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黒鬼戦記  作者: キーロフ
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序章 第二話


 そして翌朝。

「くしゅん」という可愛らしいくしゃみで、シャルルは目を覚ました。

 見れば、ミヨが鼻をすすっている。

「風邪でも引いたか?」

 シャルルの声に反応して、ミヨは顔を上げた。

「あ、シャルルおはよう」

「お、おはよう」

 朝の挨拶など、両親が健在だったころにもした記憶がない。

 いきなり「おはよう」と言われ、狼狽え、思わずどもる。

「んー、今のところは大丈夫。でもさ、こんなぺらぺらな服じゃ、夜は寒すぎる。おかげで、よく眠れなかったよ」

「だろうな」

 この時期、貧農でももう少しマシな服を着て、藁をかぶって寝る。

 麻の貫筒衣で野宿するなど、風邪を引いてくれと言っているようなものだ。

「一度、街に下りて、ミヨの服を買ったほうがいいな」

「靴もね。はだしじゃ歩けないよ」

「そうだな。それに……食糧も仕入れないと」

「そうだねえ。……街かあ。この近くにあるの?」

「皇国軍がクール盆地攻略の拠点にしたルマンが近くにあるはずだ」

「大きな街?」

「何の変哲もない、普通の地方都市ですね」

 とクラリスの声。

 どうやら、目を覚ましたらしい。

「あ、クラリス、おはよう」

「おはようございます、ミヨ、シャルル」

「ああ、おはよう」

 今度はどもらずに挨拶できた、とシャルルは少しほっとする。

「たしかに、皇国に戻るためにも、まずは支度を調えなければなりませんね」

「でしょう? あたしはそのルマンに行くのがいいんじゃないかと思うんだ。ここの都市も一度見てみたいし」

「ルマンは王国最南端の街で、まだ皇国軍の占領下にあるはずです。当初よりルマンで本隊に合流して皇国へ戻り、私の領地に行く予定でしたし、丁度いいですね」

「あ、でも、ルマンはここから遠いの? さすがに何日もこの格好で野宿するのは辛いよ」

「街道を避けていくとなると……やはり二日、下手をしたら三日かかるかもしれませんね……」

 そうつぶやいて、クラリスは考え込む。

「二日かあ……。我慢できなくもないだろうけど、やっぱりきついなあ」

 おお寒い、と身を震わせながら呟くミヨ。

「途中で農村に立ち寄りましょう。警戒されるかもしれませんが、服や食糧を買うことができるかもしれません」

「通報されたりしない?」

「その可能性はもちろんあります。ですが、相手が大軍でもないかぎり、何とかなるのではありませんか?」

 クラリスは立ち上がって伸びをしているクラリスを見上げた。

「うーん、大丈夫かな」

 ミヨは少し心配そうだ。

「相手が少人数なら、どうとでもなるだろうが……」

 シャルルはためらった。

 問題は、通報されるかどうかではない。

 クラリスは知らないだろうが、戦場近くの農村というのは、大抵悲惨なものだ。

 近くの農村が果たして今なお存在しているのか、シャルルには自信が持てなかった。

 けれども、今ここでそれを言ってもはじまらない、とシャルルは思い直す。

 無事な農村もあるかもしれないし、行ってみるしかない。

 中隊規模の相手なら、蹴散らせる。


 他者とのコミュニケーションの重要性を、会話による知識共有の意味を、十分に把握できていなかったシャルルは、自らの懸念を二人に伝えなかった。いや、伝えようとしなかった。


「じゃあ、とりあえずは村に行ってみよっか。何かあったら逃げればいいし」

「そうですね」

「でさ……。『鬼』ってのがどれくらい村人たちに嫌われているのか、よく分からないんだけど。あたしとシャルルが二人で出張ったら、いきなり襲われたりする?」

「襲われたりはしないと思います。たいてい、農民は迷信深いので、鬼相手に戦っても勝てるとは思っていないはずです。大方……あなた方の姿を見た瞬間に、ドアを閉めて家に引き籠もってしまうのではありませんか」

