第二章 第二話
それからのミヨは、取り憑かれたように奴隷売買について調べ回っていた。
そして、二ヶ月間の調査のすえ、ミヨはクラリス、シャルル、ユースフに向かって、驚愕すべき情報を伝えた。
すでに春も終わりに近づき、セーヌ市は初夏を迎えようとしていた。
「調べてみたけど、間違いない。飢饉が迫っているよ。今年は大丈夫かもしれない。でも、必ずやってくる」
夜を迎えた修道院跡の一室で、ミヨはそう断言した。
ロウソクのわずかな光が、彼女の顔に刻まれた焦りを際立たせていた。
「たしかに不作の年には飢饉が起こるかもしれないわ……。でもどうして、すぐに飢饉がくるとわかるの?」
クラリスはいぶかしげな視線をミヨに投げかけた。
「あたしがこのことを確信したのは、この奴隷商の帳簿を見たときだった」
ミヨはテーブルの上に乱雑に並べられた羊皮紙や本の山から、一冊の手帳を抜き取った。
ユースフの一件以来、ミヨがやっきになって調べていたものだった。
「奴隷商と飢饉と、どういう関係があるのかしら?」
「奴隷の値段だよ」
「値段?」
「そう。この帳簿には、過去二十年にわたる奴隷の売買記録が克明に記されているんだ。それによると、この二十年間、奴隷一人あたりの価格は下落し続けている。とくに、最近はひどい」
「戦争が多いからじゃないかしら?」
「もちろん、それもある」
ミヨはそう言ってテーブルに両手を乗せた。
「でも、それだけじゃない。いいかい、クラリス。奴隷の流通量が増大するのは、大きく分けて三つの理由がある。第一に、他の地域から大量の人間を輸入できるようになったとき。たとえば、新大陸が発見されて、そこの住民を引っ立ててくるようになった、とかね」
「ユースフの場合も、それに近いくなるのかしら?」
「まあ、そう言ってもいいかもしれない。で、第二の理由だけど、これはクラリスが言った戦争だ。ここまでは、分かりやすい。でも、忘れがちだけど、第三の理由もある」
「それは?」
「人口が増えすぎたときだよ」
クラリスは驚いたように口を開いた。
「まって。人口が増えたからといって、別に奴隷が増えるとは限らないはずよ」
「ある程度まではそうかもしれない。でも、農村が養える限度を上回る数の人間が生まれたとき、農民は選択を余儀なくされる。生まれてきた子どもを殺して農村の人口を調整するか、あぶれた若者を農村から追い出すか――それとも我が子を奴隷として人買いに売り渡すか」
「人口が増えたなら、それに見合うだけの畑を新たに開墾すれば済む話よ」
クラリスは顔をしかめた。
「食糧は算術級数的にしか増えないが、人口は幾何級数的に増える」
ミヨの黒い瞳が、ロウソクの炎を吸い込んで揺らめいた。
「なによそれ?」
「農業を中心とする社会が、なぜ貧しいままなのかを説明した有名な理論のことだよ。『マルサスの罠』とも言う」
「なんかイヤな響きの言葉ね」
「そう。間違いなく残酷な言葉だよ」
ミヨは感情を排した声で、クラリスに応えた。
「クラリスは、開墾地を増やせばいいと言ったよね? でも、人口増加速度は食糧増産速度をはるかに上回るんだ。だから、かならず食糧増産だけでは間に合わない時がくる」
「今がそのときだと言うの?
