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黒鬼戦記  作者: キーロフ
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序章

 日の入りは大分先のことだというのに、早くも闇が立ちこめていた。

 空を覆い尽くすように広がる鼠色の雨雲は、晩秋の陽光を遮り、大地に陰鬱な影を落としていた。

 みぞれ混じりの長雨は止む気配を見せず、収穫を終えたばかりの麦畑を泥沼に変えた。

 ときおり大地を撫でる木枯らしが、長い冬の訪れを告げていた。


 黒鋼の全身甲冑フルプレート・アーマーの継ぎ目から雨水が染み込み、体温を容赦なく奪う。

 鎖帷子の下に着込んだフェルトの下着は、汗と雨のせいでびしょびしょに濡れ、神経を逆なでするような不快感をもたらす。


 速やかに退却しなければならない。

 味方は既に総崩れ。既に敵は両翼を伸ばしている。ぐずぐずしていては、包囲されて退路を断たれる。

 シャルルにもそんなことは分かっている。

 だが、黒鋼の甲冑が足かせとなって、思うように走れない。

 黒い鋼で全身をくまなく覆うフルプレート・アーマーは、成人男性の体重よりもはるかに重い。

 謂わば、大人を一人背負って戦場に立つようなもの。

 身に纏うだけで、持ち主の体力を著しく奪い、動きを大きく制限する。そして、その代わりに、考え得る限り最高度の防御を保証する。


 もっとも、彼にとっては、甲冑の重量それ自体はさほど問題ではない。

 たしかに体力を大分消耗していたが、まだ余力はある。

 三日三晩この鎧を脱がずにいたこともあるほどだ。

 黒鋼の甲冑は、それほどまでに身に馴染んでいた。

 問題は他にあった。

 普通であれば問題にもならない甲冑がシャルルの行動を妨げる最大の理由。

 それは長雨によりぬかるんだ大地にあった。


 吸収しきれぬほどに大量の水分を受け容れた土は、泥と化した。

 身軽な者でさえ一足歩くたびに、ズブリと泥にはまる。

 ましてや、全身甲冑などという重しを着込んでいては、なおのことである。

 泥に足をとられて、速く走ることができない。

 歩くたびに、膝下まで泥に埋まる。

 そのたびに蹴り上げるようにして、足を泥から引き抜く。

 その繰り返し。


 既に本隊からかなり離されている。

 これ以上遅れてしまっては、両翼から迫る敵騎兵隊に逃げ道をふさがれてしまう。

 そうなっては、シャルルはともかく、麾下の小隊の生存は絶望的になる。

 足元の泥に悪戦苦闘しながらも、ちらりと後ろを振り返る。

 彼の小隊を追撃してくる敵部隊は見当たらない。

 敵主力も、泥に足をとられて思うように前進できないのだろうか。

 真相は分からない。


「カトー」

 シャルルは副長を大声で呼んだ。

「はい」という返事が、前方から返ってくる。

 二列縦隊で撤退する十名強の小隊。もとは三十名ほどいたはずだが、いつの間にか数を大きく減らしていた。

 カトー副長はその先頭にあって、部隊を指揮していた。

 小隊長はシャルルだが、部隊の実務は副長が一手に引き受けていた。

 今回の退却行でも、シャルルは隊の殿として後方の警戒にあたっているだけである。

 撤退経路の選定、行軍速度などはすべて、副長であるカトーが決定していた。

「小隊、進路そのまま」

 カトーは命令し、隊列の脇を通ってシャルルのいる最後尾にやって来た。

 シャルルの隣に立つと、

「何か問題でも?」

 と問い掛けてくる。

 強面の巨漢でありながら、よく気が利く男だ。小隊長であるシャルルの意をよく汲み、兵を厳しく統制してくれる。おかげでシャルルは、ほとんどストレスを感じることなく、小隊長として任務に没頭できた。