 うーん、とミヨはうなり声を上げた。

「それじゃ、買い物すらできないよ」

「私一人で行けば、農民たちも交渉に応じてくれるはずですが……」

「それ、危険すぎない? クラリス、見るからに線が細そうだし、押し倒されちゃうかもよ?」

「さすがにそこまではされないと思いますが……」

 クラリスも心許ないのか、自信がなさそうだ。

「よし、分かった」

 ミヨは両膝を叩いて立ち上がった。

「三人で行こう」

「村人たちに引き籠もられたらどうするのです?」

「分かってないなあ、クラリスは」

 ミヨは鼻高々にクラリスを見下ろした。

「鳴こうとしないホトトギスの鳴き声を聞きたくなったらどうするか? 鳴くまで待つ? そんな悠長なことを言っていたら、ホトトギスが死んじゃうかもしれない」

 不敵な笑みがミヨの顔に浮かぶ。

「鳴かぬなら、鳴かせてやるしかないんだよ。それが、交渉の基本ってやつさ」

「つまり、押し入ると?」

「人聞きの悪いこと言わないでよ」

 ミヨが顔をしかめた。

「私はただ、手持ちのカードを合理的に用いることで、最大限の利益を引き出そうとしているだけだよ。これ、取引の基本。……たとえ、そのカードが物理的強制力だったとしてもね」

