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黒鬼戦記  作者: キーロフ
21/21

第三章 第六話

挿絵(By みてみん)







「しまった」

 最初に絶望の叫び声を上げたのは、ミヨだった。

「最初からこれが狙いだったのか!」

「今からでも増援を送らないと……」

 クラリスは蒼白になりながらも、セーヌ公救援のために兵を送ろうとする。

 ミヨは首をふった。

「今からじゃ、間に合わない」

 ミヨの言葉どおり、王国軍中央は信じがたいほどの速さで、一気に高地を駆け上っていた。

「騎兵ならおいつくはずよ」

 クラリスが狼狽えるようにして呟いた。

「シャルルだって、今はこの方陣のどこかに突撃を仕掛けているところだよ。連絡をとるのに時間がかかるし、まず無理だよ」

「でも、このままでは……」

 クラリスは上ずった声で必死に打開策を探ろうとした。

「敵の狙いは、最初から中央突破にあったということか……。あえて右翼を脆弱にすることで、あたしたちの主攻勢を限定する。ついでに、あたしたちと戦列中央との連絡を弱めるために、陽動によってあたしたちを高地の下に引きずり下ろし、拘束する。残るのは、敵右翼突破のために兵力を供出したことで脆弱になったセーヌ公の本陣だけ……」

 ミヨは呆然と呟いた。

「もう、どうにもならないの?」

 泣きそうなほどに青ざめた顔で、クラリスが呟く。

「一つだけ、打つ手が残されているよ」

 ミヨがかすれた声でささやいた。

「本当!?」

「分の悪い賭けだけど……。多分、あたしたちが戦っているこの方陣の中央にアジャンクール王がいる」

「どうして分かるの?」

「単純な消去法で、そうじゃないかと思ったんだ。脆弱な右翼に王自ら赴くわけはない。残るは中央か左翼だけど、あの突破のしかたはどう見ても今までのアジャンクール王らしくない。彼の用兵なら、あの中央部隊はもっと堅実に行く気がする。あそこまで思い切りのいい攻め方はしないと思う」

「だとすると、残るは私たちの眼前の敵、ということになるわけね」

 クラリスの瞳に理解の色が宿った。

「あくまで、推測だけどね。でも、もしそれが正しければ、あたしたちにはこの劣勢を跳ね返す一手が残されていることになる」

「それは……。まさか、ミヨッ」

 クラリスの声が驚愕に跳ね上がった。

「……そのまさか、だよ。戦場でアジャンクール王を討つ。普通の軍なら絶対にできない。ありえないと言ってもいい。なにせ、王ともなれば一番安全な場所に陣取っているはずだからね……。でも、あたしたちにこの常識は当てはまらない」

「シャルルがいるから、ね」

「そう。あたしたちには、シャルルがいる」

 理不尽なまでに強い彼ならば、あるいは――。

 神頼みにも似た非合理的な願望。

 けれども、それ以外に状況を打破できるような道は残されていない。

 ミヨとクラリスにできることは、シャルルが彼女たちの希望に応えてくれるよう祈ること、ただそれだけであった。

「あの高地は、あたしたちにとってのプラッツェンだったというわけね……。セーヌ市外での戦闘時からこれを狙っていたのだとしたら、いえ、数ヶ月前からここまで考えていたのだとしたら――。だとしたら、アジャンクール王フィリップはきっと……」

