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黒鬼戦記  作者: キーロフ
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序章 第一話

ハンターxハンターのヒソカ程度のヘンタイ性描写アリです。ご注意を。


 月は天頂を過ぎ、稜線の陰に隠れようとしていた。

 あと一刻ほどで、秋の長い夜は明ける。

 これから、王国軍の警戒が最も厳しい盆地南端の出口を突破しなければならない。

 明るくなってからでは、簡単に捕捉されてしまうだろう。

 日の出の前のひととき。

 敵味方ともに、もっとも警戒が薄くなるこのときが、脱出のための最大のチャンス。

 シャルルはクラリスとともに街道を離れ、山裾の森を歩く。

 中央部より水捌けがよいのか、草木の根が雨水をしっかりと受け止めているからか。

 地表は固く、歩きやすい。

 ときどき木の根に足をとられてよろめくクラリスを支える。

 森といっても、下草は綺麗に刈り取られている。

 人の手が行き届いた里山だ。

 道はなくても、かなり歩きやすい。

 少なくとも、シャルルにとっては――。


 だが、クラリスは木の根に足をとられ、水たまりで転びそうになる。

 悪路を歩いた経験が少ないのだろう。

 シャルルの左腕にしがみつくようにして、一歩一歩慎重に歩いている。


 ――どういう成り行きで従軍したのかは知らないが、これでよく戦場を生き延びたものだ。

 シャルルは幾分呆れたように、己の肩ちかくにあるクラリスの顔を見つめる。

 注視されていることに気がついたのか、クラリスが顔を上げた。

 相変わらず、泥にまみれている。疲労の色が濃い。

 彼女を連れて包囲環を突破できるだろうか、と改めて自問する。

「突破できると思いますか?」

 かすれた声で、クラリスが問い掛けた。

 蒼い瞳に揺らめくのは、不安の光。

「簡単ではない。だが、今を逃しては、生還する可能性はゼロに等しくなる」

 低く抑えた声で、シャルルは自らの考えを告げた。

「今はまだ、王国軍の追撃は組織だったものではないと思う。個々の兵士たちが、てんでバラバラに手柄稼ぎに奔走しているだけだ。だが、夜が明けたら、敵将は一度、兵を呼び戻し、軍を整理するだろう」

「今はまだ、追撃は恣意的なものだから穴もあるけど、朝になったら追撃部隊が編成される。そうなったら、穴は小さくなり、逃げ出すのが難しくなる。そういうことね?」

 シャルルは少し驚いた表情を浮かべた。

 明らかに戦慣れしていない少女が、疲労困憊しているのに、現状を正確に把握していることが意外だったからだ。

「少しは見直しましたか?」

 少し咳き込みながら、クラリスがシャルルの暗い目を見つめる。

「否定はしない」

「ふふ」クラリスは、微かに笑みを浮かべた。

 会話が途切れる。

 聞こえるのは、落ち葉を踏みつける湿った音のみ


「なぜこんな小娘が従軍しているのか、疑問に思っているのではありませんか?」

 少し親しげだった口調を改めて、クラリスはシャルルに問い掛けた。

 相変わらず、少し聞き苦しい声。だが、どこか淑女然とした落ち着きがある。

「そうだな」

 クラリスの蒼い瞳に宿る月の残光。シャルルはその青白い光を見つめた。

「男手が……なかったのです」

 シャルルに少し気を許したのか。あるいは、敵に捕捉されるかもしれないという恐怖をやわらげようとしてか。

 クラリスがぽつりぽつりと身上を語り出した。

「私の生家ヴェルヌイユは、没落したとはいえ、男爵位を授かっています。小なりとはいえ、治めるべき領地を皇家より受領しています。もちろん、その見返りに、家長は出兵の際には従軍する義務を負います。ですが……父はすでに病床にあり、軍役につくことはできません。父には私以外の子はいません。参戦義務を果たすためには、私が従軍するより他に手がなかったのです」

「代理人を立てるという手があるだろう?」

「もちろんです。父と私で検討してみましたが、無理でした。爵位を有する貴族の代理人ともなれば……最低でも騎士位にある者でなければなりません。ですが、この大遠征を前に、多くの有力貴族が代理人を求めたために、代理人獲得のために必要な金額が跳ね上がってしまったのです。最低でも金千。私たちには到底払えるものではありませんでした」