 クラリスは呆れたように首を振った。

「ミヨ、あなた、立派な詐欺師になれるわね」

「そこは外交官と言ってくれないかな」

「何でもいいわ……。それでいきましょう」

 クラリスは溜息をついた。

「その喋り方のほうがいいね。いずれ、イヤってほどお堅い言葉遣いをしなけりゃいけなくなるんだ。仲間内くらい、普段通りしゃべっていないと、疲れちゃうよ?」

「……分かったわ」

 ミヨの発言に一々取り合うのも馬鹿馬鹿しいと思ったのか、クラリスはあえて反対しようとはしなかった。

「では、行きましょう。シャルル、昨日と同じく、ミヨを背負ってあげて」

「分かった」

 シャルルは、ミヨの腰をつかみ、昨日同様、彼女を左肩に乗せた。

 ミヨは両手でシャルルの頭を軽く押さえ、危なげなくバランスをとる。

 それを見届け、クラリスは前を振り向いて歩き始めた。


 そして、晩秋の柔らかい陽射しが天頂より降り注ぐころ。

 シャルルたちは、街道から少し奥まったところにある、山間の寒村にたどり着いた。

「街道筋から外れていて、追っ手の王国兵の影もないようね。行きましょう」

 クラリスは先頭に立って、歩を進めた。

 シャルルもクラリスに続き、村落に近づく。

 粗末な柵が集落の外周をぐるりと張り巡らされている。

 外敵に対する備えというよりは、村の境界線を示すためのもの。

 柵越しに粗末な家々が見える。

 丸太で骨組みしたうえに、泥で壁をこしらえ、藁で屋根を覆っただけの、簡素な造り。この地方でごく当たり前に見られる光景だ。

 集落の境に拵えられた柵を通り過ぎ、村の中に入る。

 辺りに人影は見当たらない。シャルルには馴染み深い臭いが鼻をつく。

「ねえ……誰もいなくない? 隠れているだけなのかもしれないけど、何か人の気配がないような気がするんだけど……。それに、変な臭いもする」

 そう言って、ミヨは顔をしかめた。

「私が現代っ子で臭いに敏感なせいかもしれないけど……これって、家畜の糞尿の臭いとも違うよね……」

「いえ……。おそらくは」と呟きながら、クラリスは顔を強ばらせた。

 クラリスには、この臭いが何なのか、よく分かっているのだろう。

「なんか、イヤな予感がするなあ……」

 そう言いながら、ミヨはシャルルの肩からスルリと下りた。

「まあ、仕方ない。ちょっと聞いてみようか」

 ミヨは、手前の家の、粗末な土壁に取り付けられた木製の扉を叩いた。

「すいませーん」

 シャルルは、ミヨの隣にならび、扉を押した。

 予想どおり、鍵はかかっていない。

 軋みながら、ドアは開いた。

 とたんに、臭気が強くなる。

「うっ」とくぐもった悲鳴を上げ、ミヨが口元を押さえた。

 家に窓はなく、室内はひどく暗い。

 扉から差し込む光は、シャルルとミヨの躰に遮られて、室内に黒い影を投げかける。

 その影の腰のあたりに、一人。

 物言わぬ骸になりはてた人間が、倒れ伏していた。

 背中からバッサリとやられたのだろう、粗末なフェルトの服がどす黒く染まっている。

「おえ……」

 口をおさえて、ミヨが飛び出した。

「無理してこらえなくていいわ……」

 路肩に倒れ込んだミヨの背中を、クラリスがやさしくさする。

 反射的に吐き出そうとして、しかし胃のなかは空っぽだったのか。

 ミヨは胃液とよだれを口から垂らしながら、両手で土を握りしめた。

 ハアハアと呼吸が荒い。

「ああいうのを見るのは、はじめてでしょう? こんなに震えて……。大丈夫よ……」

 クラリスは左手をミヨの肩に回し、そっとミヨを胸元に抱き寄せた。

 彼女はミヨの背中をそっとさすりながら、シャルルを睨みつけた。

「シャルル……。あなた、この村がこうなっていると分かっていたのね?」

「戦場近くの農村は、大抵悲惨なものだ。とくに、気が立っている敗残兵は、農村で乱暴狼藉をはたらく」

「そうと知っていたのなら……。どうして朝に、一言そう言わなかったのよ?」

「あの時点では、実際どうなっているかまでは分からなかった。行ってみればはっきりすることだ。あえて言うほどのことでもないと思った」

 シャルル自身には、悪いことをした、という意識はない。

 そのはずだった。

 だが、なぜか口調が弁解めいている。

「そう……」と絶句したクラリスは、なおも苦しそうに息をしているミヨを、慈しむように見下ろした。

 それからふたたび顔を上げ、シャルルをキッと睨みつけた。

「いい、シャルル? 普通の若い女の子は、血塗れの死体を見たら気が動転して卒倒するものなの。シャルルは男でしょう? そういう気配りができないようで、どうするの?」

 シャルルには、返す言葉がなかった。

 ののしられることには慣れている。

 嫌みを言われたり物を投げつけられたりすることも、しばしばある。

 けれども、「男」としてなすべきことをしていないと叱責された経験は、いまだかつてなかった。

 大抵の人にとって、シャルルは単純に鬼だった。

 男か女か、大人か子どもか、などという一般的な区分は問題にもならなかった。

 彼は単に鬼として扱われてきた。

 それが当然だと思ってきた。

「おとこ……?」

 思わず、自問する。

 シャルルのつぶやきに、クラリスはさらに激昂したようだった。

「そうよ……。あなた、あれほど強いでしょう? 男でしょう? なのに、どうして弱い者のことを考えないの? あなたの力は、ただ鬱憤を発散するためだけにあるの? 違うでしょう? 違うはずよね?」

「待ってよ、クラリス」

 ミヨはかすれ声で、なおも言い募ろうとするクラリスの怒声を遮った。

「ミヨ……あなた大丈夫なの?」

「ん……もう大丈夫」

 そういいながら、ミヨはよろよろと立ち上がった。

「いやー、ごめんね。こういう世の中だし、こういうこともあるだろうってことは、頭ん中じゃ分かっていたはずなんだけどね……。戦場近くの農村がどうなるかなんて、ちょっと考えればすぐに分かることなんだけどね……。忘れてたよ……。人買いの馬車から逃げるときも、死体見ているはずだったんだけどなあ……。あのときは必死すぎて、分かっていなかったのかなあ……。あたしって……バカ」

 ミヨは蒼白な顔をしながら、再び戸口に立とうとする。

「無理しなくていいのよ、ミヨ」

 クラリスも立ち上がる。

「ん、大丈夫……。これから、何度も何度もこういう光景見ることになるだろうし。あたしが……あたし自身がやることも、あるだろうから。……こんなことで、足踏みしてたら、一歩も前に進めないじゃん」