「きっと、なに?」

 ミヨは首をふった。

「いや、たいしたことじゃないよ」

「もったいぶっても意味はないわよ。生きて明日を迎えられるかどうかさえ、今の私たちには不確かなことなのだから……」

 シャルルに全ての願いを託して、少し気持ちが落ちついたのか、透き通るような微笑を浮かべた。

 先ほどまでの周章狼狽は影も形も残されていない。

 穏やかな光を湛える蒼い双眸は、吸い込まれそうなほどに深く。

 土埃に汚れた頬は、彼女の幽玄な美を逆に際立たせていた。

「どんなに薄汚れてても、美人は美人なんだよねえ……」

 ミヨがまるで場違いな不満をこぼした。

「えっ!?」

「いや、何でもないよ。きっとシャルルはやってくれると思うよ。あたしたちは、シャルルの仕事を少しでも楽にするために、この敵を崩そう」

「ええ、そうね」




 王国軍の方陣に数度目の突撃を敢行していたシャルルは、戦場の空気の変化を鋭敏に察知した。

「敵、セーヌ公本陣ヲ突破セリ」

 軽騎兵のひとりが、カタコトの言葉で伝える。

 ――そういうことか。

 シャルルは、瞬時に敵の意図を理解した。

 敵の狙いは、最初から中央突破にあったのだ、と。

 もはや、軍対軍の戦闘で勝利はありえない。

 中央突破を果たした敵軍は、高地を占領しつつヴェルヌイユ隊かポワティエ隊の後方を襲うことになるだろう。

 典型的な背面展開だ。

 これに対処しうるだけの戦力は、もはやどこにも存在しない。

 戦術レベルの勝敗は、すでに決したといってよかった。

 通常ならば、将兵の努力は撤退に向けられるべき。

 けれども――。

 今ここで撤退に成功したとしても、戦略的には意味がない。

 今度こそ、援軍のあてのないセーヌ城に篭もり続け、飢え死にするしかない。

 言い換えれば、もはや退路は存在しないのだ。

 ならば――進むしかない。

 だがどこへ、とシャルルは視線をめぐらした。

 必死にシャルルの前進を阻もうとする歩兵たちを、馬上から叩きつぶす。

 歩兵にとって、馬上からの攻撃は天の一撃にひとしい。

 防ぐのが非常に困難なのだ。

 まして、攻め手はシャルル。

 左から突き出される槍ごと敵兵の頭蓋骨を潰し、返す刃で右から迫る剣兵の喉を突く。

 その攻撃速度が尋常ではない。

 普通ならば、一度に複数の方向から攻められたら、防ぎきれない。

 それなのに、シャルルはバルディッシュが二本あるのではないか、と思わせるほどに素早く動く。

 歩兵が剣を振り下ろす間に、隣の兵が二人ほど首を撥ね飛ばされて朱い噴水と化していた。

 夕暮れが大気を包み、上空に一番星が輝きはじめるなか、シャルルは進む道を求めて馬を走らせる。

 殺戮を重ねるごとに、痺れるような快楽が両腕をふるわせる。

 断末魔の悲鳴が妙なる音楽を奏で、媚薬のごとくシャルルの中枢を揺さぶる。

 ――全て殺し尽くしてしまったら、どんなに気持ちいいだろう。

 快楽が脳を蝕んでいく。

 シャルルが昂ぶれば昂ぶるほど、バルディッシュは鋭さを増し、大気をふるわせる。

 刺激が高まるにつれて、筋力が強まるのだ。

 当然、敵兵を苛む悪夢は一層血にまみれたものとなり。

 絶望が兵士を金縛りにする。

 けれども――。

 死を前にしながらも、多くの兵が怯まずに打ち掛かってくる。

 シャルルに近づいたと思うと、肉眼で捉えきれない斧先に砕かれて血臭とともに倒れ伏す。

 まるで、自ら肉挽き機に入っていく肉塊のようだった。

 ――おかしい。

 荒ぶる本能に身を委ね、敵陣をバターのように溶かしながらも。

 シャルルの理性は敵兵の不合理な行動に警鐘を鳴らした。

 普通の兵士ならば、ここまで一方的な戦闘を前にしては、算を乱して逃げ出すはず。

 それなのに、誰も逃げようとしない。