ミヨは頷いた。
「たぶんね。教会の書庫で、洗礼を受けた赤子の数を調べてみたけど、ここ百年間で二倍以上に増えていた。で、最近は明らかに増加速度が鈍っているんだ。庶民が出産を管理できるはずはないから、つまりは結婚年齢が上がったか、死産流産が増えたか、生まれなかったことにされた子どもが増えたってことになる。気取った言い方をすれば、人口と食糧が均衡点に落ち着こうとしているんだ。でも、算術じゃないんだから、落ち着くといっても簡単じゃない。均衡点を上回る余剰人口が生まれるだろうし、今いったような方法でも均衡を回復できなくなるときがくる。そうすると――自然の調整がはいる」
「それが飢饉?」
「そう。けど、何も飢饉が必ず餓死につながるというわけじゃない。栄養不良になったら、人は病にかかりやすくなる。だから疫病が発生する可能性も増大する。飢えるくらいなら他人から食糧を奪おうとする人も増えるだろう。それが一定の規模で起こったら、戦争だ。クラリスは戦争のせいで奴隷の供給量が増えたと言ったけど、それは正しくもあるけれど間違ってもいる。戦争のせいというのは表面的な問題で、根っこには食糧が不足するほどに増加した人口があるのかもしれない」
「今起こっている戦争も食糧が原因だというの?」
「そうは言わない。直接的な原因は、間違いなくアジャンクール王とカスティヨン皇の覇権争いだろうね。でも、一度起きた戦争を拡大させたのは、食糧不足かもしれない」
「どういうこと?」
「飢えていて農村を離れた人間はどうするか? いろいろ可能性はあるけど、兵士になって糊口をしのぐというのは、間違いなく有力な選択肢に入る。つまり、兵士の市場供給量が増大するんだ。当然、需給の関係からいって、兵士一人あたりの賃金は下落する。言い換えれば、王侯貴族は従来の軍資金でより多くの兵士を徴募できることになる。その結果、戦闘自体が大規模化する」
「…………」
「奴隷にも全く同じ事がいえる。食べられなくて奴隷に身を落とす人が増えれば増えるほど、奴隷一人あたりの価格も下落する」
「……もしそれが正しいとしたら、手の打ち用がないじゃない……」
クラリスは呆然とつぶやいた。
「超長期的な視点に立てば、そうなる」
沈黙が降りた。
クラリスは絶句したまま、救いを求めるかのように視線を彷徨わせていた。
ミヨは憮然とした表情をして黙りこくっていた。
「でも待って……。ミヨ、あなた以前言っていなかったかしら? ノーフォーク農法を取り入れれば、食糧生産量も一気に増大するって。それをやるわけにはいかないの?」
「新しい農法を導入するには、かなりの費用と時間がかかるんだ。それに、もっと根本的な問題がある」
「それは?」
「巨視的に見れば、ノーフォーク農法を取り入れたところで、この『マルサスの罠』を抜け出すことはできないってことだよ、クラリス」
「どういうこと? 食糧が増えれば、人は食べていけるはずよ」
「一時的にはね。でも、食糧が増えたら何が起きるか分かる?」
「なにって……死ぬ人が減るんじゃないかしら?」
他になにがあるという顔で、クラリスが応じた。
「つまり、人口が増大するってことだよ。女は今までよりも多く子どもを産み育てる。そうすれば農村の人口も増える。でも、いつかは限界が訪れる。たとえ彼らが皆、農業生産に従事したとしても、農業労働力が増えれば増えるほど、農業生産量増大のために必要な費用も増大していくんだ」
「…………よく分からないわ」
「分かりやすい例を上げてみようか。今まで十人で耕していて二十人分の食糧を生産していた農家があるとする」
「ええ」
「ところが、その農家の親族が十人ほどやってきて、一緒に働きたいと言ったとしよう。その農家は思い遣りのある人で、その親族の頼みを聞き入れた」
「ええ」
「じゃあ、収穫量はどれくらい増えると思う?」
「働く人が倍に増えるんだから、生産高も倍になるんじゃないかしら?」
クラリスは自信なさそうに応えた。
ヴェルヌイユ領は牧畜が盛んで、耕作地は少ない。
生産高についての話はあまりよく分からないのかもしれなかった。
「ううん。そうはならないんだ、クラリス。なんなら、そこらへんの農民をつかまえて聞いてみるといい。彼らはきっとこう言うはずだよ。そこの土がどれくらい豊かなのか分からないけど、二十人で働いたとしても三十人分の食糧を生産できれば上出来なんじゃないか、って」