 明らかに無理をしている笑顔で、ミヨは家の中をのぞいた。

「ひい、ふう、みい……。四人かあ……」

「そうだな」

 シャルルはぎこちなく頷いた。

 こういうときどうすればいいのか、まるで分からないのだ。

「一通りまわってみましょう」

 青ざめた顔で、クラリスが呟いた。

「私が一人でまわってこよう。二人はここにいればいい」

 言葉が、シャルルの口をついて出た。

「いいえ。まだ生きている人がいるかもしれないわ。ここはまとまったほうがいいのよ」

「いや、生きている気配はない」

 そこまで言って、シャルルはクラリスも微かに震えているのに気がついた。

 怖い思いをしているのは、ミヨだけではないのだろう。

 すでに何度か経験しているから、ミヨよりは耐性があるかもしれない。

 それでも、クラリスとて花よ蝶よと育てられた深窓の令嬢のはず。

 ふと、シャルルは我に返った。

 今まで、ここまで他人のことを考えたことがあっただろうか、と思う。

 隣にいるのが令嬢だろうが女の子だろうが、頓着しなかったはずだ。

 どれほど怒鳴られても、その内容を気にするなどということも、なかったはずだ。

 クラリスと出会ってからだ。

 彼女と出会ってから二日。

 自分が何か別の存在に変わってしまったような、そんな気さえする。

 だいたい、人とこれほど話をするなど、未だかつてなかったことだ。

「万が一ってこともある。かたまったほうがいいよ」

 ミヨがクラリスに同意した。

「わかった」

 シャルルを先頭に、三人は家々を見て回った。

 どこも、最初の家と大差なかった。

 暗い室内。きつい血の臭い。既に事切れている村人たち。

 家畜はいない。おおかた、持ち去られたのだろう。

 最後に、村長のものと思しき集落中央の家で、衣類を探した。

 村長夫人が着ていたと思われる女物のスカートなどもあった。

 それを見たミヨは一言、「旅にスカートは邪魔だよ」と呟いた。

 結局彼女は、村長か彼の親族が身につけていたと思われる下着、長靴下、ウールのチュニック、革のブーツを選んだ。

 さらに、三人は、壁にぶら下がっていた、外出用の赤茶けたフード付きローブを手に取った。

 一通り物色し終えると、ミヨが「さて」と妙に明るい声を上げた。

「あたしたち、井戸の水で泥を落とすから、その間シャルルは村の入り口で見張ってて」

 クラリスを見ると、彼女も頷いた。

「分かった」

「絶対にのぞくなよ!」

 そう宣告すると、ミヨは踵を返した。

 シャルルは黙って村の出口を目指した。

 手に持っていたローブを鎧の上から羽織る。

 黒鋼の鎧が、多少は目立たなくなった。

 といっても、手足は隠しようがない。

 街ではフードをかぶらざるをえないだろうし、不審に思われるだろうことは間違いない。

 皇国に戻るまでは、仕方がない。シャルルは嘆息した。


 結局、三人が寒村を後にしたのは、夕暮れが近くなってからのことであった。

 野宿は確実だが、ミヨとクラリスは、死体の脇で眠るよりも野宿を選んだ。


 村で手に入れたカチカチに干からびたパンを、水にひたして食べながら歩くこと、二日。

 夕焼けが空を朱く染めるころに、ルマン近くにたどり着いた三人が見たものは、城門棟の屋根に高らかとひるがえる、アジャンクール王国の旗であった。

「まさか、もうルマンが落ちているなんて……」

 クラリスが絶句した。

「たしかに、街道を進軍すれば、私たちよりは先に到着するだろうが……攻城準備だけでも数日はかかるはずだ。いくらなんでも早すぎる」

 シャルルも、目の前にひるがえる旗が信じられなかった。

 攻城戦は、彼我の戦力差が著しくても、数ヶ月はかかると言われている。

 現に、カスティヨン軍がルマンを攻めたときは、攻略に二ヶ月半かかった。

「あー、もしかしたらとは思ったけど、やっぱりかあ」

 驚きを露わにしている二人のわきで、ミヨが呟いた。

「やっぱりとはどういうことなのかしら、ミヨ? あなた、ルマンが落ちていると予想していたの?」

「予想ってほどでもないんだけど……。道中、一度も王国兵とすれ違わなかったよね? 変だと思わなかった?」

「それは、私たちが街道を避けていたからでしょう?」

「それもあるだろうけど……街道を避けるといったって、大きく逸れていたわけじゃないし、地形も特に歩きにくいというほどでもなかったよ。アジャンクール王が本気で追撃しようとしたら、そういうところにも部隊を派遣しながら、どんどん残兵狩りをするんじゃないかな?」

「それはそうかもしれないわ。でも、王国兵だって消耗しているはずよ。そこまで戦力を割けなかったんじゃないかしら?」

「その可能性もあるね。あたしは、実際の戦闘の経過がどうだったのか、正確なところを知らないし、何とも言いようがない。でもさ、布陣を聞くかぎり、アジャンクール王には、開戦前から自軍が大勝するってわかっていたんじゃないかな?」

