して伯爵家を乗っ取ろうと思ってます、ってとこまで?」
「さすがにそこまでは言えないわよ。ただ、もし皇都が陥落したら、ここらへんも無法地帯になるでしょうし、それに備えて戦の準備をしておくべきとは言ったわ。お父様も了解してくださった」
「まあ、妥当なとこだよね。あとは、その使いの人が皇都の情報を持ち帰ってからの話だね」
「そうね。早馬だから、往復二十日くらいだと思うわ。父は明日にでも村長に戦の準備について伝えてくれるそうよ。そうなれば、いざというときは村民たちが槍を持って従軍してくれるはず」
「あ-。軍役だね」
「ええ。村が危険にさらされたときに限るけれど、村の男たちを動員する権限がヴェルヌイユ家にはあるの。異教徒の侵攻に脅かされていた初代が、当時の村民たちと取り交わした契約よ」
「でも、それだと遠出は無理だね」
「そうね。契約文では男たちに参戦義務があるのは、隣の領地までとなっているわ。だから、アジャンクール侵攻みたいな大遠征は、領主の従士たちしか連れて行けないのよ」
「なるほどねえ。まー、今後どうするにしても、ひとまずは皇都の様子を把握してからになりそうだねえ。火事場泥棒的に動こうにも、状況が動くのはこれからだろうし」
「そうね。二人とも、それまでは好きにしていていいわ」
そう言って、クラリスは立ち上がった。
食事を持ってくるわね、と言って立ち去るクラリスの足音を聞きながら、シャルルは深い眠りに落ちていった。
それからの二十日間は、久しぶりに落ち着いたものとなった。
ミヨは連日のように城に司祭を招き、歴史や神学、果ては哲学まで、ありとあらゆる分野で司祭を質問攻めにしていた。
シャルルは物置小屋を修繕し、ついでに材木と藁で簡単な寝台、テーブル、イスを拵えた。
さらに、どうしても風呂に入りたいというミヨの強い要望に応えて、大きな木製の桶をつくり、大釜で沸騰させた水を注ぎ込んで即席の風呂を作り上げた。
その合間合間に、ミヨから戦争術について講義を受けた。
たいてい、クラリスもシャルルと一緒にその話を聞いた。
「古代の重装歩兵から近世のグスタフ・アドルフまで軽く押さえておけば、基本は大丈夫なはず」
ミヨはそういう考え方のもと、二人に戦史についてのレクチャーをほどこしていった。
それは、シャルルにとって、生まれて初めて体験する濃密なひとときであった。
講義といっても、ミヨが一方的に話すだけではない。
政治状況を解説した後に、シャルルだったらどうするか、クラリスならどう動くか、一つ一つ問答形式で検討していくのだ。
シャルルは、レウクトラの戦いでエパメイノンダスが見せた戦術の妙に感嘆し、ハンニバルの芸術的とも言える包囲戦術に舌を巻き、エドワード三世や黒太子の長弓戦術の要諦を学んだ。
少数のオランダ軍でスペインの大軍に勝つために、オラニエ公マウリッツが導入した軍制改革は、シャルルには信じられないほど斬新なものに見えたし、ヴァレンシュタインの軍税制度にいたっては、そんな発想があること自体、信じられなかった。
もちろん、シャルルが目にしたことのある戦術も多かった。
だが、その戦術的意義については、これまでシャルルは全く理解できていなかった。
知れば知るほど、濃霧が少しだけ晴れたような浮き浮きとした高揚感がシャルルを包んだ。
――軍学とはこんなにも面白いものなのか。いや、他人との対話を通じて知識を得ることは、これほどまでに楽しいものなのか。
シャルルは、ミヨとの会話にのめり込んでいった。
城の者たちがシャルルたちを徹底して避けていることは明らかであったが、シャルルはいつものこととして気にも留めなかった。
そうこうするうちに二十日が過ぎ――。
驚愕すべき情報を携えた早馬が、ヴェルヌイユ城に飛び込んできた。
曰く、皇都カスティヨンは家宰の裏切りにより陥落。
オルセー伯をはじめとして、主立った貴族は次々にアジャンクール王に鞍替えしているという。
さらに、皇国全体の秩序解体に乗じて、オルセー伯はヴェルヌイユ家に臣従を強要しようとしているという話が、オルセーの大市でこの秋最後の仕入れをした村人たちからもたらされた。
臣従を拒否する場合、ヴェルヌイユ産の羊毛をオルセー市で販売することは認めないという。
そうなっては、ヴェルヌイユの村民の生活は立ちゆかなくなる。
当然、ヴェルヌイユ家の存続そのものが危ぶまれる事態だ。
城代のリュシアンがフランソワと村民の間に立って議論を重ねるなかで、オルセー伯より正式な通達がもたらされた。
曰く――。
オルセー伯の仲介のもと、伯の陪臣のなにがしとクラリスは婚姻を結ぶべし。
ヴェルヌイユ産羊毛への市場通行税が過度に低額であったことに鑑み、同税率を五割引き上げるべし。