 それは恐らく探し方が悪かったのだろう、とシャルルは思う。

 うまく探せば、金五百程度で身元の確かな戦争代理人を確保できたはずだ。

 だが、病に冒された老男爵と、こうしたことに不慣れそうな男爵令嬢のことだ、うまく良い代理人を見つけることができなかったのだろう。

「それで、やむをえず、令嬢であるあなたが自ら参戦した、と」

「はい……。父は、家臣より十名ほど従士を選んで、私につけてくれたのですが、敗戦の混乱のなかで、散り散りになってしまいました」

「そうか」

 クラリスの装備は、チェインメイル。リング一つ一つが細かく、丁寧に編まれている。

 筋力に劣る女性でも着用できる防具だ。

 武装も、細剣が一本。

 戦場では実用性に乏しい。

 だが、従軍義務さえ果たせば良いのだから、敵を倒す必要はない。

 何かあったときに逃げ延びられるようにと、軽くて質のよい物を買い求めたのかもしれない。

 クラリスの装備を見るとはなしに見ていると、遠くのほうで気配を感じた。

 盆地の出口だ。

 クール盆地は急峻な山々に囲まれており、人が出入りできるのは、北端と南端の山裾だけである。

 予想どおり、戦功目当ての敵兵が網を張っているのだろう。

 斜面の下のほうで、ちらちらと松明の炎が瞬く。7、8本はあるだろうか。

 シャルルは、クラリスの右腕をつかみ、すっと身を伏せた。

 驚いた顔でシャルルを見つめるクラリスに、手で敵兵の接近を知らせる。

「ここで、やつらが通り過ぎるのを待つ」

 クラリスの耳元で、囁いた。

 強ばった表情で、クラリスが頷く。

 松明の光が揺れ、話し声が聞こえる。

 近い。

 クラリスが身を強ばらせているのが、鎧越しに分かる。

 怖いのだろう。

「本隊に合流するまでは、付き合おう。途中であなたに死なれては、金50をもらえないからな」

 気がつけば、彼女の耳元で、そっと励ましの言葉を呟いていた。

 我がことながら、少し信じられない。

 他人を励ますことができるほど、器用な人間ではなかったはずだ。

 いや、そもそも人間ですらないか、とシャルルは自嘲する。

 足音は遠ざかり、松明の光は後方に流れていく。

 十人前後はいたはずだが、誰もシャルル達に気付かなかったようだ。

 松明の光が見えなくなったのを確認して、シャルルはクラリスの肩を叩いて立ち上がった。

 肩を叩かれたことではじめて、当面の脅威が遠のいたことを認識したのだろう。

 強ばった表情のまま、クラリスはシャルルの左腕を支えに立ち上がる。

「いくぞ」

 クラリスにそう告げて、再び歩き出す。

 彼女は、ただ頷いた。

 間もなく日の出だ。

 もはや、猶予はない。

 シャルルは早足で歩き出した。


 だが、半里も歩かぬうちに、再び足を止める羽目になった。

 前方から激しく打ち合う音が聞こえる。

 落ち延びようとした味方が、敵に捕捉されたのだろう。

 斜面をさらに登ると、遠くで無数の松明が渦を巻くように動いているのが、目に飛び込んでくる。

 あの味方がうまい具合に敵兵を集めてくれたおかげで、見咎められずにクール盆地を出ることができそうだ。

 そう判断したシャルルは、

「この隙に一気に突き抜ける」

 とクラリスに告げた。

 彼女は緊張した面持ちで頷いた。

「もし見つかったら、私が敵を引きつける。その隙に山中を南に。決して街道に降りないように」

 山と山の境目を縫うようにして走る街道は、間違いなく敵に監視されている。

 そんなところをうろうろしていては、たちまちのうちに王国兵に見つかるだろう。

「分かったわ」

 シャルルは、木々の合間を縫うように走り出した。

 クラリスが走りやすいよう、経路を選びながら。

 左下に踊る松明の群れに気を配りながら、一気に駆け抜ける。

 松明がぐんぐん後方へと流れる。

 もう少しでこの哨戒線を突破できる。

 そう思ったところで、左前方で笛が鳴り響いた。


 見つかったか。

 シャルルは舌打ちする。

「私が敵を引きつける。あなたはこのまま逃げろ」

 低い声で、シャルルは鋭く命じる。

 クラリスの返答を待たずに、一気に斜面を駆け抜け。

 出会い頭の一撃で、笛を加えたまま硬直する王国軍兵士を一刀両断にする。

「敵だー!」

 あちこちから声が上がり、松明の群れがシャルル目がけて押し寄せてくる。

 なおも斜面を駆け下り、近づいてくる敵を次々に薙ぎ払う。

 勢いを止めずに、茂みを駆け抜け、街道に出る。

 目の前に、隊伍を組んだ十人規模の王国軍。

 いきなり飛び出してきたシャルルに驚いている。

 一気に距離をつめ。

 横に一閃。

 散開しそこねた歩兵2人の胴を輪切りにする。

「く、黒髪っ!」

 シャルルは視界を遮るヘルムを被っていなかった。

 世界でただ一人、彼だけが持つ黒髪が、松明に照らし出される。

「黒鬼だっ!」

 慌ててシャルルから距離をとりながら、王国兵が口々に叫ぶ。

 一人だけ、騎乗している者がいる。

 指揮官だろう。

 バルディッシュを右肩に構え、跳躍する。

 一気に距離を詰め、驚きのあまり固まっている敵騎士を、馬もろとも両断。

 馬の鮮血が波飛沫のごとく、シャルルの顔に降り注ぐ。

「閣下!」

 悲鳴が聞こえる。

 地方領主とその手勢なのかもしれない。

 残りの敵を一掃しようとして、後ろに向き直る。

 バルディッシュが次なる獲物に牙を剥いたとき、走り寄ってくる足音。

 かなり多い。

 騎馬もいる。


「黒鬼がいるというのは真かっ」

 前方より大声で怒鳴る者がいる。

「こ、これはアキテーヌ卿……」

 声のほうを振り向いた王国兵が、驚いたように声を上げる。

「アキテーヌ卿……。助かった」

「あの三十人殺しの……」

 そんな囁きが聞こえる。

 声に導かれるように、騎馬が一騎、闇の中から姿を現す。

 松明の光が照らし出すその姿は、巨大の一言に尽きた。

「ふんっ。貴様が黒鬼か。どれほどの巨漢かと思えば、まだ小僧ではないか」

 腹にずしりと響く声。

「鉄槌の騎士か……」

 シャルルの声も、緊迫の度を増す。

 容易ならざる敵だ。

「いつか相まみえたいと願っていたが、まさかこんなところで出会おうとはな」

 大音声でそう言うや、アキテーヌ子爵は馬を下りた。

 大きい。身長はクラリス二人分ありそうだ。

 もちろん、そんな人間いるはずもない。

 目の錯覚だろう。

 だが、人間離れした巨躯と、獰猛な雰囲気は、子爵の大きさを実物以上に見せる。

「閣下、馬はよろしいのですか?」

 子爵の従者が問う声が耳にはいる。

「不要だ。きゃつほどの剛の者が相手とならば、馬は真っ先に両断されてしまうわ」

 子爵は乗馬に据え置いていた獲物を取り上げた。

 これも大きい。

 柄の長さはシャルルのバルディッシュと変わらない。

 先端には、刃ではなく巨大な鎚が取り付けられている。

 子爵は、戦鎚の調子を確かめるかのように、振り回す。

 鉄槌が空気を掻き乱し、威圧的な音を周囲に振りまく。

「準備はよいか、黒鬼?」

 一騎打ちを所望らしい。

「一人で良いのか? なんだったら、そこの木偶の坊どもと一緒にかかってきてもいいぞ」

「貴様ごときを相手にするのに、そんな必要はないっ!」

 裂帛の気合いとともに、子爵がシャルルに跳びかかる。

 頭上から鉄槌が迫る。

 バルディッシュで受け止めては、斧が割れるかもしれない。

 瞬時に判断して、後ろに跳躍。