「そんなこと、アジャンクール王本人でなければ分かるわけないわ。よしんば、アジャンクール王が勝利を確信したところで、それが勝利につながるわけではないはずよ」

「当然。でもさ、布陣はたしかこうだよね」

 ミヨは、木の枝で両軍の布陣図を描いた。

「皇国軍は重装歩兵二万、弩兵五千、騎兵五千。重装歩兵は密集陣形で横列、その両翼に騎兵、歩兵の前に弩兵。で、盆地中央の泥沼をはさんで、北にアジャンクール軍一万五千。正確な数字は分からないけど、長弓兵が多く、両翼は落とし穴と馬防柵で守られている。秋の長雨のせいで、盆地は全体的にぬかるんでいて進軍に適さなかったが、王国軍が布陣した盆地北端はそれほどひどくなかった」

「そうね」

 クラリスは相槌を打った。

 貴族の子弟の特権として、戦略予備扱いだった彼女のもとには、戦線の状況が割と詳細に伝わっていた。少なくとも、重装歩兵の戦列が崩されるまでは。

「これってさ、詰んでるよ?」

「どういうことだ?」

 戦術論の話ともなれば、俄然、シャルルにも興味がわく。

「んー、この状況で戦闘となれば、百回やっても百回とも皇国は負けると思う」

「なぜだ?」

「まず基本的な前提として、開戦前の時点で、王国側が圧倒的に有利。ぬかるんだ盆地を突っ切るだけで、皇国兵士はそうとう疲れていたと思う。しかも、王国側は、守りやすいように両翼に野戦築城をしている。まあ、築城といえるほどのものでもないけど、馬防柵や落とし穴は、あるのとないのじゃ全然違う」

「それはそうだが、皇国軍の兵力は倍だぞ」

「うん。でも、攻め手には、二つの致命的な欠点がある」

「それは?」

「第一に、繰り返しになるけど、泥。これで軍の機動力が大きく削がれる。言い換えると、機動力という点で、王国軍が相対的優位に立つんだ。これは大きい。第二に、これも第一の点と関係するけど、皇国重騎兵が全く戦闘に貢献できていない。戦線中央は泥沼で騎兵には突破できないし、両翼は防御が固すぎて攻撃が届かない。戦列中央に重装歩兵を配置して、両翼を重騎兵で固めるという布陣は、確かに強いよ? 私の世界でも、人類史上最高の戦術家の一人が、好んで使ってた。でも、今回の盆地の戦闘では、この布陣の要のはずの歩兵と騎兵の協働が全く機能していない。騎兵が最初から死んでいるからね。そうなると、あとは歩兵がどこまでがんばれるかだけど……」

 シャルルは、ミヨの解説に聞き入っていた。

 小隊長として戦術のいろはは頭に入っているはずだった。

 けれども、それはどう戦線を突破するかとか、どのタイミングで突撃すべきかというような、下級士官にとって必要な戦術だった。

 それ以外の分野は自分に関係ないと思って、学ぼうとすらしなかったのだ。

 だからこそ、ミヨの解説は新鮮で、ただただ頷くしかなかった。

「ここからは私の想像になるんだけど……というか、私がアジャンクール軍の司令官ならこうするってだけなんだけど……」

「ああ」

「相対的優位にある機動力を使って、皇国軍の戦列を揺さぶる」

「どうやって?」

「繰り返しになるけど、騎兵は戦線中央には介入できない。言ってしまえば、重装歩兵の本隊は丸裸なんだ。密集隊形の正面防御力はすごい。だけど、側面はそうでもない。特に、左手に楯を持つことが多いから、右側面はがら空きになる。だから、そこを突く。中央は防御に徹して、左翼、つまり皇国軍の右翼側だけど、ここに兵力を集中して、皇国軍を崩す。皇国からすると、両翼を守る騎兵は使い物にならないし、戦略予備を投入しようとしても、泥が邪魔で速やかな兵力投入ができない。つまり、皇国軍右翼に限って言えば、局地的に王国軍の数的優位が出現するんだ。王国軍からすれば、皇国軍右翼を崩し、増援の戦略予備を崩す。そこから戦列中央を側面攻撃。それだけで、皇国軍はチェックメイト。皇国軍が万全の状態だったら、もう少し粘れただろうけど、開戦前に消耗しているからね。本当の戦闘経過がどうだったかは分からないけど、似たような感じだったんじゃないかな?」