「そんな……」
「では、この農家のところに、百人の農民が押しかけたらどうなる?」
「…………」
「せいぜい四十人分くらいしか食糧は生産できないと思うよ。これを、経済学では『限界生産力逓減の法則』というんだ。『マルサスの罠』の前提となる経済理論だよ。だから……仮に明日からノーフォーク農法を導入できたとしても、いずれ訪れる限界点を先延ばしにしただけなんだよ」
ミヨは力なくつぶやいた。
「……だから。だから、『罠』なのね」
クラリスは首を振った。結いとめられていない金髪が、頭の動きにあわせてさらさらと揺れた。
「そう。この罠から抜け出す唯一の方法は、あたしの知る限りでは産業革命しかない。でも、どうすればこの革命を起こせるか、あたしには分からないんだ」
「……そう」
「前提となる飛び杼なんかの技術も、あたしにはサッパリ分からない。おまけに、産業革命のためには、それこそノーフォーク農法などの導入による農業革命が起きて、農地を囲い込まれた農村労働者たちが都市部に流入しないといけないはずなんだ。でも、それらを引き起こすためにはどうすればいいか、まるで分からないんだ」
「つまり……打つ手なしってことね」
クラリスはかすかに笑った。
いつもは決意を秘めて輝く蒼い瞳には、ロウソクの光を増幅するほどの勁さはなかった。
「巨視的にはね。細かく見ていけば、やれることはある」
「本当?」
クラリスの声がはずんだ。
「中国や日本では、昔から『義倉』という仕組みがあった。災害や飢饉が起こった時に備えて、人々から穀物を徴収して保管しておくんだ。ただ保管するだけじゃ腐っちゃうから、利子を取ってそれを他人に貸し与えておく。そうやって増やした穀物を、飢饉のときに貧しい人に配布するんだ。これを実施した会津藩では、飢饉のときでも餓死者がいなくなったと言われている」
「じゃあ、それを早速やりましょう」
「人口抑制策とあわせてね……」
ミヨが念をおした。
「……分かっているわ。今の話、殿下にもお伝えしたいけど、分かってくださるかしら?」
クラリスの問いに、ミヨは考え込んだ。
「そのまま伝えても分かってもらえないと思う。単に、飢饉に備えて穀物備蓄を増やすようにお願いするしか……」
「そう……」
「とにかく、セーヌ公から新しく承認された領地を奪い返して、支配体制を確立しないことには、『義倉』実施なんて無理だね」
「まずは――戦争ね……」
「うん」
「そのための準備はできている」
シャルルが口を挟んだ。
二人の会話は、シャルルにはちんぷんかんぷんだった。
ただ聞いているしかなかった。
だが、ことが戦争となれば話は別だ。
ユースフの軽騎兵との連携も日に日に向上している。
いつでも攻め込めるだけの準備はできていた。
「分かった。なら、どうやって攻めるのが一番いいか考えてみるね」
それから数日後。
オルセー市からの早馬がシャルルたち一同を驚愕に陥れた。
早馬がもたらしたのは、セヴレ伯爵を中心とする王国派貴族たちが結集し、オルセー市を包囲したという情報だった。
彼らの多くは、シャルルたちに拉致され、高額の身代金を支払わざるをえなかったものたちだった。
当然、貴族とは名ばかりのヴェルヌイユ家に対する彼らの憎しみは凄まじいものがあった。
ヴェルヌイユ憎しという点では一致していた彼らが団結するのは、自然の流れといえた。
とはいえ、彼らとて無分別にオルセー市を攻めようとしたのではなかった。
迂闊にヴェルヌイユ家を叩いて、万が一にもセーヌ公軍が援軍として駆けつけたら、ただでは済まない。
彼らは、機が熟するのを辛抱強く待っていた。
そして、ついに彼らが待ちに待った機会が到来したのだ。
春の戦で、王国軍にセーヌ公軍が大敗したという報せは、彼ら反ヴェルヌイユ貴族を驚喜させた。
「今こそヴェルヌイユを討つべし」
セーヌ公敗退の報せを受けて、彼らは意気軒昂と戦の準備に乗り出した。
行商によるネットワークを構築していたミヨであったが、その間、奴隷に関する歴史人口学的命題にかかりきりになっており、事態把握が遅れた。
反ヴェルヌイユ連合軍は、この幸運に助けられ、オルセー市を包囲することに成功したのであった。
