序章 第三話
結局、三人はルマン近くの山林で一夜を明かすことにした。
「都市が近いし、一応交代で見張りしよっか」
というミヨの提案を受けて、三人は交代で見張りをすることになった。
夜明け前の闇が一番深い時刻に見張り役を務めることになったシャルルは、木の根元に横になった。
とたんに、空腹と疲労が神経を苛んだ。
目を閉じ、ぼんやりとこの数日間を振り返る。
慌ただしい数日だった。
戦闘や行軍など何度となく経験してきたし、今回よりもひもじい思いをしたこともある。
けれども、この数日ほど人と触れあう濃密な時を過ごしたことはなかった、と思う。
こういう生活も悪くない。
心のどこかで、そういう気持ちが芽生えつつあった。
何より、連れの二人が華やかだ。
蒼い双眸に女王の気配と令嬢らしい優しさを漂わせたクラリス。
いたずらっ子のような天真爛漫な光を黒い瞳に湛えたミヨ。
ひどいことを随分と言われたはずだが、不思議と気にならないのは二人の性格ゆえか。
そんなことをつらつらと考えているうちに、シャルルは睡魔の抱擁に我が身を委ねていった。
ひそひそと低い声で語り合う声がして、シャルルは目を覚ました。
眠りについてからどれくらい経ったのだろうか。
大分眠った気がするが、夜空の月の位置からすると、寝てから大して時間が経っていない気もする。
躰を動かさず、うっすらと目を開けたままぼんやりとしていると、再び話し声が聞こえた。
クラリスの声だ。
「それにしても……ミヨ、あなたどうして、シャルルにあそこまで言ったの? すこし、らしくない気がしたわ。会って数日の人に向かって言うような話じゃなかったでしょう?」
「うーん……まあ、つい言っちゃっただけなんだよね。あたしだって、本当は言うつもりはなかったんだ。でも……。んー、いや、たぶん、半分くらいは、あたし自身の問題で、シャルルは悪くないんだ」
「どういうことかしら?」
「ほらさ。あたし、この世界に来てから、ずいぶんとひどい目に遭ってきてさ。やっと助かったと思ったら、今度は軍に追われているから街で休むこともできない。ちょっと気分がささくれ立ったというか、鬱憤が溜まっちゃったんだと思う」
「……そう」
「まあ、これが半分。残りの半分はさ……シャルルがもっと活躍するにはどうすればいいかって話」
少し湿っぽくなった話題を強引に変えようとするかのように、ミヨは明るい口調で話を続けた。
「どういうことかしら?」
「シャルルは現状でも十分に強い。クラリスの話では、三十人殺しで有名な王国の騎士を軽々と倒しちゃったんでしょ?」
「ええ」
「でさ、シャルルはそんなにも強いはずなのに、カスティヨン皇はシャルルのことを全然使いこなせてないんだよね。ただの切り込み役くらいにしか考えていない」
「それのどこが問題なの?」
どこが問題なのだろう、とシャルルは自問する。
それ以外に自分が戦う術などあるだろうか、と。
「別に間違っているというつもりはないよ。でも、そんなんじゃ、戦争への影響は局所的なものに止まる。それが正解という場面もあるだろうけど、そうじゃない場合もあるんじゃないかなってこと」
「よく分からないわね……。具体的にはどういうこと?」
「あたしの世界じゃさ、本当に優秀な一握りの兵士には、他の兵士たちとは別の役目を与えられることが多いんだ。特殊部隊なんて言ったりもするんだけどね。普通、かれらを戦線正面に投入することはしない」
「一番優秀な兵士なのに?」
「うん。彼らじゃなければできないことが他にあるから」
「それは?」
「敵陣後方に侵入して補給を妨害したり、橋や道路や連絡網を破壊して敵の指揮命令系統を寸断したり、場合によっては敵の重要人物を暗殺したり。敵の造反分子との連絡をとったりもするね」
「……汚い裏方仕事ばかりじゃない……」
クラリスの声に嫌悪感がにじむ。
「まあ、正々堂々と名乗りを上げて、バカ正直に突撃するような戦争とは違うけどね。……でもさ、クラリスがしたいのは、そういう綺麗な戦争なの? 目的のためには手段なんか気にしていられないんじゃないの? 綺麗な戦争にこだわる限り、自分より強大な力に勝つのは難しいよ?」
「それは……でも……」