「なるほど」

 鮮やかだな、とシャルルは思う。

 戦闘を指揮したアジャンクール王、それを読み解くミヨ。

「よくそこまで分かるわね」

 クラリスが、感嘆するように呟いた。

「まあ、実際の戦闘では、このほかにも、皇国騎兵を抑えるための長弓兵の存在が相当大きかったと思う。……あたし、戦史は嫌いじゃないし、親が歴史研究者だからね。スゴロク習うより先に、ウォーゲーム覚えて。おかげで、こういう話、結構好きなんだ。あはは」

「スゴロク? ウォーゲーム?」

「すごろくは……板を使った子どもの遊びの一種。ウォーゲームは、兵棋演習を遊びにしたようなもの」

「よくわからないが、そういう遊びを通して、戦術を学んだのか?」

「まあ、それもあるってこと。で、まあ私のこの考えが正しければの話になるけど……。アジャンクール王は勝利を確信していて、その先のことにも手を打っていたんじゃないかな?」

「どういうことだ?」

「もしこの盆地での勝利を確信していたなら、小さな別働隊を出してルマン付近に潜ませていたかもしれないってこと。で、会戦がはじまったら、ルマンを急襲する。地の利は王国側にあるし……。どうせ皇国兵はルマン攻略後に略奪したんでしょ?」

「……ええ、そうね」

 幾分、決まり悪そうにクラリスは答えた。

「なら決まりだ。ルマン市民も王国軍に呼応して蜂起したかもしれない。あるいは城門を開けたかもしれない。まあ、そんな風にやれれば、ルマンを簡単に落とせたかもしれない」

「その場合、敗走中の皇国軍は、ルマンと追撃してくる王国軍に挟まれることになるな」

「そう。だからこそ、王国軍は敗残兵狩りには力を入れなかったんじゃないかな? それよりも、軍をまとめてルマンに急行する。そうすれば、ルマン守備兵と呼応して皇国軍を挟撃だ。皇国軍は、そこで完全に軍としての機能を失い、散り散りになる」

 まあ本当のところは分からないけどねと言いながらも、ミヨは自信たっぷりだ。

「すごいな、ミヨは」

 シャルルは素直に感嘆した。

 ミヨと同じだけの情報を自分も入手していたはずなのに、アジャンクール王の意図と行動がどのようなものか、検討しようとすらしなかった。

 そういうことは、お偉方がやっていればよいと思っていたのだ。

 なのに、兵士ですらないミヨがそういうことを考えている。

「あはは。まあ、優れた本を手軽に読める環境に恵まれていたからね。ここじゃ、羊皮紙の写本しかないだろうし、一冊一冊がものすごく高いんでしょ?」

「ええ……欲しい本は高いし、注文してから写本が完成するまでに、かなり待たされるわ。おまけに、写し間違いも結構あるわね」

「書斎を持つというのは、富裕層の特権ね」

 だが、いくら本があったとしても、自分は決して読まなかっただろうと、シャルルは思う。

 環境が良かったとしても、そこから何を吸収するかは、本人次第だ。

 自分が腕力にモノを言わせて暴れ回っている間、ミヨは兵学をしっかりと自分のものにしていたのだ。

 人の死体を見ただけで吐くような、戦を知らぬ小娘に、兵学でも遠く及ばない。

 シャルルは、そのことに忸怩たる思いを抱いた。

「学問とは、すごいものなのだな……。私など、八年間戦場にいながら、そんなことまるで知らなかったのだからな」

 シャルルの胸中を名状しがたい想いが襲った。

 このもやもやする思いは何なのだろう、と思う。

 彼女と比べて、自分は何なのだろう。

「本当にそうだね……。でも私は別に軍事史の専門家じゃないし、そんなに驚くようなことを言っているわけでもないんだ。リデルハートみたいな本物の軍事史家なら、もっと緻密で説得力のある説明を提示するだろうし。しょせんは素人の浅知恵ってやつにすぎないんだよ」