 こんなことは、過去に一度もなかった――。

 いや、一度だけ。

 あったはずだ。

 あれはたしか――。

 その瞬間、雷電がシャルルの四肢を貫いた。

 背筋がびりびりと震える。

 子どものパズル遊びのように、バラバラの情報が一気に収束していく。

 動物的な本能と会得したばかりの知性、戦場の狂気と学習による理性。

 相容れないはずの水と油がからまりあい、シャルルを一つの結論へと導いた。

「ここにいるのかっ!? アジャンクール王フィリップ!!」

 シャルルは咆哮した。

 返答はなかった。

 だが――。

 敵兵からは必死の気迫が滲み出て、シャルルの肌をぞわりと撫でた。

 ――あたりか。

 シャルルは、本能のままに乱れ狂うバルディッシュを、一点に振り絞って叩きつける。

「アジャンクール王がいるっ! 全騎、奴の首をとれっ!」

 シャルルの怒号が重騎兵を駆りたて、王国歩兵の必死の反撃を誘う。

 戦術的敗北が避けられないのなら、一気に王手をかけるしかない。

 極めて単純な方程式が、シャルルの意志を一気に収束させた。

 ――前へ、前へ、前へ。

 もはや、シャルルをさえぎる者は存在しなかった。

 彼の前に立ちふさがる敵兵は、案山子も同然だった。

 一瞬にして兜が弾け飛び、甲冑が裂け、中身が薄暮の空に飛び散った。

 ひときわ立派な鎧を纏った騎士たちが眼前に立ちふさがり。

 他の兵士と同じように吹き飛ばされた。

 血走った瞳に理性の灯火を宿しながら、シャルルは唯一人の人物を探す。

「どこだっ!? どこにいる、アジャンクール王!!」

 返ってくるのは、シャルルを仕留めんとする金属の穂先のみ。

 完全に勘にまかせて、シャルルは馬を駆った。




 その頃、セーヌ公リシャールは、眼前に迫るクレマンティーヌ隊を前に、己の敗北を悟っていた。

「勝敗は兵家の常とはいえ、余の代で偉大なるカスティヨンの血が絶えようとはな……」

「殿下、どうかお逃げ下さい」

 口々に撤退を進める家臣の言葉に、リシャールは首をふった。

「今ここで、余一人が落ち延びてどうするというのだ?」

「野に伏して機を待つのです。必ずや再起すること、かないましょう」

「よい」

 従士から馬上槍を受け取ると、リシャールは部下たちに告げた。

「もはや、これまでよ。落ち延びたい者は、好きにせい」

 不思議なほどに落ちついた声だった。

「殿下!」

 騎士たちがリシャールのもとにつめ寄せる。

「我ら皇国騎士、最期まで殿下のお供をしましょうぞ」

 誰かが叫んだ。

「ならば、フルール卿!」

 リシャールが語気鋭く声を放った。

「ハッ」

「兵五百を率い、眼前に迫る敵兵に突撃せよ。……生きて帰ることはあるまい。嫌ならば好きにしてもよいぞ」

 いっそ暖かいと言ってもよいほどに穏やかな口調で、リシャールは命令した。

「いえ、我ら一同、殿下の御ために!」

「頼んだぞ」

 リシャールは静かに微笑んだ。

「ハッ。偉大なるカスティヨンに栄光のあらんことをっ!」

 一礼して立ち去るフルール卿を見送ったのち、リシャールは次の命令を発した。

「フルール卿が稼いでくれる一瞬のときを利用して、余はあの敵部隊に最後の突撃をかける。死出の旅に同行したいという者は、好きにするがよい」

 そう言い放つと、リシャールはただ一人、馬を駆りたてた。

「殿下、お待ちをっ!」

 慌てて、次々に近衛兵がリシャールに付き従い、さらに遅れて歩兵たちが斜面を下っていった。

 目指すは王国軍左翼。

 つまり――アジャンクール王フィリップが守る、王国軍の本陣であった。



 高地から突っ込んでくる少数のセーヌ公軍を鎧袖一触に下し、クレマンティーヌはブーローニュ高地を占領した。

 ただちに弓兵二千を横列に再編し、眼下を逃げる敵兵に矢の雨を降らせる。