 およそ小隊を束ねる下士官としては、最上級の資質を持っている。

「小隊の行軍速度を私に合わせる必要はない。私のことは置いていけ」

 シャルルは淡々と命じた。

「承知しました」

 短い返事。

 フルフェイス・ヘルムをかぶっているため、カトーの表情は分からない。

 だが、全く驚いていないだろうことは、落ち着いた声からも明らかだ。

 これくらいのことで一々慌てていては、副長は務まらない。

 ヘルムをかぶったまま軽く一礼すると、カトーは小隊の先頭に引き返した。

「行軍速度を上げる。遅れた者は置いていく」

 カトーは大声で小隊員に宣告すると、後ろを振り向くことなくペースを上げた。

 他の隊員たちも、泥に苦労しているはずだが、どうやらシャルルほどではないらしい。

 カトーのペースに遅れることなくついて行く。

 たちまちのうちに、彼らは視界の彼方に遠ざかり、シャルルからは見えなくなった。

 重装歩兵とはいえ、彼らが身につけているのはプレートアーマーではない。

 革の下地に鱗状の鉄片を貼り付けたスケイルアーマーである。

 当然、シャルルのプレートアーマーよりもはるかに軽い。


 思わず溜息が出る。

 戦場となったクール盆地が水捌けの悪い土地であることは、出立前から分かっていた。

 うち続く長雨のせいで足場が悪いだろうことも想像していた。

 だが、それでも、鈍重なフルプレート・アーマーを脱ぐという選択肢はなかった。

 漆黒よりもなお暗い黒鋼の甲冑。シャルルの象徴。

 大陸広しといえども、黒い鎧を身に纏うのは彼のみ。

 黒は闇を、死を、恐怖を表す。

 彼のパーソナルカラー。

 シャルルが黒鋼の甲冑で戦場に立つだけで、敵の士気は陰る。

 だから、何があろうとも、この鎧を脱ぐわけにはいかない。

 そんな呪縛が彼をきつく縛る。


 今さら、自らの境遇に不満を言うつもりはない。

 主人たるカスティヨン皇の猟犬として獲物をひたすら追い詰め、周囲に死と恐怖を振りまいた末に、いずれ無意味な戦いで命を落とす。

 それが、予め定められたシャルルの運命。

 そのことに憤りを覚えはしない。

 抗おうと思ったこともない。


 だが。

 ときおり虚しくなる。

 戦争の駒として自分を活かすつもりがあるなら、もっとよく考えろと言いたくなる。

 重装甲の歩兵を泥沼と化した盆地中央に配置しても、攻勢の起点たりえない。

 戦理に合わぬ上司の下知が思い起こされる。





 昨晩、大隊長は麾下の将校を招集して軍団司令部の命令を下達した。

「軍団長より命が下った。明朝、日の出とともに陣を払い、アジャンクール王国軍に攻撃を仕掛ける。我が大隊は栄えある戦線中央を担当することになった。クール盆地中央を突破し、盆地出口付近に陣を張っている王国軍を正面から圧迫する」

 一息いれると、大隊長は各中隊の配置を細かく指示し、付け足しのように

「なお、クレシー突撃小隊は、本隊接敵と前後して敵戦列に突入、本隊の前進支援に当たれ」

 と命じた。

 長槍と大楯で武装した重装歩兵が密集陣形を組む敵陣中央への小隊突入。

 それは、通常ならば自殺行為に等しい。

 ハリネズミのごとく突き出される長槍に蜂の巣にされ、無駄死にするのが目に見えている。

 練度に著しい差が場合を除いて、重装歩兵の密集陣形を崩すには、同じく重装歩兵の密集陣形で敵を圧迫するか、敵側面を迂回攻撃するしかない。一個小隊が強引に中央突破しようとしたところで意味がない。