 鉄槌はそのままの勢いで地面にのめり込む。

 爆音とともに、大地が爆ぜた。

 土がシャルルの頬を叩く。

 ニヤリと獰猛な笑みを浮かべながら、子爵は鎚を持ち上げる。

 横薙ぎ、唐竹、逆袈裟。

 大鎚の暴風が吹き荒れる。

 かすってすらいないのに、風圧でシャルルの頬が切れた。

「どうした、黒鬼。ネズミのように逃げ回るしか能がないのか。その斧は飾か!」

「言ってくれる」

 シャルルは、バルディッシュを握りしめる。

 さすがに、手強い。

 傷ついた頬が熱を帯びて、痛む。

 ゾクゾクと背筋が震える。

 ――堪らない。

 興奮で頬が紅潮する。

 ――こんな獲物、久しぶりだ。


「さすがはアキテーヌ卿。黒鬼相手に押しているぞ」

 王国兵が呑気に歓声を上げる。


 バルディッシュを構え、今度はシャルルが跳びかかる。

 右上から左下に向けて、袈裟斬り。

 アキテーヌ子爵が戦鎚で受け止める。

 耳障りな金属の悲鳴。

 そのままの勢いで押し込む。

 子爵が踏ん張って押し返そうとする。

 その力に併せてバルディッシュを引き、左足を軸に一回転。

 腰に踏ん張りを効かせ、左下から右上目がけて、左斬上。

 子爵が戦鎚で防御。

 そのガードを、腰の捻りを効かせた一撃で押し上げる。

 鋼の擦れ合う音が響く。

「ちぃっ!」

 子爵の舌打ち。かすかな動揺の気配。

 シャルルはなおも打ち込む。

 子爵のガードを跳ね上げた勢いのまま。

 バルディッシュを振りかぶって、唐竹。

 子爵が頭上で防ごうとする。

 だが、それはフェイント。

 バルディッシュの刃が子爵の戦鎚と接触する寸前。

 バルディッシュの軌道をずらす。

 そのまま右下に刃を流し。

 不意をつかれた子爵が慌てて戦鎚を構え直そうとする隙を見逃さず。

 右下から左上に向けて右斬上。

 無理な体勢からの一撃。

 子爵のプレートアーマーを切り裂くことはできなかった。

 だが、プレートは、遠目にも分かるほど凹む。

「くぉ」と子爵が苦悶の叫びを上げる。

 腰骨にヒビが入っていてもおかしくない。

 それぐらいの衝撃を与えた。

 好機とばかりに、シャルルは畳みかける。

 左斬上。右薙。逆袈裟。逆風。

 全て子爵に防がれた。

 しかし、子爵の動きは明らかに精彩を欠いている。

 戦鎚で防ぎきれなかった刃が、子爵の鎧を撫でる。


 この機を逃すまいと、シャルルはさらに加速する。

 突き。

 防がれる。

 全体重を載せて突進。

 子爵の体重は、シャルルの三倍はありそう。

 だが、無理矢理に押し込む。

「ぐっ」とくぐもった悲鳴。

 先ほどの腰への打撃が痛むのか、子爵はたたらを踏むように後退。

 ――勝機。

 鋭い気合いとともに、シャルルはなおも突く。

 よろめいた子爵のガードは間に合わない。

 子爵の鎧にバルディッシュの先端が突き刺さる。

 一瞬の抵抗。

 一気に押し込む。

 鼓膜を破らんばかりの子爵の絶叫。

 もっと前へ。

 全体重をのせる。

 斧の先端が背骨をへし折り、子爵の背から生える。

「とった」

 シャルルは思わず叫んでいた。

 子爵の巨躯が痙攣する。

 力任せにバルディッシュを引き抜き。

 前のめりに倒れ込む子爵の首を刎ねる。

 兜ごと首が飛ぶ。

 堰を切ったように切り口から血が迸る。


「アキテーヌ子爵、討ち取ったりっ!」

 シャルルは吠えた。

 血が滾る。

 全身をゾクゾクするような興奮が襲う。

 ――最高だ。

 気がつけば、激しく勃起していた。

 屹立した竿が鎧に当たって痛む。

 だが、そんなことすらどうでもいいほどの歓喜が身を包む。

 ――そうさ、お前は所詮そういう奴だ。戦闘前にどれほど虚無の淵で戯れようが、いざ戦闘となれば、本能のままに殺し、貪る。飢えた鬼だ。

 内なる声が聞こえる。

 シャルルは、その声に抗う術を持たない。

 血に飢えた鬼。血塗れの狂戦鬼。

 ニタリと獰猛な笑みを浮かべ、周囲を取り囲む王国兵の群れに突っ込む。


 長雨が止んだばかりの大地に、血の雨が降り注ぐ。

 集った王国兵を、阿鼻叫喚の地獄に引き摺り込む、死の雨だ。

 撤退という大目標さえ忘れ、シャルルは暴れ回り、殺し尽くす。

 無慈悲なバーサーカー。



 曙光が大地を朱く染めたとき。

 盆地出口付近の街道に、生き残った王国兵は見当たらなかった。

 血臭が辺りを覆い、地上に地獄の薫りを運ぶ。

 シャルルは手甲で頬を伝う鮮血を拭う。

 絶頂後の余韻が、興奮の残り火となって、躰中をくすぶる。

 愉悦に頬を歪めたまま、ぼんやりと立ち尽くしていると、頬に何かを押し当てられた。

 振り向くと、クラリスが立っていた。

 顔面は蒼白である。

「血だらけですから、顔を拭ったほうがいいかと思いまして、これを……」

 声が震えている。

 それでも、クラリスは気丈に手をシャルルの眼前に差し出す。

 濡れた布だ。

「水筒を持っている王国兵がいましたので、拝借しました。綺麗な水でした」

「助かる」

 シャルルはそう呟いて、濡れた布巾を受け取った。

 それで顔を拭う。

 たちまちのうちに、布巾が朱く染まった。

 一通り拭き終わると、布を捨てた。

 あそこまで血が染みこんでは、誰も使いたいとは思うまい。

「これを……」

 目の前に、水筒が突き出される。

 シャルルは黙って受け取り、一気に水を飲む。

 久方ぶりの水だ。

 カラカラに渇いた喉が潤う。

 体内に籠もった熱を冷ますようで、気持ちがいい。

 水を一気に飲み干した。

 水筒を返そうとして、気がとがめた。

「すまない。全部飲んでしまった」

 シャルルの謝罪に対して、クラリスは強ばった笑みを浮かべた。

「いいですよ。どうせ私のものではありませんから」

「それもそうだな」と呟いて、水筒を腰に下げる。

 長い退却行になる。道中で水分を補給できる場所があるかもしれない。

「それにしても」と呟きながら、彼女に視線を合わせる。

「はい」

「なぜ逃げなかった? 私が敵を引きつける間に、逃げろと言ったはずだ」

 睨むようなシャルルの視線に怯みながらも、クラリスは視線を逸らさなかった。

「戦の心得がなくとも、私も騎士です。命の恩人が戦っているのに、どうして見捨てて逃げることなどできましょう?」

 クラリスは挑むように、シャルルの暗い瞳をのぞきこんだ。

 吸い込まれそうなほどに、深い蒼の瞳。

 シャルルという化け物の狂態を目の当たりにして怯えている。

 だが、怯えてもなお逃げない芯の勁さが、瞳の奥底に潜んでいるような気がした。

 ――強いひとだ。

 シャルルは素直に感嘆する。

 今のシャルルに近寄ろうとする者は、歴戦の兵士のなかにも、そうはおるまい。


「さ、参りましょう」

 シャルルがなおもクラリスを見つめていると、クラリスは顔を南に向けた。

「いつまでもここに止まっていては、新手の敵兵に捕まります。今は一刻も早く、道を戻り、友軍に合流しましょう」

「そうだな」

 二人は連れだって街道を離れ、道に沿って山腹を歩き始めた。


「怖くは、なかったか?」

 足を止めることなく、シャルルは問う。

「怖かったに決まっています。今だって、怖いです」

「だろうな」

「あなたが闘っている姿を見て、『鬼』と呼ばれる所以がよく分かりました。黒目黒髪は鬼。そんな目や髪の色なんてどうでもいいくらい、戦場のあなたは恐ろしかった。特にあの笑い声……。しばらくは夢に出てきそうです」