 高所からの矢ほど恐ろしいものはない。

 最終局面に弓兵による一斉射撃で敵残存兵力に最後の一撃を加える。

 そのために、フィリップは弓兵を温存してきたのだった。

 リシャール率いる兵千はバタバタと見通しのよい斜面に倒れ伏していった。

「勝ったわね」

 そう呟いて、父王の本陣を見やったクレマンティーヌは、一瞬我が目を信じられなかった。

「エレオノール……。あれは何?」

 かろうじて出した声には、昂揚の影は微塵もなかった。

 冷や水を浴びせかけられたように、身体が打ち震える。

「なんで、あんな……」

 黒鬼シャルル率いる重騎兵はたったの四百。

 それが、五千の兵を擁するアジャンクール王国軍本陣を切り裂き、方陣の中心を真っ黒に染めていた。

 つまり――。

「お父様は無事なのっ!?」

 父王フィリップがいるはずの場所が、ヴェルヌイユ隊に占領されている。

 クレマンティーヌは、発作を起こしたように、がくがくと揺れた。

「気をたしかに、殿下。これより総力を挙げて陛下をお救い参らせましょう」

 クレマンティーヌの耳元で、エレオノールは低い声で囁いた。

「え、ええ。そうして……」

 狼狽しきっているクレマンティーヌは、そう応えるのが精一杯だった。

 だが、全てを心得ている優秀な女将軍は、一刻も無駄にしなかった。

「全軍、斜面をくだり、陛下をお救いせよ! 全力で駆け下れ!」

 折角確保した戦術上の要衝を、何の迷いもなく捨てて、クレマンティーヌ隊は駈け降りる。

「お父様……どうかご無事で……」

 クレマンティーヌは、ただただ祈った。




 アジャンクール王フィリップは、左翼から突進してくる黒鬼シャルルの凶刃を逃れるために、方陣内を右翼方面に逃げていった。

 すぐ後ろでは、フィリップを守るための壁となった騎士たちが、まるで柔らかい果実のように弾け飛んでいく。

 直属の護衛に守られながらも、フィリップの背中はじっとりと汗ばんでいた。

「『黒鬼』の力の端倪すべからざること、理解していたつもりだったのだがな……。まだ侮っていたということか」

 シャルルが方陣を縦横無尽に掻き乱したせいで、もはや本隊は統制がとれなくなっていた。

 どれほど緻密な作戦を立てようとも、たった一人のせいで崩れてしまう。

 その理不尽なまでの身体能力に、フィリップは歯がみするしかない。

 ――なるほど、黒髪が歴史に悪名を轟かせるのも理解できる。

 フィリップを慄然とさせるだけの勢いが、今のシャルルにはあった。

「陛下、お急ぎを……。これ以上は支えきれません」

 背後から絶叫が響きわたり。

 一瞬ののちに果実を潰したような、ぐしゃりという音に取って代わる。

「アジャンクール王はあそこだ! 絶対に逃がすな!」

 後方より、人の声とも思えぬほどに殺気の篭もった怒号が押し寄せる。

 まだ若い。十代の少年の声。

 ――そういえば、今の黒鬼はまだ十代後半の少年だったか。

 フィリップは急ぎ足で逃げ延びながらも、クレマンティーヌの言葉を思い出した。

 城内で見た限りクラリスに完全に服従していて、およそ危険人物には見えない、というのがクレマンティーヌの印象だった。

 つまりは、クラリスは完全に黒鬼シャルルを自らの手足としている、ということだ。

 ――最初から彼がカスティヨン皇国軍内で高い地位を得ていたら、クール盆地での大勝もありえなかったかもしれんな。

 フィリップはため息をついた。

 突然、前方より軍馬の嘶きがとどろき。

「陛下、前方に敵が!」

 護衛の騎士たちが悲鳴をあげる。

「そこにいたか、アジャンクール王フィリップ!」

 そう言って騎馬もろとも突進してくる騎士がひとり。

 楯に刻まれた紋章、鎧の上に羽織った外衣から、セーヌ公リシャールと分かる。