 それが軍学の常識というものであった。

 だが、クレシー突撃小隊、すなわちシャルル・ド・クレシー率いる重装歩兵三十名に下された命令は、まさに戦術上無意味とされる行為であった。

 もっとも。

 敵陣中央への突入という命令それ自体はシャルルにとって当たり前のことであった。

 彼の力を最も効果的に発揮させる作戦と言える。

 地面の状態が良好であれば。


 しかし、今は秋。

 長雨で大地が泥濘化していた場合、重装歩兵は重大なハンデを背負うことになる。

 そのことを問い質したいところだが、シャルルには上官に意見具申する権限はない。

 彼に期待されているのは、戦闘人形として正常に機能することであり、将校としての見識を披露することではない。

「承知しました」

 溜息が口をついて出そうになるのを堪えながら、そう答えるほかなかった。



 そして翌朝。

 シャルルの悪い予感が的中した。

 払暁とともに、シャルルが属するカスティヨン皇国軍は、クール盆地南端の野営地を引き払い、進軍を開始。五個軍団、計三万の大軍だ。内訳は、歩兵二万五千、騎兵五千。

 目標は盆地北端に陣を構えるアジャンクール王国軍3個軍団、約一万五千。事前の偵察で、農民上がりの弓兵の数が多いことが判明している。

 彼我戦力差は倍。

 カスティヨン皇国軍には、戦闘開始前から楽勝ムードが漂っていた。

 皇国軍は二万の重装歩兵を縦深3列の横隊に並べ、最前列にクロスボウ部隊五千を配置。両翼を重装甲騎兵で固めながら前進した。

 堅牢で正面戦闘力に優れる重装歩兵を攻勢の起点にしながら、圧倒的な衝撃力を有する重装甲騎兵の突撃で敵戦列を蹂躙する。

 皇国軍の戦闘教義に則った正統的な戦術である。


 外連味のないこの戦術は、しかしながら、戦闘開始前から早くも躓いた。

 正午前には敵陣に到達し、戦闘を開始する予定であった。

 しかしながら、盆地中央の泥濘化が予想よりもはるかにひどく、進軍が大幅に遅れた。

 それだけならまだしも、泥濘のせいで、部隊間の横の連携がうまくいかず、横列隊形が凸凹としたものになった。

 さらに、盆地中央はうっすらと靄がかっており、周囲の状況を察知しにくい。


 そこをアジャンクール王国軍に衝かれた。

 泥濘に足を取られて陣形を乱し疲弊した皇国軍を、王国軍長弓部隊の無慈悲な斉射が襲ったのだ。

 味方のクロスボウ部隊が応戦しようとするが、射程の短いクロスボウでは対応しきれない。

 上空から雨に混じって降り注ぐ矢を前に、クロスボウ部隊は恐慌をきたして後退した。

 不格好な横隊で進む重装歩兵にも敵長弓部隊の矢が降り注ぐ。

 大楯を掲げて防御に徹する重装歩兵の損害は軽微であった。

 しかし、ただでさえ乱れがちであった横の連携が一層乱れ、横列を崩される。


 この状態で王国軍主力と接敵しては、不要な犠牲を出す――。

 そう判断した遠征軍総司令ポワティエ伯は、両翼の騎兵に突撃命令を出した。

 優勢な騎兵戦力で王国軍両翼を崩し、その隙に主力を突っ込ませる。そういう腹積もりであった。

 策としては悪くない。

 だからこそ――。

 王国軍に読まれていた。


 両翼より王国軍側面を強襲しようとした皇国重騎兵は、王国軍がこしらえた無数の落とし穴に馬脚をとられ、突進力を削がれた。

 ぬかるんだ落とし穴に次々に填まり込む皇国重騎兵。

 なまじ密集隊形で突進していただけに、急な方向転換ができない。

 前列の騎兵を轢き殺すようにして、次から次へと騎馬が穴に落ちる。

 異変に気付いた後続の騎馬が急停止したとき、すでに3割近い騎兵が戦闘遂行能力を失っていた。

 王国軍両側面で足を止めた皇国重騎兵。

 そこに襲い掛かったのは、王国軍が誇る長弓部隊であった。