 クラリスは、己の躰を抱きしめるように、両腕で胸を締め付ける。。

 シャルルには、返す言葉もない。

 興奮が退けば、自分がまたやり過ぎたと、十分に承知している。


「なぜあなたのような黒目黒髪の鬼が生まれるのか、考えたことはありますか?」

 黙ったままのシャルルに、クラリスが問い掛けた。

「さて……。先祖返りだとか色々言われているが、本当のことは誰にも分からないだろう」

「黒目黒髪つまり鬼は、戦乱が続くと生まれると言います。記録にある限り、確認されたのは五百年前が最後。百年戦争の時代です」

「白薔薇軍に加わったその鬼は、さんざん暴れ回って死を振りまいた末に、紅薔薇軍の罠に嵌まって生け捕りにされ、火炙りにされたらしいな」

「その八百年前にも一人、鬼が生まれています。北方から侵入した蛮族が大陸諸国を荒らし回り、戦火が絶えなかったころの話です」

「当時、大陸最強をうたわれたエトルリア帝国に仕えたその鬼は、途中で発狂し、皇帝の寝所に押し入って皇族を皆殺しにした。最期は、スープに盛られた毒で殺されたと言われているな」

「結果だけ見れば、その通りです」

 ですが、とクラリスはシャルルに顔を向ける。

「その二回とも、鬼の参戦を契機に戦局は終息に向かいます」

「それこそ、結果論だろう」

「さきほどのあなたの闘いぶりを見て、思ったのです」

 シャルルの言葉に取り合わずに、彼女は続ける。

「鬼は、長きにわたる戦乱を鎮めるために産まれるのではないでしょうか」

 信じられないような台詞に絶句する。

 先ほどまで、シャルルの身を焦がしていた殺戮衝動。

 あれこそが、鬼の本性。

 それが、戦争を終わらせるためのものだとは、到底信じられない。

「馬鹿馬鹿しい」

「戦線を鬼に頼っていたエトルリア帝国は、鬼が死んだ後、一転して蛮族との融和策に方針を転換します。歴史書によれば、それまでの皇帝が武断派だったのに対し、新帝は文治派だったと。彼のもとで、大陸は安定を取り戻し、蛮族も次第に定住化したと言います」

 軽く息を継ぎ、クラリスはなおも続ける。

「戦乱は、力によってのみ終わらせることができます。うち続く戦争を終わらせることのできる圧倒的な力。それこそが、『鬼』でしょう」

「そんなはずがあるか! 見ていたなら分かるだろう? この力は、ひとたび暴走したら、誰にも止められない。ただただ殺し尽くす。そんなものが平和をもたらす? そんなハズはないだろう」

 シャルルは我知らず、大声を上げていた。

「静かにしてください」

 怒鳴られたことで却って落ち着いたのか、クラリスの声に怯えの色はない。

 気がつけば、二人とも足を止めていた。

「私が言ったことは、仮説にすぎません」

「検討するに値しない仮説だな」

「私に力を貸してくれませんか?」

「誰か殺したい相手でもいるのか?」

「私は今回、はじめて戦争というものを肌で感じました。ひどいものです。耳を塞ぎたくなるような絶叫が耳にこびり付いて離れません。血の臭いは噎せ返るほどに濃密で、息を吸うたびに吐きそうになるほどでした。辺りを見回しても、敵味方の死体ばかり。おまけに、生きながらにして泥に埋められ、誰も助けてくれませんでした。あなたをのぞいては……」

 語りながら、戦場の情景を思い出したのだろう。クラリスは声を震わせながら、なおも話を続ける。

「この戦乱は既に、三十年以上も続いています。折からの冷害も重なり、年々農民が減っています。農民が減れば、食糧はますます減少します。戦、旱魃、飢餓、貧困。このままでは、世界は暗黒時代に逆戻りしてしまいます。私は、この流れを食い止めたいのです」

 クラリスの瞳は、どこまでも真摯だ。

 だが。

「どうやって? あなたは戦争代理人を雇う費用すら捻出できないような貧乏領主の娘だろう。世界を変えるなどという大それたことをできるようには見えない」

「普通ならそうでしょう。当然ですよね」

 ですが、とクラリスは躊躇うかのように目を伏せる。

 続きを言おうかどうか、逡巡しているかのよう。

 一瞬の沈黙。

 カサリと、近くで落ち葉がこすれるような音がする。

 ハッと辺りを見回すが、動く気配はしない。

 大方、リスが冬に備えて巣籠もりの準備をしているのだろう、とシャルルは見当を付ける。

「今は好機なのです」

 クラリスが再び口を開いた。

 双眸には決意の光。

「この戦、カスティヨン皇国の負けです。アジャンクール王国は皇都カスティヨンにまで攻め寄せることでしょう。アジャンクール王は、若いながらも、非常に好戦的で野心的と聞きます。まず間違いなく、カスティヨン全土を併合します」

 自国が滅びるという予想を、はばかることなく口にするクラリス。

「かもしれない」

 皇家に忠誠を誓っているつもりだったが、仕える皇家が滅ぶと聞いても、シャルルには何の感慨も浮かばない。

 代々皇家に仕えてきたから、自分もそうする。高価な黒鋼の鎧を下賜されたから、主のために戦おう。シャルルにとって、忠誠とはそういうものであった。命ぜられれば、死地に赴くこともやぶさかではない。

 けれども、主君のために死ぬことこそ本懐というような、倒錯した無条件の忠誠心は持ち合わせていない。

「ですが、皇国はアジャンクールよりも広大です。しかも、東のロレーヌとは領地をめぐって火種を抱えています。皇国崩壊の隙をついて、まず間違いなく周辺諸国が介入してくるでしょう」

「そうなっては、あなたの領地存続も危なくなるのではないか?」

「いいえ、逆です」

 クラリスは断言した。

「皇都が占領されれば、多くの騎士や兵が仕える主を失い、あぶれることになります。通常、そうした戦士たちは帰農するか、傭兵となります。とはいっても……新たな雇用主を探すよりも先に、彼らは徒党を組んで村々を襲うことでしょう。糧を得るために……」

 国が滅ぶとき、よく目にする光景だ。

「だろうな」

「私は」とクラリスは告げる。

「そうしたあぶれ者を糾合します」

「どうやって? 金もないのに、どこから雇うだけの費用を捻出する気だ?」

「私の母は、トゥーロン伯の長女です。トゥーロン伯には現在、二人の嫡子がいますが、二人とも生来惰弱で、とても伯爵家の主として振る舞う器量はありません。彼らが消えれば、伯爵家は私のものになります。幸い、祖父トゥーロン伯は痴呆の気を示しています。公子二人を亡き者にすれば、伯爵家乗っ取りは難しくありません」