「それにしても、騎兵五百、歩兵千の総勢千五百というのは本当なのか? 今の皇国軍を総動員しても五千いくかどうかだぞ」
シャルルは、敵勢についての情報に、半信半疑だった。
反ヴェルヌイユ貴族とはいえ、いわゆる大諸侯はいない。いずれも中小貴族だ。
しかも、シャルルが押し入るときに、相当数の騎士を切り倒していたはずだった。
「そこは何とも言えないねえ。敵勢の数を正確に把握するというのは、なかなかに困難だ。よほど戦慣れしていないと、実数から乖離した情報が一人歩きするのは避けられないんだよね」
ミヨは、はなから正確な情報であるとは考えていないようだった。
「そうは言っても、大軍であることは間違いないわ。大丈夫かしら、ミヨ?」
クラリスはやや心配そうだ。
無理もない、とシャルルは思う。
千五百ということは、味方の七倍以上ということになる。
軍事的な常識に照らせば、とうてい勝ち目のある戦いではない。
「敵の司令官が誰かにもよるねえ……」
「このなかだと、セヴレ伯爵が地位も勢力も一番上よ。彼が部隊の指揮をとるんじゃないかしら」
早馬がもたらした急報を読み返しながら、クラリスは推測した。
「あの顔だけは美男だけど、本当に顔だけって人?」
ミヨの評価にクラリスは苦笑した。
「セヴレ伯爵は結構人気あるのよ」
「でもなあ。捕虜にしたとき思ったけど、彼に連合軍を指揮できるだけの器量があるようには見えないよ」
「まあ、そうかもしれないわね」
クラリスは同意した。
「……うん。多分いけると思う。シャルル、三日後に出立するから、それまでに準備整えておいて」
「わかった」
「ユースフ、シャルルたち本隊が出陣する前に軽騎兵五十騎で敵に威力偵察をかけて。実際に戦闘しなくてもいい。敵の反応が知りたい」
「任せておけ。神の恩寵により、わたしたちはそういう戦いは得意だ」
頭にターバンを巻いたユースフが胸を張った。
「決して無理をしないでね。で、クラリス」
「何かしら」
「ヴェルヌイユ城に早馬を出して」
「オルセーじゃなくてヴェルヌイユに……?」
クラリスは怪訝そうに問いかけた。
「うん。農民たちに戦の準備をさせておいてほしいんだ」
「難しいわよ……。以前と違って、今は農繁期よ。誰も戦になんて行きたがらないわ」
クラリスは、農民たちの説得は難しいと主張した。
「なら、今年の年貢を軽くするとでも約束すればいい。部隊増員のためにセーヌ公からもらったお金も、ユースフたちのおかげでまだ余ってる。それを使えば、年貢の不足分くらいの資金はあるはずだよ」
「分かったわ。父に手紙を送るわ」
クラリスは頷いた。
「頼んだよ。これはチャンスなんだ。この機会に邪魔な貴族を一網打尽にして、領地を一気に拡大してしまおう」
「ええ……」
「そうすれば、飢饉対策もやりやすくなる」
決意を滲ませた口調で、ミヨは三人を見回した。
「大丈夫。うまくやれば、ここで奴らを完膚なきままに叩きのめしてやれる。あたしは決めたんだ。あの奴隷商みたいなクズをこれ以上のさばらせないためにも、断固として強くなってやるって」
「そう……。そうね、ミヨ。私もできる限りのことはやるわ」
決意を新たにした二人の少女を、シャルルは羨望とともに見つめた。
彼女たちには、彼女たちだけの大義がある。
シャルルにない崇高な目的があるのだ。
それに比べて、己はどうか、とシャルルは顧みた。
ただただ、クラリスとミヨとともにいるのが心地よく、彼女たちと一緒にありたいと願っているだけだ。
人が死のうと大して興味がない。
クラリスとミヨが望むことをやる。
そして彼女たちの笑顔を見守る。
それだけで満足であった。
窓から吹き込んでくる風は、初夏の気配を陰気な修道院にも運んできた。
夏はすぐそこまで迫っていた。
「何をやっていたっ!」
セヴレ伯爵は、悄然とした表情で立ちつくす部下を面罵した。
オルセー市を包囲したはいいが、そこからは想定外の事態ばかりが起きた。
領主不在だというのに、オルセー市は降伏を拒否。
ならばと徴募した農民兵たちに、付近の村々を襲撃させた。
農民兵の分の食糧など運んでおらず、現地調達させたのだ。
だが、数日前から掠奪に出かけた農民兵の部隊が次々に行方不明になった。
「おそらく、農民たちは戦に恐れをなして逃げ帰ったのでしょう。使えぬ連中ですな」
と、集った貴族たちのだれもが口にした。