 身動きがとれないまま、次々と騎士たちが大地に縫い付けられるように落馬していく。

 もちろん、騎兵隊長たちも自軍の壊滅を座して待ったりはしない。

 隊をまとめて、落とし穴を迂回しようとする。

 悪天候をものともせずに、三千余の騎馬がクール盆地を疾駆する。

 視界不良のなか、見る間に王国軍との距離を縮める皇国重騎兵。

 接敵直前になって靄の彼方に突如として現れたのは、馬防柵であった。

 といっても、それほど堅牢なものではない。

 高さも、せいぜい人間の身長並といったところ。

 軽く助走すれば、大抵の馬は楽々と柵を跳び越えられる。

 その程度の間に合わせの柵だった。


 だが。

 馬に鞭を入れて柵を跳び越えようとした重騎兵は、馬防柵に正面から突っ込むことになった。

 馬防柵手前の溝に馬脚を取られ、馬が跳躍できなかったのである。

 溝に気付いて、その手前で馬を跳ばせようとした者も、成功しなかった。

 大地が泥土と化していて、馬が十分に大地を蹴ることができなかった。

 落とし穴、馬防柵、泥濘。

 三重の備えに守られた王国軍側面は、数度にわたる重騎兵の突撃に耐えた。

 そのたびに、長弓の斉射が重騎兵の頭上に降り注ぐ。

 騎兵隊の損耗に気付いた遠征軍総司令ポワティエ伯が騎馬突撃の中止を命じたとき、皇国軍が誇る重装甲騎兵五千は、その数をわずか二千弱まで減らしていた。


 その間、皇国軍主力も無為に時間を浪費していたわけではない。

 王国軍長弓隊の圧力が軽減するや、進軍速度を上げて王国軍主力に自慢の長槍を突き立てようとした。

 しかし、進軍速度を上げたことで、横列の横の連携は一層まずいものになった。

 本来ならば隊を小停止して、隊列を整えるべきところ。

 だが、敵長弓が皇国軍虎の子の重騎兵を襲っている。

 重騎兵の負担を減らすためにも、ここは数を恃みに強引に王国軍歩兵部隊に攻勢をかけるべき――。

 それが、総司令のポワティエ伯をはじめとする皇国軍高級将校たちの見解であった。



 王国軍戦列が指呼の間に迫ったとき、王国軍に動きが見えた。

 戦列最前列にいた長弓兵が退き、重装歩兵が最前列に並ぶ。

 数分後には、槍と槍が交わることになる。

 そのタイミングで、シャルルのもとに伝令が届いた。

「軍団長より通達。クレシー突撃小隊は敵陣への突入を開始されたし。以上だ」

 居丈高な連絡将校は、そう通達するや、踵を返した。

 軽装で最前列に居ることの愚を十分理解しているのだろう。


 シャルルは無言のまま、ヘルムのバイザーを降ろす。

 ただでさえ狭い視野が、いっそう狭くなる。

 正面前方しか見えない。両脇は完全な死角になる。

 格子状のバイザーの向こうに、長槍を構えた敵兵が見える。

 最前列の若い兵士たちの顔すらも判別できる。

 浮かんでいる表情は、興奮と緊張。それに怯えだろうか。

「小隊、突撃準備」

 副長のカトーが大声で小隊員に命ずる。

 シャルルは、矢を警戒して左腕に構えていた大楯を背中に背負う。

 接近戦において大楯は、素晴らしい防御力を発揮する。

 だが、シャルルの獲物とは相性が悪い。

 肩に抱えていたバルディッシュを両手で構える。

 一尋余の長柄の先端に特大の斧を付けたポールウェポンである。

 先端が槍状に尖っているため、薙いでよし、突いてよしの歩兵用武器。

 シャルルの特注品で、並の兵士ならば持ち上げるだけで一苦労という業物だ。

 雀の涙のような僅かばかりの手当金を貯めて、先月やっと入手した。

 物欲に乏しいシャルルの数少ない貴重品である。

 もっとも――無骨なバルディッシュを貴重品と呼ぶ者は少ないだろうが。