「まさか、そなた自ら余のもとに来ようとはな、セーヌ公」

 十騎にも満たない敵だが、後ろから黒鬼シャルルが迫るなかでは、対処が難しい。

「陛下、ここは我らが食い止めます。どうかお逃げを!」

 護衛の騎士たちが絶叫する。

 だが、それすらも難しそうだった。

 セーヌ公の突撃に合わせて、クラリスが全面攻勢をかけたのである。

 方陣中央を蹂躙されたフィリップ本隊は、この猛攻を撥ね除けることができなかった。

 そこに、セーヌ公の歩兵部隊がクレマンティーヌ隊に追いかけられながら突進してくる。

 敵と味方が入り混じり、もはや規律ある戦線というものは存在しなくなった。

 完全な乱戦である。

「その首もらい受けた!」

 リシャールは槍を構え、捨て身の突進をかける。

 セーヌ公の護衛をフィリップの直衛が食い止める形になっていたため、リシャールの突進を阻む手勢が、フィリップのまわりに存在しない。

 フィリップは鞘に収められていた宝剣を抜きはなち、リシャールの鋭鋒を躱そうとする。

 リシャールの槍はフィリップの剣をかすめ、かろうじて脇へと流れた。

「まだまだっ」

 リシャールは凄絶な雄叫びを上げ、槍を捨てると剣を走らせ、左薙ぎにフィリップに襲いかかる。

 リシャールの槍を受け止めたせいで、手が痺れていたフィリップは、これに対応できない。

 背後からは、フィリップの護衛を尽く砕き、潰したシャルルが、勢いよくバルディッシュを振りかぶっていた。

 ――もはやこれまで、か。

 フィリップには、時がとまったように感じられた。

 リシャールの宝剣が弧を描いて夕闇を切り裂き。

 フィリップの首元を左から右に走った。

 一拍おくれて、リシャールの背中にクレマンティーヌ隊の槍先が突き刺さる。

「クレまん……」

 声を出そうとしたとき、ごぽりと血が口内に溢れ。

 フィリップの気管をふさいだ。

 斬られた痛みすらほとんど感じないまま、フィリップはゆっくりと大地に倒れ込み。

 その腕に抱かれた。

 奇しくもそれは、セーヌ公リシャールの最期と時を同じくしていた。

「お父様!!」

 クレマンティーヌの血を吐くような絶叫が、闇を切り裂き、剣戟の音を圧して、草原をはしった。

「殿下! リシャール殿下!」

 戦闘を放棄して左翼より駆けつけたポワティエ伯の嗄れた慟哭が、虫たちのさえずりをかき消す。

 両軍の兵士は両雄の死を境に戦闘を停止し――。

 かくて草原には悲嘆にくれた生者たちの嘆きがこだまする。

 馬上より、己が標的のすでに討ち果たされたことを悟ったシャルルは、しばし動きを止めた。

 フィリップ王にすがりついて泣きじゃくる王女の姿が、かろうじて敗北を逃れたことを知らしめる。

 今ならば、この王女を一息で仕留められることは疑いない。

 けれども――。

 シャルルはこのとき、どうしてもバルディッシュをさらに一振りすることができなかった。

 両雄の遺体をくるんだ両軍は、示し合わせたように、槍先を交えぬまま抱擁を解き、暗闇に溶け込むようにして分かれていった。

「やったね、シャルル!」

 満面の笑みを浮かべながら、ミヨが飛びついてきた。

 クラリスも控えめな笑みを浮かべながら、シャルルを歓迎した。

 けれども――。

 嬉しいはずなのに、どうしてもクレマンティーヌ王女の慟哭が脳裏を去ろうとしない。

 昨年の戦いで捕虜にとった少女。

 それ以上でもそれ以下でもないし、セーヌ市で接触したこともほとんどない。

 会話など一度もしたことがないだろう。

 なのに、なぜか彼女の声が耳に残る。

「うれしくないの、シャルル?」

 ミヨが不思議そうに問いかけてきた。

「なあ、ミヨ」

「なに?」

「去年人質にとったあの王女がいただろう?」

「ああ、クレマンティーヌ王女ね。彼女がどうかしたの?」