これらの報に接したミヨは、自嘲するように呟いた。
「当たり前の話だけどさ、戦乱に乗じて権益を拡張しようって考えるのは、あたしたちに限った話じゃないってことだよね。というか、有力な地方領主こそ、こういうときを虎視眈々と待っていたわけだろうし」
「そのとおりね」
クラリスは少し疲れたような顔をした。
「で、どうするの? 要求を呑むわけ?」
「まさか。第一、あんな高税率をかけられたら、村が立ちゆかなくなるわ。それに、私との婚姻にしても、伯の陪臣とでは明らかに身分が釣り合っていないわ。愚弄するにもほどがあるって、お父様はカンカンよ」
フランソワの瞋恚を思い出したクラリスは、身震いした。
それほどまでに、フランソワの怒りはすさまじかった。
「ってことは?」
「ええ、戦うしかないわ。村民たちも、原則としては戦争に反対していない」
「でも、相手のほうが強いんでしょ?」
「お父様の話では、伯には騎士と従士合わせて百人近い兵がいるという話よ。その上、都市民を動員できるでしょうし……。最大で総勢三百から四百人。これがお父様とリュシアンの見積もりよ」
「で、こっちは?」
「男たちを駆り出しても百人が限度ってところね。でも、問題はそれだけじゃないの……。戦の訓練もしていないし、そもそも満足な武具もないのよ」
クラリスは溜息をついた。
ミヨはしばらくの間思考に没頭したのちに、クラリスに問い掛けた。
「こういう地方領主同士の私闘って、法的には問題ないの?」
「そもそも法なんてあってないようなものよ……。それに、領主には、侵害された権利を取り戻すために戦う私闘権が認められているわ」
「あ、フェーデは法的に認められているんだ」
「フェーデ?」
「その私闘権のこと。で、もう一つ聞きたいんだけど、現皇の次に有力な皇族って誰?」
「まず間違いなくセーヌ公よ。ルイ陛下の甥にあたる方で、ロレーヌ王国との国境を守護しておられるわ。今回のアジャンクール遠征も、ロレーヌの動向を警戒して参戦されなかったの」
「てことは、カスティヨン皇側の領主たちの求心力になりうる?」
「お父様もそうお考えになっているわ。いずれ、セーヌ公を中心にアジャンクール王に対する対抗軍が作られるはずだ、と。今日中にセーヌ公に密使を出すつもりだと仰っていたわ。たぶん、セーヌ公のお力をお借りして、オルセー伯に対抗しようと考えておられるのよ」
つまり、独力でオルセー伯に勝つのは不可能と判断してのことか、とシャルルは思う。
彼我戦力差を踏まえたごくごく常識的な判断だろう。
「あ、じゃあさ、その密書に一言付け加えてもらってよ。ヴェルヌイユ家が単独で裏切り者のオルセー伯を下した折には、オルセー市の管理をヴェルヌイユ家にお任せください、って」
ミヨがさりげない口調で爆弾を投下した。
ミヨの話に耳を傾けていたクラリスは、絶句したように口を開けては閉じた。
「ミヨ……。あなた、わたしたちがオルセー伯に勝てると思っているの?」
顔全体から、信じられないという思いが滲み出ている。
「もちろん。というか、そんなに難しいことじゃないよ。シャルルがいれば」
あっけらかんと告げるミヨに、クラリスは顔をしかめた。
「シャルルがいたとしても、話は簡単じゃないわよ。戦力差のことは置いておくとしても、村人たちが注文を付けているのよ。絶対に黒鬼とは一緒に戦いたくないって」
「それも問題ないよ。というか、うまくやれれば、村人たちは実際に戦闘する必要もないと思うから」
「戦う必要がないって……。つまりシャルルに全部やらせるってこと?」
無理よ、とクラリスは力なくつぶやいた。
「シャルルのことを評価しているくせに、味方にシャルルがいることの意味を理解しきれてないみたいだね、クラリスは」
「いくらシャルルが強いといっても、一人で城塞都市を落とせるわけがないわ」
「ま、そこらへんはおいおい、ね。できれば今すぐクラリスのお父様と話したいんだけど、クラリス、ちょっと聞いてきてくれない?」
ミヨはそう言って強引に話を切り上げた。
クラリスはなおも何か言いたそうであったが、しぶしぶといった表情をしたまま、立ち上がった。
「あ、それとシャルル」
「なんだ?」
「黒鬼とは何かって話だけどさ、ここの司祭と話していて分かったことがいろいろあるんだ。もうちょっと情報を集めたら教えるね」
「この二十日間、司祭と話し込んでいたのは、そのことを探るためだったのか?」
「それもあるってこと」
「そのときは、私にも教えてね、ミヨ」
クラリスはそう言いながら、小屋の扉を開けて主館に向かった。
密談の場と化していた物置小屋に、ヒンヤリとした風が舞い込んできた。
長い冬は間近に迫っていた。