「お淑やかなお嬢様と思いきや……。どうしてどうして。伯爵家は体内に毒蛇を飼っていたというわけか」

 シャルルの非難めいた口ぶりにも、クラリスは一切表情を動かさない。

「重要なのは結果です。手段は問題ではありません。結果として、戦乱の世が終わることが重要なのです」

「そして、あなたは伯爵家をのっとり、浪人たちを集めて大領主として君臨する、と」

「当然です。力なき者の理想は無意味です」

「そこまで勝算があるのなら、やればいいだろう。私に声をかける必要など、ないのではないか?」

 クラリスは、はじめて表情を変えた。呆れたような顔でシャルルを見つめる。

「本気で言っているのですか? 若い女貴族が伯爵家を手に入れたところで、与し易いと侮られるだけでしょう。他の貴族に侮られるのは大いに結構です。ですが、私の駒となるべき戦士たちに侮られては、優れた軍勢を揃えられません。だからこそ、あなたが欲しいのです、黒鬼。いえ、シャルル・ド・クレシー」

 稜線より姿を現した晩秋の太陽が、雨上がりの山々に穏やかな光を贈る。

 針葉樹の枝枝から、光を吸い込んだ滴がきらめき、大地に落ちる。

 上空では、雁が群れをなして飛んでいく。

「つまり……私に、あなたの軍勢の押さえとなれ、と?」

「はい」

「そうコロコロと主君を変えると思っているのか? 私も安く見られたものだ」

「いいえ。現在のルイ陛下は、あなたにとって真の主君ではないはずです。あなたのことは、ずいぶん調べました。騎士マクシミリアン・ド・クレシーの嫡男。ご両親はすでに亡く、十歳にてクレシー家を嗣ぐ。同時に、初陣。以後八年間、皇国が関係する戦には欠かさず参戦。数々の武勲を立てた」

「本当によく調べている」

「ですが、あなたがルイ陛下に心底忠誠を誓っているとは、とうてい思えません。陛下より下賜されたその鎧は重要でしょうが……。私には、あなたが鬼の『血』を言い訳にして、暴れ回っているにすぎないように見えます。陛下の命令など、暴れるためのきっかけにすぎないのではないですか?」

 シャルルは、返事ができなかった。

 往々にして、図星を突かれた人間は逆上するというが、言いたい放題言ってくれるクラリスに対する怒りはない。

 ――クラリスの言うとおりなのだろうか。そう言われてみれば、そうなのかもしれない。よく分からない。

 自分のことなのに、クラリスの指摘が合っているのか、間違っているのか、はっきりしないのだ。

 確かなのは、何も考えずに血の雨を降らせているときが、一番楽だということ。

 味方の鬱陶しい陰口も聞こえず、苦手な金勘定に煩わされることもない。

 騎士といっても、領地すら持たぬ名ばかりの貧乏騎士。

 どれだけ軍功を上げても、鬼だから当然のこととして、わずかばかりの恩賞を授けられるのみ。

 理性と品性に欠ける鬼に領地を与えたところで、農民を食い殺してしまうと、まことしやかに囁かれているらしい。

 それがシャルルの待遇の理由なのかどうか、知る術はない。

 カサリと、落ち葉のこすれる音がする。

 随分と勤勉なリスだと思い、辺りを見回す。

 そこで、心配そうに見つめるクラリスの蒼い視線にぶつかった。

「なんだ?」

 他人に心配された経験など、ついぞない。

 見間違いだろうと検討をつけ、シャルルはぶっきらぼうに問う。

「……いえ。ずいぶんと考え込んでいるようでしたので」

「まあ、大したことではない。……それで? 仮にルイ陛下が私の真の主君ではないとして、どうして私があなたに仕えねばならない? 私には何の利もないだろう」

 シャルルは、わずかばかりの狼狽を押し殺した。

 この少女に出会ってから、自分自身気付かなかった己の一面が次々と露わになっていく気がする。

「そこが問題です……」

 そう言って、クラリスは溜息をついた。

「私自身を差し上げる、というのはどうでしょう……?」

 チラッとシャルルを見上げる。

「なっ」と、シャルルは思わず狼狽えた。

「ダメですか……?」

 クラリスは上目遣いに、顔を近づける。

 唇と唇が触れあわんばかりの距離。

 うっ、と呻いて、シャルルは咄嗟に飛びすさる。

 その拍子に、背後の大木に頭を軽くぶつけた。

「くっ」という小さな鳴き声。リスはあんな風に鳴いただろうか。

 よく分からない。

「大丈夫ですか?」

 クラリスが、心配そうな表情で、ふたたびシャルルに顔を近づける。

 クラリスの提案のせいで、クラリスの容貌を変に意識してしまう。

 容貌といっても、全身泥まみれでハッキリとは分からない。

 顔だけは拭ったようだが、あちこちに乾いた泥がこびり付いている。

 すっきりとした頬と下顎に、小ぶりの鼻梁。

 決意の強い光を宿す蒼い双眸。

 そして何よりも、皮を剥いで標本にしたら、さぞ美しいだろうと思われる、頭蓋骨の骨格。

 敵将の頭蓋骨にワインを注いで飲んだ武将がいたというが、彼ならばさぞかしクラリスのことを高く評価するだろう。

 ――一体、自分は何を考えているんだ。

 シャルルは、慌てて思考を戻す。

 目が焦点を結ぶ。

 顔が近い。

 両手でクラリスの肩を押さえ、彼女を押し戻す。

 あら、と声を上げるクラリスを無視。

「きゃ、却下だ」

 少しどもった。

「ダメですか?」

 いかにも残念そうな声。

「論外だ」

 シャルルは断言する。

 少し残念なような、ほっとしたような、名状しがたい気分が彼を襲う。

「仕方ありませんね……」

 そう呟くや、クラリスは居住まいを正した。

「あなたは、自分が何ものなのか、何のために生を受けたのか、知りたくはありませんか? 鬼だからこういうものなのだ、というのは子どもの論理です。人間であれ、他の動植物であれ、生まれてくるにはそれ相応の理由があるはずです。私とともに来てください、シャルル。あなたが誰なのか、一緒に解き明かしましょう」

「知ってどうする?」

 シャルルは、脳裏に浮かんだ疑問を、そのまま口にする。

 頭が混乱して、うまく思考できない。

 もともと考えるのは苦手だ。

「己を知る――難しいことです。ですが、己を知れば、己が何をしたいのか、見えてきます。あなたとて、心の中では鬼が何なのか、自分はこれからどうすればいいのか、分からないのでしょう? あなたに仮初めの理由を与えてくれた皇国は間もなく滅びます。あなたには、生きる理由が必要です。皇家への忠誠などという間に合わせのものではない、本当の希望が。私とともに歩んでください。きっと、見つかるはずです。あなただけの理由が」