「それとも……『自分が裏で手を汚す分には構わないわ。でも、わたしのシャルルには正々堂々と活躍して欲しいわ』、とか?」
「わたしの」という部分を強調しながら、ミヨはクラリスの口調を真似てみせた。
「なっ……」
クラリスが動揺した声で反駁する。
「そんなわけないじゃない」
「あれー? なんで声が裏返ってるの-?」
笑みを含んだミヨの声。
焦っているクラリスの声なんて珍しい、とシャルルは思う。
もっとも、今の会話のどこに焦る部分があるのか、シャルルにはまるで分からない。
「まあ、でもさ、ちょっと考えてみてよ。シャルルが十万の大軍同士の決戦で百人殺すのと、補給部隊の兵士五十人殺すのとでは、同じ人殺しでも戦術的な意味が全然ちがうでしょ? で、補給部隊なんてのは敵軍の後方にいるんだから、これを攻撃するためには敵中を移動しないといけない。見つからないように小規模でやるしかない。そうなると、一人で兵士何十人分もの働きができるシャルルのすごさが際立つ」
「それは分かるわ」
「つまり、こういう仕事はシャルル向きだと言える。でも、シャルルが今のままの状態じゃあ、ダメだ」
そう断言して、ミヨは口を閉じた。
――後方攪乱くらい今の自分でもできる。
シャルルはミヨの断定に少しムッとした。
要は、少人数で敵地に侵入して暴れ回ればいいだけだ。
「……何でダメなのよ……。敵地で暴れ回るだけなんだから、強ければ問題ないでしょう?」
クラリスが不審そうに尋ねた。
「まあ、シャルルは今のままでもある程度は活躍できるだろうね。でも、後方攪乱や指揮系統分断なんかの特殊作戦で最大の効果を上げるためには、今のシャルルでは少し足りない。敵地で暴れる場合、長期にわたって自軍本部との連絡がつかないことになる。当然、補給も受けられない。いくら少数精鋭とはいえ、補給は無視出来ない問題だよ。それに、敵だって補給部隊を襲われたら、補給経路を変えるだろうしね。そうした変化を読み取って行動しなきゃいけない。さらに、いざ決戦となれば、敵が予想もしなかったような場所から強襲することも役割に含まれる」
「そこまで言われれば、私にも分かるわ。そのためには、兵学や地誌学などの知識が必要だってことね」
「そう。実際、あたしの世界の特殊部隊のメンバーは、たんに戦闘がうまいだけじゃなくて、政治、経済、心理、文化など、いろんな分野の専門知識を身につけている。そうすることで、真の意味での『現場の判断』ってやつができる。あたしは、シャルルにそういう本当の意味での独立行動ができる遊撃部隊を率いて欲しいんだ」
「だから、今日シャルルに突っかかったのね」
「そういうこと。勉強始めるのは、早ければ早いほどいいから」
――ミヨは私自身よりもよほど私の将来のことを考えてくれているのだな。
シャルルは申し訳ないようなむず痒いような、不思議な気分になった。
「シャルルのこと、随分と高く買っているのね。出会って数日の相手にそこまで期待するって、あまりないことよ……」
クラリスはしみじみとした口調でつぶやいた。
「そこはお互い様、でしょ? まあ、今は腑抜けでも、将来化けるんじゃないかって、何となくそんな気がするんだよね」
「そうね……」
それで話題も尽きたのか、二人は口を閉じた。
やがて、静かな寝息の二重奏が聞こえてきた。
「期待」とシャルルは小声でつぶやいてみた。
なんとなく、暖かい感じがする。
自分とは無縁だと思っていた言葉。
少し嬉しい。
やってみよう。
シャルルはそっと目を閉じた。
明けて翌日。
シャルルたちは、残り僅かとなったカチカチのパンを食べたのち、出発した。
ローブのフードを目深にかぶり、ルマンを迂回するようにして街道に出る。
空は薄曇りで、風は湿った気配を伝えていた。
長雨がふたたび大地に過剰なまでの水分を供給するつもりなのかもしれなかった。
街道のところどころに褐色に濁った水たまりがあり、長雨の名残をとどめている。
三人とも口数少なく、黙々とあるいた。
シャルル自身はともかく、クラリスとミヨの体力が心配だ。
皇国領まではまだ距離がある。
道中で食糧を補給できたとしても、筋肉痛や靴擦れなどの問題は深刻だろう。