 シャルルが纏う黒鋼の甲冑を認めて、顔を歪める王国兵が目に入る。

 彼の噂を耳にしたことがあるのだろう。

 獲物に襲い掛かる直前の豹のように。

 あるいは、限界まで引き絞られた矢のように。

 腰に力を溜める。

 そして、跳躍。

 彼我の距離を一気に縮める。そのために、足をバネのように伸縮させる。

 シャルルが駆け出すと同時に、「小隊突撃」という号令がかかる。

 野太い声。戦場でよく通る声。

 カトーのものだ。

 その声を背に、敵戦列に突っ込もうとする。

 だが、やはり足場が悪すぎる。

 全力で走っているつもりだが、思うように速度が出ない。

 ところどころ、膝まで泥に埋まる。

 泥に埋まった足を全力で引き抜きながら、前進する。

 敵軍の長槍がシャルルに向け殺到する。

 右足を大きく踏み込むと同時に、左に構えたバルディッシュで薙ぎ払う。

 一閃。

 敵長槍の柄を一纏めに薙ぎ砕く。

 折れた柄を一本つかみ、思いっきり引っ張る。

 敵兵が一人、柄に釣られて、つんのめりに前に出る。

 そこを右手で突く。

 スケイルアーマーに遮られるが、左手を添えて全力で突く。

 鎧を貫通してバルディッシュの先端が敵兵の背骨をへし折る。

 そのまま刃を右に薙ぐ。

 死体をぶつけられて、右隣の敵兵がよろめく。

 その隙に、刃を引き、バルディッシュを戻す。

 左から繰り出される長槍。

 左手の甲で跳ね上げるようにしていなす。

 相手が槍を引っ込める。

 その間に、バルディッシュで左前方を袈裟切りに薙ぐ。

 ほとんど抵抗を感じずに一刀両断。

 なおも強引に歩を進めて、敵兵との距離を縮める。

 左から右に向け、横一文字に一閃。

 第二列から戦列最前列に上がってきた兵をまとめて両断する。

 一度に三名。

 さすがに、戦列に間隙が生まれる。

 そこに、突っ込む。

 獲物を縦横無尽に振り回し、突破口を広げる。

 そこに、カトーたち小隊員が殺到する。

 敵味方の血飛沫が黒鋼の鎧に降り注ぎ、雨水とともに滴り落ちる。

 シャルルがバルディッシュを振り下ろすたびに、絶叫が響く。

 ひとたび乱戦になると、密集隊形は脆い。

 タマネギの皮を剥ぐように、一枚また一枚。シャルルは戦列を突破する。

 踏み込むたびに、地面が固くなってくる。

 王国軍は水捌けのよい場所に布陣したのだろう。

 足場がしっかりとするにつれ、シャルルの突撃は苛烈さを増す。

 踏み込みが力強くなり。

 繰り出される一撃は、必殺の度を増す。

 竜巻のような斧の乱舞。

 巻き込まれてはかなわないと、味方もシャルルの周りに近づかない。

 無残な死を撒き散らしながら、シャルルは進む。

 漆黒の鎧には朱が混じり、いっそう邪悪な雰囲気を醸し出す。


 いくたび王国兵が槍を繰り出そうとも。

 バルディッシュの巨斧に薙ぎ払われ、黒鋼の鎧に阻まれる。

「血塗れの狂戦鬼」

「黒鬼が来た」

 そんな悲鳴があがる。

 斧の暴風から逃れようとして、戦列を離れようとする者。

 腰を抜かして泥濘に座り込む者。

 焦点の合わぬ目でシャルルを茫然と見つめる者。

 いずれも、戦列の立て直しを妨害する。

 そこに、シャルルが襲い掛かる。

「逃げるな! 戦列を組み直せ」

 悲鳴に混じって、前方から声が聞こえる。

 敵の前線指揮官だろう。

 ――次の獲物は決まった。

 舌で唇を軽くなめ回す。

 血飛沫がバイザーの隙間を通って唇まで届いたのだろうか。鉄臭い。それに塩味がする。

 バルディッシュを振り回し、突進。

 間合いに入る者は片っ端から片付ける。

 逃げだそうとした者が戦列の混乱をさらに拡大する。

 そこに突っ込む。

 ――邪魔!