 クラリスは両手でシャルルの手を握りしめ、せつせつと訴えかける。

 シャルルには、返す言葉が見つからない。

 ――自分は誰なのか、何のために生きているのか。クラリスについて行くだけで、それが分かるのか。

 分からない。

 頭が混乱する。

 だが。

 クラリスについて行ってもいいのではないか、という気がする。

 彼女の情勢判断は間違っていない。

 カスティヨン皇国は滅亡するだろう。

 そうなれば、身の振り方を考えなければならない。

 このまま皇家に仕えたところで、無意味な防衛戦に駆り出されて、時間稼ぎの駒として犬死にするだけだろう。

 かといって、他にどうしたらいいか、当てはない。

 ならば、取り敢えず彼女に従ったところで問題はないはずだ。

 気に入らないことがあったら、立ち去ればいいのだ。

「分かった」

 気がつけば、同意していた。

「ありがとうございますっ」

 クラリスは抱きつかんばかりに、喜びを表現する。

 ――顔が近い。

 シャルルがそうクラリスに告げようとしたとき。

 アハハという陽気な笑い声が、斜面に響いた。

 反射的に、声がした方向を見る。

 たぶん木の裏側。

 シャルルは、木に立てかけたバルディッシュをつかみ、構えようとした。

 そのとき。

 木の幹に左手を添えながら、一人の少女が現れた――。


「いやー、ごめんごめん」

 少女は頭を軽く下げ、謝罪の意を示してくるが、口ぶりはまるで謝っていない。

 だが。

 そんな彼女の謝罪は、シャルルの耳に入らなかった。

「なっ」と呟いたきり、絶句してしまう。

「ん? どうかした?」

 ニコニコとした表情で、問う少女。

 一方。

 まるで頼りにならぬシャルルにかわり、クラリスは鋭く誰何した。

「何者なのです、あなたは? どうしてここにいるのです? いえ、それよりも……。あなたのその髪は一体?」

 声の調子から、クラリスも動揺していると分かる。

「あ、この黒髪? これは地毛よ、地毛。染めたわけじゃないから、安心してね」

 少女は、あっけらかんと告げる。

「……ならば、お前も……鬼なのか?」

 シャルルは信じられない面持ちで、問い掛けた。

 自分以外に黒髪の者がいるなど、聞いたこともない。

「あ、違う違う」

 少女は、手をひらひらと振る。

「私はさ、こことは違う世界から来たんだ」

 彼女はにこやかな表情で、衝撃的な台詞をつぶやいた。

「何を言っている? 本当に本物なのか?」

 シャルルはクラリスを押しのけ、少女の前に歩み寄る。

 籠手をはずし、彼女の髪を掴む。

「い、痛い」

 叫ぶ声は無視する。

 力を入れて引っ張りすぎたせいか、すっと毛が一本抜けた。

「いきなり人の髪を掴むなんて、どういう神経しているんだ」

 ぷりぷりとした表情で、彼女が憤りを露わにする。

 シャルルは黙って髪の毛を陽の光に照らす。

 どう見ても黒。

 左脇から細い手が伸び、長い髪の毛をつかむ。

「私にも見せてください」

 クラリスも、毛を両手で持って、しげしげと観察した。

 抗議する少女。観察を続けるクラリス。クラリスを見守るシャルル。

 しばしの間、一本の毛をいじっていたクラリスだったが、シャルルのほうを向き直った。

「信じがたいことですが……私の見る限り、染めたわけではないようです」

 彼女も呆然としている。

「あなたは、本当に鬼ではないのですか?」

 彼女は少女に問い掛ける。

「だから、違うって。私は、こことは異なる世界から来たの。アイフォンもノートも、持ち物は全部取られちゃったから、小説みたいに証明できないけど……。まあ、この世界には、非力な黒髪なんているはずないらしいし。消去法で説明できるんじゃないかな?」

 とられた、という言葉でハッとする。少女を改めて見ると、農奴と変わらぬようなみすぼらしい身なりをしていた。

 麻で編まれたものだろうか、粗末な貫頭衣。泥だらけの両足。裸足だ。長い黒髪はほつれ、手入れされていないのが一目で分かる。

 シャルルが何を見ているか分かったのだろう。

 少女は、貫頭衣の裾をつかんだ。

「あ、これ? こっちの世界に来て右往左往していたら、人買いに攫われてね。身ぐるみ剥がされて、これ着せられて馬車に押し込められたんだ……。だけど、どうやら、その人買いは強欲すぎたみたいでね。この盆地で戦闘があると知って、疲れ切って抵抗する術を失った敗残兵を捕まえようとしたみたい。でも、どうも流れ矢に当たったみたいでね、死んじゃった。なんとか馬車から脱出して、こうして着の身着のまま逃げてきたってわけ」

 あっけらかんとした表情で、少女は告げた。

「そう……」と呟いたクラリスは、シャルルを見上げた。

「黒目黒髪以外で、鬼かどうか見分ける方法はありますか?」

「怪力かどうか、闘っていて興奮するかどうか。あとは、闘いの最中に我を忘れるかどうか、といったところか」

「それだけでは、何ともしようがありませんね」

 クラリスは右手を顎に添えた。

「あたしもあちこちでさんざん鬼呼ばわりされてきたから、どんなものだろうと思ってたけど、言うほど人間と違わないよね」

 脳天気な少女の声に、シャルルははっとした。

 黒目黒髪が絶対的な基準として厳然と存在するが。

 逆に言えば、それ以外に鬼と人とを分ける明確な基準は――ない。

「それで……あなたは何が目的で私たちに話しかけてきたのかしら?」

 クラリスが静かな声で問う。

 動揺の気配はもはや微塵もない。

「よくぞ聞いてくれました。さっきから話を聞いてたんだけど……ねえ、私も仲間に入れてくれない?」

「やはり、聞かれていましたか」

「ちょうど私が隠れていた木の反対側で突然深刻な話をはじめるんだもん、びっくりしちゃった」

 少女に悪びれた様子はない。

「そうですか……聞かれてしまった以上、口封じをするしかありません」

 冷酷とも言える表情で、クラリスは少女を睨みつけた。

「待ってってば……。雇うメリットは大きいよ」

「私は、秘密が漏れる危険性のほうを重視しますが」

「さっきから聞いてると、お姫様には、この戦乱の世を変えたいという漠然とした目標しかないみたいじゃない? 当座の目的としては、親戚の家を乗っ取るっていうのがあるみたいだけど、じゃあそこから何をどうするか、まったく計画がないみたい」

「いよいよ生かしておくわけにはいきませんね」

 雪女のように寒々とした声で、クラリスは宣告した。

「だから待ってってば……。あたしには、世界を変えるための知恵があるよ」

「戯れ言を……。あなたのような賤しい身なりの者に、それほどの学があるとは思えません」

「じゃあ聞くけどさ、お姫様はこの戦争を終わらせれば、それで全てが丸く収まると、本当に思っている?」

「平和になれば全てが解決するとは思いません。それでも、平和になれば、戦争で荒廃した村々が復興し、商人の往来も再び活発になるでしょう。そうなれば、少しずつ富が増え、死者も減ります」