どこかで一度、宿をとれたらよいのだが、とシャルルは予定される行路を思い浮かべた。
皇国最北端の都市ブランシュまで、どう考えても徒歩で二日はかかる。
それまでは、二人には我慢してもらうより仕方がないだろう。
街道を歩くことしばし。
人に見られているような気がして、シャルルはさっと顔を上げた。
街道両側には針葉樹林が広がり、見通しはあまりよくない。
言い換えれば、待ち伏せには絶好の場所。
この辺りで山賊が出るなど聞いたこともない。
待ち伏せしている者がいるとすれば、それは王国兵だろう。
街道を歩くと決めたときから、捕捉されるかもしれないとは考えていた。
――どこだ。どこにいる。
シャルルがなおも気配を探ろうとしたとき。
「止まれ」
胴間声が耳朶をうつ。
シャルルは声がしたほうを見た。
斧や鎚で武装の男たちが、ぞろぞろと両側の針葉樹の陰から出てきた。一人だけ、完全武装で乗馬している者もいるようだ。
「へへへ。騎士様、あっしの申し上げたとおりでしょ? 山に逃げ延びた王国の敗残兵どもも、ここらへんで街道に降りてくるだろうって読んだんですが、ドンピシャでしたね」
訛りの強い下卑た声で騎士に語りかける者がいる。騎士の道案内をしていたらしい。
「ああ、お前の言うとおりだったな」
騎士の声は上ずっていて、幼い。
「やいやい、てめえら! この騎士様が、てめえらのようなクソったれの敗残兵を処理してくださる。騎士様の槍で串刺しになって、地獄で俺らの村焼いたことを後悔するんだなっ」
粗末な服をまとった男が怒鳴り散らした。
「この者の申すとおりだ! 己が欲望を満たすために無辜の民草を害するなど、騎士道に悖ることはなはだしい。このフィリップ・ド・ギョームが成敗してくれよう!」
青年騎士は槍を右手に持ち、高らかに宣言した。
「王国の敗残兵に略奪された村の生き残りに、騎士道精神溢れる騎士ね……」
か細い声で、クラリスが呟いた。
冷酷ぶっているが、クラリスの性根は優しい。
敵に少し同情しているのかもしれない。
だが、話し合いでどうにかなる問題ではない。
――やったのは私たちではない。
そう言ったところで納得してもらえないだろう。
彼らとて、略奪犯本人を捕まえられるとは思っていまい。
彼らが欲するのは、憎しみをぶつける対象だ。
ここは一気に片を付ける。
そう判断したシャルルは、フードを脱いだ。
黒髪が外気に晒される。
「お、鬼……」
悲鳴が上がる。
「ここにいろ」
二人にそう告げて、シャルルはバルディッシュを構えた。
「カスティヨンの黒鬼……。貴様の数々の非道な行い、我が耳にも入っている。逃しはしない」
裏返った声で宣言するや、騎士はヘルムのバイザーを下ろし、槍を構えた。
馬に鞭を入れ、突進してくる。
馬を切り飛ばせば、一瞬でケリがつく。
そんなことは分かっている。
だが、シャルルは馬を無傷で手にいれたかった。
ミヨとクラリスは限界だ。
この馬を奪うことができれば、旅が一気に楽になる。
シャルルは、突進してくる騎士を見つめながら、タイミングをはかる。
正面から、土を大気中に蹴り上げながら疾駆してくる騎馬。
軍馬用の防具を身につけている。
「やってくだせえ、騎士様!」
農民たちが口々に叫ぶ。
馬上より、槍が突き出される。
狙いはシャルルの胸。
正確で綺麗な突きだ。
毎日欠かさずに練習しているのだろう。
筋がいい。
だが、それゆえに読みやすい。
突き出された槍の穂先にバルディッシュの先端を絡める。
そのまま左横に身を躱しながら、バルディッシュを突き上げる。
騎士の槍の柄を、バルディッシュの先端が滑るようにつたう。
火花が飛び散る。
そして。
騎馬の突進力を利用して威力を増したバルディッシュの先端が、騎士の右脇腹に突き刺さった。
浅い。
それでも、バランスを崩した騎士は馬上から放り出される。
鞍を空にした馬はしばらく走ったのち、異変に気付いたのか足を止めた。
「騎士様!」
農民達の悲鳴。
空を飛び、水たまりに頭から突っ込んだ騎士に止めを刺すべく、シャルルは跳躍する。
「待って!」
ミヨの声。
「女だと?」
農民達が騒がしくなる。
振り向くと、ミヨはローブのフードを脱いでいた。