「そう。あの子が目の前にいて、フィリップ王にすがりついて泣き叫んでいたんだ。それを見たら、どうにも気が重いんだ……。なんでだろうな?」

 当惑したように呟くシャルルに、クラリスが静かに微笑んだ。

「とても簡単なことよ、シャルル。それは――あなたが人間だからよ」

「人間、か……」

 今さらの話だ。

 すでに何度も、ミヨから黒髪の者はごくごく普通の人間だと言われ続けている。

 ただ膂力にすぐれているだけの人間。

 新天地を求めるために基礎体力が格段に向上している人間。

 けれども、クラリスの言う人間は、それとはまた違う響きがある。

 ミヨが敢えて教えてくれなかった、人間の一面かもしれなかった。

 胸が重苦しく、気分がいいとは言い難いのに、少しだけ心が安らぐような、不思議な感情がシャルルの心に注ぎ込まれた。

 空には晩秋の半月が昇り、星々の瞬きを圧倒していた。

 後に、ブーローニュの戦い、あるいは双女帝会戦と呼ばれる戦いは、こうして幕をおろした。






 シャルル、クラリス、ミヨ、そしてクレマンティーヌ。

 彼らについて言うべきことは、もはやほとんど残されていない。

 クレマンティーヌ・ド・アジャンクールは、王都アジャンクールに帰還すると、実兄を廃して女王として君臨し、父王フィリップの拡張政策を継続した。

 その華麗にして緻密な戦略は、敵をして「戦う前に勝敗を決す」と言わしめた。

 なかんずく機動と攻勢にすぐれ、今なお陸軍大学戦史学科では彼女の戦略・戦術に関する論文が執筆され続けている。

 彼女が終生唱え続けた持論、「戦略とは空間と時間の魔術である」は、今なお人口に膾炙している。


 ミヨ・カスガについては、虚実定かならぬ話が大量に残されている一方で、真実がほとんど掴めていない。彼女を空想上の人物と断定する歴史家も後を絶たないくらいである。

 生年生地はおろか、死地すらもはっきりしないこの謎めいた女傑は、一説によれば現代科学に迫る叡知を持っていたと言われるが、その風説を裏付ける根拠は今のところ発見されていない。

 この時代を扱った小説では、「機械仕掛けの神々」のごとく七面六臂の活躍をすることが多い。

 最後の錬金術師にして最初の科学者たるネフトン卿は、ミヨ・カスガを「魔術師にもっとも近い科学者」と呼んだと言われている。


 クラリス・ド・ヴェルヌイユについては、あまりにも多くの論考があり、今なお彼女の伝記はベストセラーが確実と言われている。

 クレマンティーヌを戦略・戦術の天才とすれば、クラリスは外交・政略の達人であった。中小国を巧みに合従連衡させ、超大国アジャンクールの領土拡張をたびたび食い止めた。

「ヴェルヌイユにクラリスのあるかぎり、大陸に滅ぶ国なし」とは、かの女帝クレマンティーヌの言葉である。

 旧セーヌ領とヴェルヌイユ領を統治し名君として君臨するも、三十にしてその短すぎる生を終えた。

 夫にして女王の騎士たるクレシー公爵シャルルの腕に抱かれて、安らかに息絶えたのだという。

「勢力均衡こそが平和の礎」という彼女の発想は、いまなお国際関係論の基本原則として生き続けている。


 シャルル黒髪公に関する世間の評価は、見事に割れている。

 クラリスの右腕として、クレマンティーヌの槍先を受け止め続けたことから、彼をヴェルヌイユの守護者と絶賛する者がいる一方で、一個人として殺めた数は史上最高と言われ、稀代の殺戮鬼と嫌悪する者もいる。

 クラリスを公私両面にわたって支え続けたシャルルは、クラリスの死とともに政界を退き、晩年は歴史書の編纂に精を出した。

 彼が記した歴史書の完成度があまりにも高かったことから、彼を近代歴史学の祖と仰ぐ歴史家もいる。




おしまい。


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