 相変わらず、冷たい声でクラリスは淡々と告げる。

 先ほどまで、シャルルと微笑ましいやりとりをしていたときとは、まるで様子が違う。

 ――女はすごい。

 昔どこかで耳にした言葉を、シャルルは思い出した。

 二人の会話に、口の挟みようがない。

 シャルルにできることは、黙って聞いていること、それだけであった。

「よくできました」

 人をくった返答。

「バカにしているのですか?」

 クラリスの声が尖る。

「まさか。お姫様が言っていることは間違ってない。でもさ、この戦争を終わらせたところで、すぐに次の戦争が起きるだけだよ? お姫様だって、十分分かっているはず。私はこの世界の情勢に詳しくはないけど、私の住んでいた世界の歴史ならよく知っている。農奴が木製の農具を使って畑を耕し、年貢を領主に納める。農奴からの税をもとに、戦費を調達した領主たちは、槍や甲冑に騎馬を揃えて、戦争に臨む。こういう時代のことを、私たちは『中世』って呼んでいる。で、この時代の主従関係のあり方を、『封建制』って名付けている。まぁ、最近のヨーロッパ中世史研究では、『土地を媒介とした主従関係』という意味での制度としての『封建制』などなかった、という見解が主流だけどね」

「それがどうしたというのです? あなたの世界とやらの事情には興味がありません」

「まあ、もう少し聞いてよ。でさ、この中世の戦争の特徴なんだけど……宗教戦争や農民戦争なんかをのぞけば、大体王位継承か領地の境界線をめぐって起こるんだよね。つまり、誰を跡取り息子にするかを巡って、親類縁者が戦争することが多いってわけ。親類っていっても、大体貴族同士の結婚なんて信じられないほど複雑に入り組んでいるから、継承権なんて結構簡単に主張できちゃったりもする。私と同じように人買いに攫われた奴隷仲間から色々話を聞いたんだけど、この世界でも戦争の原因は似たり寄ったりみたいね」

「だとしたら、なんだというのです?」

 クラリスがさらに眉をしかめた。

「もう私の言いたいこと、大体分かっているんじゃない? 私が言いたいのはさ、封建制が存続するかぎり、跡目争いはなくならない。言い換えれば、王位継承戦争は決してなくならないってこと。江戸時代の日本みたいに、圧倒的な武力を誇る幕府が誕生すれば話は別だけど、この世界でそこまで強力な勢力がすぐに誕生するとは到底思えない」

「ならば、それだけの力を蓄えるまでです」

「まあ、それも一つの方法だと思うよ。お姫様の代で達成できるとは思えないけど……。でも、もう少し楽な方法もある。それが、『勢力均衡』という考え方。どこかの王様が戦争を起こそうとしたら、同盟を組んでその国と同じくらいの力を持った連合をつくる。普通、力が同じくらいの相手に戦争を仕掛けるのは、かなりリスクが高い。だから、その王様は戦争を思いとどまるかもしれない。まあ、この概念は本来、領域国家が成立した後に用いられるものだから、そのまま適用するわけにもいかないけど、うまく外交を行えば結構成功すると思う」

「何を言うかと思えば……当たり前の話ではないですか」

「そう、至極当たり前の話。でも、お姫様が多くの王様たちと親しくなって、大陸中から情報を収集できれば、この概念を使って戦争を防ぐことは不可能じゃない。つまり、どこかの王様が戦争準備を始めたとの情報が入ったら、すぐに、彼に敵対的な諸王に働きかけて、対抗同盟を結成させるんだ。それから、その同盟の存在を、戦争準備をはじめている王様にこっそりと知らせる。そうすれば、その王様は戦争をしかけるのを躊躇う。そこまでやってもなお、その王様が戦争を始めるようなら、お姫様は反対陣営に加わって、その王様を懲らしめればいい。でも、いざ戦争になっても反対陣営側が勝ちすぎないように、うまく調整しないとダメだよ。勝ちすぎては、バランスが大きく乱れる。もう一つ付け加えておくと、この仕組みは、作った人にすごく有利なんだ。うまくやれば、人様の戦争を利用して、領地をネコババできるかもしれない」

「……そううまくいくはずはないわ」

「もちろん。大抵の王様は失敗する。でも、うまくいくこともある。一番いい例が、私の世界のイギリスっていう国で、同盟関係をうまーく操って、なかば一人勝ちしてたんだ。これをやるためには、交渉が上手い外交官を沢山養成する必要がある。だから、すぐにできることじゃないけど、大陸中に睨みを効かせられるほどの超大国になるよりは簡単だと思うよ。まぁ、このやり方の一番の問題点は、どうしても戦争をしたいと思う王様がいたら、止められないってことなんだよね。で、なまじ大きな同盟組んじゃってるから、一度戦争が起こると、ものすごい大戦争になる可能性が常にあるんだ」

「……でしょうね」

 クラリスは、少女の長広舌に気圧されたかのように、口数少なく相槌をうった。

「ここまでは、戦争根絶っていう人類の大目標についてだけど……。戦争がときどき起こるけど、人々が少しずつ豊かになっていくっていう世界を作り出すのは、もう少し簡単にできると思う」

 そこまで言って、少女は口を閉じた。

 それまでとは打って変わって、沈黙が支配する。

「……それは?」

 しぶしぶといった感じで、クラリスが問う。

「それを言うには、もっとこの世界のことを知らなきゃ」

「そう」

 言葉少なに相槌を打つクラリス。

 少女はにんまりと笑った。

「今、こいつ雇っても損はないかもしれないって思ったでしょ? あたし、こう見えて結構役に立つよ。外見だって、黒鬼さんと同じ黒目黒髪だから、知らない人が見れば、あのお姫様は黒鬼を二人抱えているって思うかもしれない。そう思わせるだけでも、交渉がぐっとやりやすくなるよ?」

 クラリスは、少女のほうをチラリとも見ずに、考え込んでいる。

 シャルルは、二人の会話に口を挟むこともできずに、二人を見守っていた。

 黒髪の少女の足元を見ると、微かに震えている。

 シャルルは、ハッとした。

 陽が昇ったとはいえ、貫頭衣一枚でいるには、晩秋のアジャンクール王国はあまりにも寒い。

 しかも、己の生殺与奪の全権を握る者が二人、彼女の前に立っている。

 少女の言を信じるならば、別の世界なるところから、見ず知らずのこの地にやってきたという。来て早々に人買いに攫われて閉じ込められ、やっと逃げ延びてきた先で、また殺されるかもしれない窮地に立たされているのだ。