 裂帛の呼気とともに、団子になった四、五人をまとめて輪切りにする。

 指揮官らしい豪華な鎧が目に入る。

 もう一息。

 シャルルを前に戦意を失った王国戦列兵は、シャルルの進路から逃げようとする。

「貴様ら、逃げようとしてどうする! それでも栄えある王国の兵士かっ! そこな悪鬼に立ち向かえ!」

 白地に赤十字の鎧。その持ち主が怒声を発する。

 だが、その声には、隠しがたいほどの怯えが混じっている。

 シャルルは、強者としての本能でそれを察知。

 強ばっていた頬の筋肉が緩む。

 唇が微かに狐を描く。

 愉悦の笑み。

 自らがどんな表情を浮かべているか、シャルルには分かる。

 だが、それを奇異だとは思わない。

 彼は。

 いや、彼の種は、そうあるよう定められているのだから。

 バルディッシュを振りかぶる。

「ひっ……」

 喉を詰まらせたような声なき悲鳴が聞こえる。

 先ほどまで、威勢のよかった眼前の指揮官のものだ。

 大楯をへっぴり腰に構えている。

 ――そんな楯では、私の一撃は躱せない。

 腰に力を溜め、巨斧を目一杯振り下ろす。

 突き出された大楯を押しのけ、斧の先端が大地を叩く。

 一拍。

 指揮官の躰が左右対称に別れ、倒れ伏す。

 バルディッシュの先端は未だ泥の中。

 大きな隙だ。

 にもかかわらず、誰もシャルルに打ち掛かろうとしない。

 彼の周りで、時は完全に静止していた。


 ふっと一息いれ、バルディッシュを戻したとき。

 退却を告げる角笛が後方から聞こえた。


 時が動き出す。

「退く」

 集まってきた小隊員に、シャルルは短く告げる。

 なぜ退却の指令が出たのか、分からない。

 戦線中央は押している。

 恐らく、側面か後背を敵に崩されたのだろう。

 いずれにせよ、速やかに撤退しなければならない。

 さもないと、敵中に孤立する。

「カトー」

「ここに」

「撤退の指揮を。私は殿をつとめる」

「承知」

 前方の敵を注視したまま、下知を下す。

 味方が撤退するのに合わせ、ことさらに泰然としながら、ゆっくりと後退する。

 攻守が逆転する瞬間だ。

 シャルルの猛攻に怯えていた敵兵も、やがて勢いを取り戻すだろう。

 カトーたちが、退路を断とうとする敵歩兵を突破。

 それを見届けるや、シャルルは猛然と走る。

 一気に敵最前線を抜け、泥沼に飛び込む。

 南端の盆地出口を目指して後退する。

 幾度か、王国軍歩兵の追撃に遭ったが、幸いにも長弓の攻撃には晒されなかった。






 小隊と別れて、シャルルは一人盆地南端を目指して歩く。

 例え出口を封鎖されたとしても、夜陰に紛れて突破することは難くない。

 シャルルにとって、味方とは足手纏いのこと。

 彼らさえいなければ、どうとでもなる。

 撤退する方角さえ間違えなければいい。


 鬱陶しい泥濘に足を取られながら進むうちに、いつの間にか日が落ちていた。

 前方にちらちらと見える松明の光は自軍のものか、それとも王国軍が待ち伏せているのだろうか。

 どちらでもいいと思う。

 邪魔立てする者は切ればいい。

 それが、血の宿命だ。

 自然と笑みがこぼれた。

 自らを嘲るような、虚無の微笑み。


 盆地を撫でるように、風が吹く。

 雲間から月が顔をのぞかせ、血と泥の入り交じる盆地を照らし出す。

 いつの間にか、雨は止んでいた。

 敗走する皇国軍兵士には厳しい天の采配だ。

 闇夜に紛れて逃走するのが難しくなる。