セヴレ伯爵にも異論はない。
彼は舌打ちしながら、逃げ出す農民兵がいたら切り捨てるよう、配下の騎士たちに命じたのだった。
しかし、事態はそれだけに止まらなくなった。
昨晩、兵糧が全て燃えてしまったのだ。
「よもやとは思いますが、敵襲があったのではないでしょうか?」
おずおずと部下の騎士が一人、発言した。
「敵襲だとっ! 敵がこんなに早く駆けつけてこられるはずがないではないかっ。おおかた、見張りが居眠りをして、火事を起こしたのであろう。どいつもこいつも使えないっ」
顔を真っ赤にして、セヴレ伯爵は唾を飛ばした。
怒ると、卵形の整った顔立ちが台無しである。
騎士は伯爵の剣幕に圧倒されて、縮こまっていた。
「もうよいっ。兵どもを食糧徴発に行かせろ! このままでは兵糧がなくなってしまうわ」
「ですが……。これ以上、兵を食糧徴発に向かわせると、本陣が薄くなってしまいます。万一、敵に奇襲されたら、対処ができなく……」
「敵だと? どこに敵がいるというのだっ! いかにヴェルヌイユの小娘が戦を知らないとはいえ、千を超える軍勢に、たかが百人程度で突っ込んでくるはずがないだろうがっ。くだらんことを言っている暇があったら、さっさと兵どもを徴発に行かせろ」
「は、はいっ」
騎士は飛び上がって、礼もそこそこに立ち去った。
「まあまあ、セヴレ伯爵。ヴェルヌイユの小娘など、簡単にひねり潰せるのです。そうカッカなさいますな。それよりもいかがですかな、ここにメドー産の赤があります。皆で一杯やりませんか」
ロシュフォール子爵は、そういって赤ワインを取り出した。
「ロシュフォール子爵。まだ昼にもなっておりませんぞ」
セヴレ伯爵は苦々しげにつぶやいた。
部下も無能なら、彼の盟友たちはそれに輪をかけてどうしようもなかった。
わざわざ戦場に来て彼らがやっていることといえば、酒を飲み、女を抱くくらいだった。
セヴレ伯爵がどれほど諫めても、どうせヴェルヌイユの小娘など一ひねりにできる、などと言って聞かないのだ。
「いいではありませんか、どうせ敵は来やしませんよ、伯爵。それよりも、クラリスの身柄は是非ともこの私めに……。ああいう小生意気な小娘がどんな声で啼くのか、楽しみでなりませんわ……ぐふふ」
――ゲスが。
セヴレ伯爵はロシュフォールを声に出さずに罵った。
――もうすぐだ。この無能な盟友どもとの関係も、もうすぐ終わる。
そうセヴレ伯爵は自分を慰めた。
――戦が終われば、オルセー市はすべてセヴレ領に加える。
伯爵は盟友たちに一銭たりとて渡すつもりはなかった。
セヴレ伯爵はもう少し味方の実情をよく探らせるべきだったのかもしれない。
ロシュフォール子爵は、クラリスに丸裸にされて窮乏生活を余儀なくされていた。
それなのに、高級品として知られるメドー産の赤ワインをどうやって手に入れることができたのか。
また、このワインをうやうやしくロシュフォール子爵に差し出した商人が、陣営内で何をやっていたか、監視してしかるべきであった。
だが、伯爵はそんなことは考えもしなかった。
敵についても味方についてもまるで把握していなかった伯爵に、勝利の女神が微笑もうはずもなかった。
「性懲りもなく我が領内を荒らし回った報いを受けるがいい」
クラリスは、らんらんと輝く蒼い双眸で、農村に襲いかかろうとしている敵部隊を睨みつけた。
ユースフがもたらした情報は、クラリスを激昂させた。
敵は旧オルセー領の農村を手当たり次第に掠奪して、民を攫っている。
そう聞いて黙っていられるほど、クラリスは人格者ではなかった。
実際に襲われた農村を見分して、彼女の瞋恚の炎は燃えさかった。
すでに何度も見ている光景のはずだった。
しかし、無関係の人間が襲われるのとは、まるで意味がちがった。
領民はすべて自分のモノだという意識が、クラリスにはある。
その領民を勝手に殺されたと聞いたとき、我が身を汚されたような痛みと憤りがクラリスを襲った。
「絶対に許さないわ」
クラリスの言葉に、反対するものはいなかった。
かくして――。
ユースフがもたらした情報をもとに、作戦が練られた。
「いいかい、シャルル。兵糧を燃やされたセヴレ伯は、食糧徴発部隊を送り出さざるをえなくなった。かならず、これを全滅させるんだ。第一局面の目的は、各個撃破による敵兵力の削減だ」
「分かっている」