 平気でいられるはずがない。

 連れて行ってもいいのではないか。

 シャルルがそう思ったところで、クラリスが断を下した。

「分かったわ。あなたが私たちの会話を漏らしたところで、誰も信じないでしょうし。あなたを雇いましょう。当面の衣食住は保証するわ。それでいいかしら?」

「お、話が分かるね。あたしはミヨ。ミヨ・カスガ。よろしくね」

 ミヨは右手を差し出した。

「私はクラリス・ド・ヴェルヌイユ。私の期待を裏切らないでね、ミヨ」

 クラリスは、取り繕った笑みを浮かべ、ミヨの手に自らの右手を重ねた。

 二人の手に、シャルルも右手を重ねる。

「シャルル・ド・クレシーだ」

 コホンと咳払いをして、ミヨが勿体ぶった口調で宣言した。

「我ら三人、姓は違えども姉妹の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を」

「何だそれは? いつから私たちは兄弟になった?」

 シャルルは呆れた。

「あはは。いいじゃない? 一度やってみたかったのよ、三国志演義のこの一節。桃園の誓いっていうんだけどね、劉備、関羽、張飛っていう三人の男達が意気投合して、張飛の屋敷の桃園で義兄弟の契りを交わしたの。これは、そのときに言ったとされる誓いの言葉。で、この三人は、当時まだ無位無冠だったんだけど、乱世に乗じて、天下の三分の一を占めるほどの大国を築き上げるの。まあ、本当かどうか分かったもんじゃないんだけどね」

 クラリスがシャルルを睨みつけた。

「いつ、私たちが義兄弟になりました? ミヨ、あなたはいつ首を切られるかもわからない使用人にすぎないのですよ?」

「いいじゃない、言ってみたって。嘘から出た真って言葉もあるし、案外真実になるかもしれないよ?」

 ふてぶてしいミヨに対して、クラリスが柳眉を逆立てる。

「冗談じゃないわ」

「でも、結構いい線いってると思うんだよね。この義兄弟の長兄、劉備が君主。次兄、関羽が知勇兼備の名将。末弟の張飛が怪力無双の猛将。あたしたちで言うと……シャルルが張飛、クラリスが劉備になるかな。で、私が関羽。あー、でも、クラリスが劉備ってどう考えても違うよね。どっちかっていうと、クラリスが曹操。乱世の奸雄って感じ。シャルルは……張飛でもいいけど、呂布に近い気もする。一個人としては文句なく最強」

「何のことか分からないけれど、奸雄という響きは私には似合わないわ」

「そう思っているのは、クラリスだけだと思うよ」

「自分が最強かどうかなど、どうでもいい」

 本当にどうでもよさそうな口調で、シャルルは欠伸混じりにつぶやいた。

 ほぼ丸一日闘い通した疲れが、ここにきて強くなってきた。

「それで、あなた自身はどうなのよ、ミヨ?」

 人のことを言いたい放題言ってのけるミヨに、クラリスは苛立ちをぶつけた。

「あたし? あたしはそうねえ。郭嘉と荀彧じゅんいくと諸葛亮を足したくらいかな?」

 ふてぶてしくも、ミヨはそう豪語した。

 気を張り詰めているのに疲れたのか。意味がわからないながらも、どうせ大言壮語しているのだろうと見切りをつけたのか。

 クラリスは脱力したように肩を落とした。

「さあ、歩きましょうか。ヴェルヌイユ領はまだ大分先です」

「そうだな」とシャルルも同意した。

「あ、待って」

 ミヨが少し慌てたようにシャルルの手をつかむ。

「なんだ?」

「私、はだしでここまで逃げてきたんだけど、実は足の裏の皮が剥けちゃって、もう歩けそうにないんだ。実は、立っているだけでもかなりつらい。シャルル、力があるなら、あたしを背負ってもらえないかな?」

 無理もないと思う。

 夜の山をはだしで走り回るなど、自殺行為だ。

 クラリスを見ると、頷き返してきた。

「分かった」

「ありがとう」

「だが、お前を背負うと両手が塞がる。それではイザというときに反応できない。だから、肩に乗れ」

 シャルルは右手でミヨの腰をつかみ、片手でかるがると自らの左肩に彼女を乗せる。

「おお」とミヨが年甲斐もなく、歓声をあげた。

「では、行きましょう」

 クラリスが宣言した。

 気がつけば、既に日は天頂に達しようとしていた。

 それぞれの思惑を胸の内に秘め、三人の男女が最初の一歩を踏み出した。





 そして、その日の晩。

 三人は大樹の根元で一夜を明かすことにした。

 空腹に苦しみながらも、食糧は何もない。

 シャルルは、戦闘の疲労もあり、根元に座り込むや、泥のように眠り込み、翌朝まで目を覚ますことはなかった。

 本来ならば、交代で見張りを立てるべきだが、すでに二日にわたって、誰も寝ていない。

 ここで捕まるようなら、所詮はそれまでという自暴自棄な楽観論が一行を支配していた。

 もっとも――。

 女二人はシャルルほどすぐには寝付けなかった。

 眠りこけるシャルルの傍らで、クラリスはミヨに問い掛けた。

「あのとき、なぜ笑っていたのです、ミヨ?」

 ミヨは眠そうに目をこすった。

「ああ、あれ。昔見た結婚詐欺の映画にそっくりだったから。ああ、こんなのに引っ掛かる男本当にいるんだと、思わず吹き出しちゃった」

「映画とは何です? いえ、それよりも結婚詐欺とは人聞きの悪い」

「映画っていうのは……そうだねえ。何度も繰り返し見ることの出来る演劇みたいなものかな。で、詐欺のほうだけど……。クラリスがシャルルを落としたときのやり方って、その演劇に登場する女詐欺師のやり口にそっくりなんだ」

 クラリスはひくひくと眉を痙攣させる。

 そのクラリスの様子に気付いているのか、いないのか。

 ミヨは続ける。

「まずは色仕掛けで、落としたい相手の思考力を奪う。で、その後に、『私は本当のあなたを知っています』、とか、『あなたが本当はどんな人なのか、一緒に探しましょう』みたいなこと言うんだ。そして、ものすごく高い自己啓発の教材なんかを買わせる。私の生まれ故郷でも一時流行して、多くのバカな男達が引っ掛かったっていうけど……。まさか現物を見る機会に恵まれるとは思わなかったわー」

「なっ……。何を言うのです、あれは嘘偽りない私の思いです……」

 クラリスの声が高くなる。

「シャルルが起きちゃうよ?」

 ミヨがあくびする。

「でもまあ、クラリスと女詐欺師は違うよ」

「あ、当たり前です」

「だって、女詐欺師の色仕掛けは、もっと巧みだったし、口説き文句も上手だった。クラリス、顔はいいんだけど、ぎこちなさ過ぎるんだよね。シャルルがうぶだから騙せたけど、女に慣れている男には通用しないよ?」

「いい加減にしてくださいっ。あなたに聞いた私がバカでした。もう寝ます」

 そう叫ぶや、クラリスはミヨに背を向けて目を瞑った。



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