 月光が盆地を照らす。

 前方に、力尽きて泥に埋まった兵士の屍が見える。

 その先に、折り重なるようにして斃れた骸がちらほら。

 ここで敵兵に捕捉されたのかもしれない。

 盆地中央を撤退する途中で、幾度も目にした光景だ。

 この分では、生き延びた兵士はかなり少ないかもしれないと、シャルルは思う。

 クール盆地はアジャンクール王国の中心部に近い。

 たとえここを生き延びたところで、王国領内を縦断して皇国まで戻るのは、かなり難しいだろう。

 遠征軍主力が組織的戦力を保持したまま撤退するのに成功していればよいが、この分では望めない。

 クール盆地の戦いが、ポワティエ皇国の終わりの始まりとなるかもしれない。

 そこまで考えて、ふと苦笑する。

 ――自分は皇国の存続を望んでいるのだろうか。それとも……。

 やはり、よく分からない。

 皇国が滅んでも悲しみはしないだろうと思う。だが、積極的にそれを望むのかと言えば、そうでもない。

 結局のところ、強い願望が持てるほど人間らしい存在ではないのだ、自分は。

 嘲るような、哀しむような笑みを浮かべて、新たな屍のかたまりの傍らを通り過ぎようとした。

「って……」

 微かな声が聞こえる。

 かすれていて、よく聞き取れない。

 足を止めた。

「待って……」

 今度は、もうすこしハッキリと聞こえる。

 右手に折り重なって斃れている数体の屍の中。

 どうやら、まだ死に切れていない者がいるらしい。

 それもまた、よくあることだ。

 致命傷を負いながら、死を恐れ、周囲に助けを求める。

 

 相手をするまでもない。

 そう思って、通り過ぎようとする。

「待って……。あなた、黒鬼よね……?」

 なぜ立ち止まったのか、よく分からない。

 傷病兵など、当たり前のように見捨ててきた。

 なのに、退却途中でわざわざ関わり合おうとするなど、我がことながら理解できない。

「それがどうした?」

 気がつけば、シャルルは返事を返していた。

 恐ろしくぶっきらぼうな声。

 微かに息を呑む音が聞こえる。

 シャルルが悪名高い黒鬼と知って怯えているのだろうか。

 一瞬間があく。

「よかった……」

 かすれた声が返ってきた。

 どうやら、声の主は女らしい。

 だからどうだということはない。

 だが、よかったという返事は少々意外だった。

「私なら確実に苦しみから解き放ってやれる。介錯を望むか?」

 傷の痛みに苦しみながら死ぬよりは、一思いに止めを刺して欲しいと思うこともあろう。

 介錯人としてのシャルルの腕は確かだ。

 彼女は、待ち望んでいた介錯人がついに現れたことを喜んでいるのかもしれない。

「ち、違うわよ」

 なぜか慌てた声。

 やはり理解できない。

 介錯でなければ、何を望むのだろうか。

 まさか、重傷を負った自分を味方陣地まで連れて行って欲しいとでも言うのだろうか。

 敵どころか味方にも忌まれているこの黒鬼シャルル・ド・クレシーに向かって。

「だいたい、私は怪我なんてしていないし……」

 呟くような声。

 やはり理解できない。

「怪我もないのに、なぜ泥に浸かっている? そういう趣味なのか?」

「はぁ?」

 呆気にとられたような声。

「そんなわけないじゃない。王国軍に襲われたとき、隣の兵士が私に倒れかかってきたのよ。重装の男を撥ね除ける力なんて私にはないから、起き上がれなくて困っていたの。……ねえ、私に乗っかっている男をどけてくれない?」