「謙遜する必要はないと思うわ。私は兵学のことはほとんど知らないけれど、あなたの言ったことは間違っていないと思うわよ」

「感心してくれてうれしいんだけどさ……。本当のこと言うと、あたしが物知りだっていうよりも、シャルルとクラリスが物を知らなすぎるんだよ」

「それは否定できないわ……。でも……」

 ひどい言いぐさだが、全くもって否定できない、とシャルルは思う。

 クラリスがどうかは知らないが、少なくとも自分に関する限り、ミヨの指摘は正しい。

「聞いて。本当のこというとさ、クラリスなら、伯爵家くらいは乗っ取れると思う。どんな家か全然しらないし、根拠もなにもないけど、でも、何とかなるよ、たぶん。でも、そっからどうやって領地を治め、豊かにしていくのか、クラリスはそのための技術をほとんど知らないんじゃない?」

「……否定しないわ」

「政って、別に学がなくてもできなくはないけど、正式に学問を修めた人間が統治するのと、無学な人間が統治するのとでは、効率が全然違うよ? 当たり前だよね。だって、学問ってのは世界を正確に知るための営為なんだから。合理的な行政のためには領地を正確に知らなければならない。そのために必要なのが、統計なんかのデータ。でもさ、これはまず間違いないと思うんだけど、自分の国の総人口を正確に把握している王様なんて、いないでしょう?」

「王が統治する領地に何人の人がいるかってことよね?」

「まあ、そう言ってもいいかな」

「普通知らないんじゃないかしら。たしかに、領主たちは、租税を徴収するために租税台帳を作ることもあるわ。でも、それは直接農村を統治する末端の領主だけ。大貴族は自分に仕える代官や小領主から、徴収された租税を受け取るだけよ。集落ごとの人間の数なんて知るはずもないわ。まして、合計で何人いるかなんて、一々調べようともしないはずよ。王領は普通かなり広大だから、王が正確な数字を知るなんて、不可能に近いんじゃないかしら」

「うん。でも、その正確な数字を知れば、税を正確に徴収することができるし、途中で税金を横領している代官を取り締まることもできる。おまけに、地域ごとの人口の増減が分かれば、どこがどれくらい栄えているのかを知る一つの目安になる。私の世界で、合理的な統治技術の基礎として『政治算術』って言葉が生まれるのが、だいたい十七世紀後半、つまりあたしが生まれる三百五十年くらい前のこと。中国ってところでは大昔から人口調査をやっていたみたいだけど、科学的な人口調査が行われるようになるのは、十八世紀半ば、つまりあたしが生まれる二百五十年くらい前の話なんだ」

「あなたの世界の話はよく分からないわ」

「ん、ごめん。何言っているか、分かりにくいよね。つまりさ、『知』と『統治』ってのは本来的に不可分なんだ。だから、クラリスがもし本気で政を執り行おうとする気があるなら、学問をしなきゃダメ」

「……分かったわ。いえ、今もまだ本当はよく分からないけど、学ぶことが一杯あるってことはよく分かったわ」

「ぼーっとしてるみたいだけど、シャルルも同じだよ?」

 ミヨはくるりとシャルルのほうを向き直った。

「わ、私にも学問をしろと?」

 いきなり話を振られて、シャルルは慌てた。

「無理だ……。私はこの年になるまで、勉強などしたことがない」

「シャルルさ、今何歳?」

 ミヨは呆れた顔をした。

「十八だ」

「十分若いじゃん。だいたいさ、学問をするのに遅すぎるなんてことはないんだ。今から学べばいいじゃん」

「だが、私は……」

「私はなに?」

「……鬼だ。人間じゃない」

「だから?」

「いや……その……」

「あのさあ。前も思ったんだけど、鬼かどうかなんて、どうでもよくない? シャルルはとんでもない怪力で戦闘に興奮すると我を忘れる。それは鬼だから。まあ、それはそうなんだろうけど……。でも、鬼だから勉強しちゃいけないって法律があるわけでもないでしょ?」

「それは……たしかに禁止されてはいないが」

「だいたいさ、人間って何よ?」

「それは……」

「まあ、定義なんていくらでもできるし、どれが正しいってこともないんだろうけど……。私が好きなのは、『叡知人』って考え方。知があるもの、知ろうとするもの、それこそが人。だから、他の人の言うがままに従って、自分自身の悟性を使おうとしないなんて、サルだよ、サル。シャルルは鬼なんて立派な生き物じゃない」

「サルだと?」

 シャルルはムッとした。

 いくらなんでもバカにしすぎだ。

「そうだよ。だって、考えるのを放棄して、ただ人様に言われるように戦場に出て、言われたとおり人を殺しまくっているだけでしょ? ただ命じられたとおりに人を殺すだけなら、犬でもできる。人間である必要なんてないよ。あたしが知りたいのはさ、シャルル自身がどうしたいのかってこと。人がどう思うとか、自分が人間じゃないとか、そんなことはどうでもいいんだ」