「黒い髪……」
「黒髪の女……」
「シャルル、その騎士殺さないでおいて」
シャルルは軽く舌打ちする。
「なぜだ?」
「尋問して王国軍の情報を聞き出す」
そういうことか、とシャルルは納得した。
バルディッシュを構え直し、動揺している農民たちのほうを向く。
「見ての通り、あたしも黒髪だ。君たちに勝ち目はない。大人しく立ち去るならよし……。さもないと、二人の鬼が相手することになる。生と死、君たちはどっちを選ぶ?」
この一言は、劇的な効果をもたらした。
「化け物が二匹。勝てる訳ねえ……」
農民達の最後方にいた一人が悲鳴を上げて逃げ出したのを皮切りに、彼らは皆逃げ去った。
「私は馬を連れてくる。ミヨ、尋問するなら手早く頼む」
バルディッシュについた血を払いながら、シャルルは馬に向かって歩き出した。
シャルルが馬の手綱を引いて戻ってくると、
「打ち所が悪かったみたい。ダメだった」
とミヨが告げた。
「そうか」
「でも、この人がここにいたってこと自体が、王国軍がルマンにいることの証拠になるとおもう」
ミヨは自らの推測を述べる。
「歩きながら聞く。ミヨ、馬に乗れるか?」
ミヨの言葉を遮り、シャルルは尋ねた。
「無理」
ミヨは首を振る。
「なら、クラリス、手綱を握ってくれ」
「分かったわ」
クラリスが頷き、馬にまたがる。
「ミヨ、少しきついかもしれないが、クラリスの前に乗れ」
「うん」
シャルルはミヨを抱え上げるようにして馬に乗せた。
「先を急ごう。またこういう輩が出てくるかもしれない」
「分かったわ」
「そうだね」
二人は同意した。
「さっきの話だけどさ……」
馬に揺られながら、ミヨが話を続けた。
「王国軍がまだルマンにいるという話か?」
「うん」
「私もそうだろうと思う。いかに皇国軍に大勝したとはいえ、王国軍とて無傷ではない。軍を一度再編する必要があるだろう。ましてや、皇国へ攻め入るつもりなら、準備に時間がかかるだろう」
「だね。たぶん、あと一月くらいはルマンにいるつもりなんじゃないかな。軍を再編してすぐに攻め入るつもりなら、あんな風に余計なことをしている暇はなかっただろうし」
「かもしれないな」
ミヨに相槌を打ちながら、シャルルは安堵していた。
この馬が手に入ったおかげで、道中が一気に楽になった。
ミヨにペースを合わせて歩く必要がなくなったおかげで、歩く速度が一気に速くなった。
うまくすれば、明日中にブランシュにつくかもしれない。
「クラリス。ブランシュから領地まではどれくらいかかる?」
「そうねえ……徒歩で南東に十日くらいじゃないかしら」
「そうか」
シャルルは前方を見据えた。
これから忙しくなる。
ヴェルヌイユ領についたら、勉強、伯爵家簒奪、王国軍への備えなど、多くのことを同時にやらなければならなくなるだろう。
「いよいよこれからね」
シャルルの思いに気付いたかのように、馬上でクラリスが言った。
「だね。いよいよこれからだ」
ミヨが同意した。
「本当にそうだな」
この数日間、本当にいろいろなことがあった。
けれども、これはほんの序章にすぎない。
クラリスとミヨの期待に応えられるように成長しなければならない。
つい先日まで、考えたこともない成長という概念。
自分は成長できるだろうか?
怖いような、少し楽しみなような。
「がんばろうね」
ミヨがつぶやく。
「ああ、がんばろう」
どんよりと曇っていた雲間に、一筋の光が射しこんできた。
新たな長雨前の最後の陽光かもしれない。
長雨はやがて、雪に変わることだろう。
夜はますます長くなり、太陽が地を照らす時間はますます短くなる。
陰鬱な秋。
だが、秋は目覚めのときでもある。
農民たちは雪が降る前に小麦の種を播く。
晩秋に芽を出した小麦は、分厚く積もった雪の下で春を待つ。
自分たちも冬小麦と同じだ。
皇国はこれから冬を迎える。
軍は壊滅状態にあり、そう遠くない将来に王国軍が攻め寄せてくるだろう。
だが、その厳しい冬を乗り切るなかで、春に飛翔するための土台が作られる可能性もあるのだ。
問題は、冬が来る前に、冬を凌げるだけしっかりと根をおろせるかどうかだ。
そう思いながら、シャルルは細い帯状の光を見続けていた。