 そう言って、彼女は軽く咳き込んだ。

 喉が枯れているのに、無理をして声を出したせいだろう。

 それにしても、どうしたものか、とシャルルは考え込む。

 男を一人どけることなど、造作もない。

 だが、そんなことをする必要もない。

 普段なら、彼女を見捨てて歩み去ったことだろう。

 だが。

 シャルルは今、難題を抱えていた。

 先月バルディッシュを買ったせいで、手持ちの金がほとんどないのである。

 だからだろう。

 条件次第では助けないこともない。

 そんな気分になっていた。

「いくらだ?」

「へっ?」

 驚いたような声。

「君を助けたら、見返りにいくらもらえるかと聞いている」

「信じられない。人助けに金を要求するなんて……」

 憤慨したような声。

「いやならいい」

 そう告げて、シャルルは再び歩み出そうとする。

「ま、待って」

 慌てたような声。

「分かったわ……。助けてくれたら、金五十払う。それでどう?」

 苦しそうな声。

「承った」

 短く返事をする。

 予想外の高報酬だ。

 シャルルの一月分の手当金に相当する。

 これで、バルディッシュを研ぐ金を手に入れた。

 声が少し弾んでしまったのも仕方ない。


 バルディッシュを泥に突き刺し、屈み込んで兵士の屍を抱え込み、脇にどける。

 泥まみれの顔が見えた。

 地肌が完全に泥に覆われていて、容貌はまるでわからない。

 これでは、口や鼻にまで泥が入り込んで、さぞ難儀しただろうと思う。

 彼女が声を出すのに苦労していたのも、この泥のせいなのかもしれない。

 ほっとしたのか、精も根も尽きたのか。

 彼女は起き上がるだけの力もないようだった。

 ――仕方ない。

 シャルルはそう嘆息して、泥の中から彼女を引っ張り上げた。

「あ、ありがとう」

 少し驚いたような声。

「立てるか?」

「だいじょうぶ」

 かすれた声で、気丈に返答してくる。

 シャルルによりかかるようにして、彼女は立ち上がった。

「ねえ、顔を拭うものないかしら?」

 シャルルは黙って、腰のポーチを探る。

 籠手をつけたままなので、うまく目当ての物を取り出せない。

 応急処置のための布や湿布薬が入っているポーチのなかから、さらし布を引っ張り出し、彼女に渡す。

「ありがとう」

 そう呟いて、彼女は下を向いて、さらし布で顔を拭った。

「うわあ、泥だけ」

 顔の泥を吸って、泥まみれになった布を見て、彼女は呟く。

「この布、もう使えないから、帰ったら新しい布渡すね」

 そこまで律儀に考えなくてもいいのに、とシャルルは思う。

 だが、口に出したのは、

「分かった」

 という無愛想な返事のみ。

「じゃあ、行きましょ」

 そう言って、こちらを振り向いた彼女の顔は、相変わらず泥にまみれていた。

 それでも月光を吸い込んで輝く蒼い瞳が印象的だった。

「ああ」

 敵中を走破するのは、一人のほうがはるかに容易だ。

 だが、彼女から手助けの見返りをもらうためには、彼女を生きて帰さなければならない。

 面倒なことだが、仕方がない。

 彼女と連れだって、盆地の出口を目指して歩を進める。

「そういえば、まだ名乗っていなかったわね。私は、クラリス・ド・ヴェルヌイユ。よろしくね、黒鬼さん」

 シャルルのほうを向いて、クラリスはそう自己紹介した。

「ああ……私はシャルル・ド・クレシー。黒鬼と呼びたければ、そうしてくれて構わない」

 自己紹介などついぞしたことがないのに、気がつけば名乗っていた。

 彼女のペースに巻き込まれたと言えなくもない。

 だが、不愉快な気はしなかった。


 空を見上げれば、雲は完全に姿を消し、晩秋の名月が盆地を照らしていた。

久しぶりに小説を書いてみようと思い立ち、本作を執筆しました。

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