 そう言って、ミヨは傲然と腕を組んだ。

「私が何をしたいか……」

 そう言われても、したいことが何なのかすら、シャルルにはよく分からない。

 今まで、自分に関することは全て、外から与えられてきた。

 何をしたいかなんて、考える必要もなかったのだ。

「そう難しく考えることはないわ、シャルル」

 クラリスが優しく微笑んだ。

「今、ミヨの戦術論を聞いて、『自分もこれくらいの知識があったらなあ』、って思ったでしょう?」

「ああ、そう思った」

「なら、話は簡単よ。もっと戦術について知りたい、戦争について知りたい、学びたい。そして、得た知識を使って、自分の頭で考えてみたい。これがあなたが、今したいと思っていることなのよ」

「そう……なんだろうか?」

 シャルルは、自信がなさそうに呟いた。

「そうなのよ。ミヨは知識についていろいろと言っていたけれど、知識を知識として持っているだけでは意味がないわ。そんなのは宝の持ち腐れよ。戦術論の知識を使って、どうやったら敵に勝てるか、考えなきゃいけない。そのためには、敵がだれでどれくらい強いのか知らないといけない。でも、それだけでは勝てないわ。自分がどういう人間で、どれくらい強いのかについても、正確に知らないといけない。敵と味方についてよく知ったうえで、戦術論を参考にしながら、勝つためにはどうすればいいか考える。これが作戦を練るということなんじゃないかしら」

「うむ、そのとおり」

 ミヨは薄い胸を張った。

「そうか……。そうだな」

 本当にそのとおりだ、とシャルルは思う。

 ミヨの話を聞きながら、心のどこかで羨ましいと思っていたのかもしれない。

 自分もこんな風に考えることができればいいのに、と。

 そう考えながらも、人間じゃないから考えなくてもいいんだ、と考えることを放棄していた。そんな面倒なことをするよりも、他人に決断を任せていたほうが楽だから。

 たしかに楽だけど、それでは面白くない。

 ミヨは、自分の知識をもとに語っているとき、本当に楽しそうだ。

 自分も、ああいう風に楽しく生きたい。そのためには、色々なことを知り、考えたい。

 シャルルの心に、生理的欲求を超えた高次の欲求が生まれようとしていた。

「今日からシャルルとクラリスは、サルじゃない。人間になろうとするサルだ」

「うんうん」と頷きながら、ミヨが二人の会話に割って入った。

「全然褒められている気がしないわね」

 苦言を呈しつつも、クラリスは笑っていた。

「いいじゃん、いいじゃん。サル大いに結構。私だってサルだし。まだまだ知らなきゃいけないこと、自分で考えなきゃいけないことが一杯あるからね」

「たしかに、あなた、サルみたいな顔してるものね」

「あ、何てこと言うんだ。これでもあたし、ずいぶんと男にモテたんだぞ」

「サルのオスに、でしょう?」

 二人は睨み合い。

 こらえきれずに吹き出した。

 二人の会話を聞きながら、シャルルも何となく暖かい気分になった。


「で、人間を目指すサル三匹としては、今後どうすればいいかしら?」

 ひとしきり笑ったあと、クラリスがつぶやいた。

「そうだねえ……。まずは、王国軍がどこにいるか、それと、皇国軍は本当に壊滅したのか、そこらへんを知らないと」

「といっても、ルマンの城門は閉ざされているわ」

「どっちみち、皇国領に戻るんだ。道中の村々で情報が入るかもしれないし、ルマンは通り過ぎて、まっすぐ帰ろう。もう街道を進んでもいいと思う。仮に王国兵に襲撃されたとしても、大軍じゃなければ何とかなるだろうし、逆に戦況について問い質すこともできるかもしれない」

 シャルルは口をはさんだ。

「それが一番現実的ですね」

 クラリスが同意した。

「その前に、日も暮れるし、今晩寝る場所を探さないとだね。いい加減、野宿はイヤだけど、泊まる当てもないんだよねえ」

「そうだな」

 シャルルは歩き出した。クラリスとミヨが続く。

 すでに日は完全に暮れており、一番星が煌々と存在感を主張しはじめていた。


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