シャルルは頷いた。
ユースフは軽騎兵五十、重騎兵五十の別働隊を率い、別の農村に出かけた敵部隊殲滅に当たっているはずだった。
シャルルの手元にいるのは百騎。
敵歩兵とほぼ同数だ。
「カトー、軽騎兵で奇襲しろ」
「分かりました」
カトー率いる軽騎兵五十騎は、掠奪のことしか頭にない農民兵百を、後背から奇襲した。
決して突入せず、横隊を組んで騎射し続ける。
敵部隊長はこの動きにまるで対応できなかった。
「あの農村に入ったら、敵も迂闊に攻撃できないはずだ。とにかく村に突っ込め!」
彼が出した命令は愚策ではなかった。
統制のとれていない歩兵など、騎兵の餌でしかない。
無理に戦わせるよりも、逃げられるものなら逃げたほうがいいのである。
あくまでも、逃げられればの話ではあるが。
だが、その動きを見過ごすほど、シャルルは無能ではなかった。
「全騎突撃!」
バルディッシュを構え、シャルルは敵歩兵の進路に割り込むようにして突撃した。
狙いは唯一人乗馬している敵隊長。
敵騎は、驚いた顔のまま鞍の上で固まっていた。
シャルルはバルディッシュを振り上げ、すれ違いざまに勢いよく振り下ろした。
バルディッシュの刃が敵隊長の右肩から左胴を走り抜け、鮮血を撒き散らした。
シャルルはそのまま駆け抜け、逃げ惑う農民兵を背後から次々に斬り殺していく。
「た、隊長がやられたぞ!」
敵兵が叫び、必死になって村に逃げ込もうとしていた。
「逃がすわけがなかろう」
シャルルの呟きが彼らの耳に届いたかどうか。
シャルルに続いて突入した重騎兵たちが、槍や剣で逃げ惑う農民兵を蹴散らしていた。
重騎兵が敵を粉砕し、散り散りになった敵歩兵を軽騎兵が騎射で次々と仕留めていく。
農民兵に逃げ道などあろうはずがなかった。
わずかな間に、セヴレ伯爵の食糧徴発部隊は完膚なきまでに殲滅された。
「よくやったわ、シャルル」
戦闘らしい戦闘もせずに敵を全滅させたシャルルを、クラリスの笑顔が出迎えた。
いつもとは異なり、鋭い刃を潜ませた蒼い瞳がシャルルに心地よい緊張感をもたらす。
「ユースフも、まずしくじりはしないだろう」
「そうね」
「次はどうするんだ、ミヨ?」
シャルルはミヨに問いかけた。
「待つ」
「えっ?」
クラリスが驚いた声を上げた。
「折角、敵の数を減らしたのよ。この機に攻めるべきじゃないかしら?」
「いつになく好戦的だね、クラリス。それでも勝てないことはないだろうけど、無駄な被害を出すことになる」
「でも……」
「奴らのことが許せないのはあたしにも分かる。でも、もう少し待ったほうが奴らに苦しみを与えられるよ」
「ミヨがそういうなら……」
クラリスはしぶしぶ頷いた。
「セヴレ伯爵はどうでてくるかな? 戦略とは、大軍を相手にぶつけること言うんじゃない。政治目的のために軍事力を効果的に運用する術を言うんだよ。伯爵は、大軍を集めただけで勝ったと思い込んでいるらしいけど……その運用と配分をちゃんと考えているのかな?」
ミヨは不敵な笑みを浮かべた。
ミヨのそんな様子を見て、躊躇いがなくなったな、とシャルルは思う。
以前の彼女なら、血臭漂う場所では常に青い顔をしていたはずだ。
けれども、今は違う。
内心は推し量るべくもないが、少なくとも今は効率よく勝利するために躊躇していない。
「では、ユースフとの合流地点にいきましょ」
クラリスの命令に、シャルルは頷いた。
眼前の村からは、クラリスの勝利を見て取った農民たちが、次々に飛び出してきていた。
敵兵の死体から装備品を剥ぎ取ろうというのだろう。
兵士と同じく、彼らも生きるのに必死なのだ。
初夏というのは、農民にとって一番厳しい季節だ。
秋に収穫した穀物は底をつき、冬小麦の収穫はまだ少し先。
懐事情は一年でもっとも厳しいのだ。
兵士たちが農民に襲われ、装備を奪われるなどということも、日常的に起きている。
――飢饉が迫っている。
ミヨの言葉が脳裏に蘇る。
その通りかもしれない。
現状でも、すでに民は生きるのに精一杯なのだ。
これで、冷害や旱魃が起こったらひとたまりもないだろう。
だから、なんとしてもその前に決着をつけなければならない。
クラリスがそれを望んでいるのだから――。
シャルルは馬を走らせた。
初夏の陽射しが燦々と照りつけ、馬が走るたびに砂埃が舞い上がった。




