桜の記憶
黄昏に溶け込むように響くのは甘い甘い音色。
その心は何処へ向かう…?
綺羅はあの桜の下に来ていた。
季節を問わず咲き乱れる狂い桜の下に。
そっと幹に触れると、じわりと微かな温もりがかえってくる。
空っぽの容器を満たすように少しずつ流れ込んでくる何かが少し怖くて、でもそれ以上に心地よくて綺羅はコツンと額を寄せた。
「私は、貴方に何を預けたの?」
『あなたは わたしに なにを あずけたの?』
そっと囁いた問いかけに帰ってきたのは聞き覚えのある幼い声だった。
ゆっくりと顔をあげて後ろを振り向く。
そこにいたのは紛れもなく夢で見た幼い日の自分で、綺麗に結われた黒髪にはあの桜の簪が揺れていた。
今にも泣き出しそうな顔をする少女に綺羅は何も答えることができずにそっと目を伏せた。
『忘れちゃったの?』
少女はもう一度問いかけてきた。
今度は凛とした瞳で自分をしっかりと見据えて。
「失くしてしまったのかもしれないわ。」
『なくならないよ。きえたりしないよ。』
「私はもう、愛される資格さえないもの。」
自然とこぼれた言葉に少女は満足そうに笑った。
無邪気なその笑み綺羅もつられるように笑う。
『ほら、きえてない。かえしてあげるね。
いちばんたいせつなもの。』
「一番…?」
『ずっと、まってたんだよ。これからもずっとずっと、まってるんだよ』
少しずつ少女の声が遠ざかりそれに比例するように眩しいほどの光が広がる。
ゆっくりと瞼を押し上げれば冷たい何かが目を覆っていた。
待ってたんだよ。
ずっとずっと。
優しくはにかんだ幼い自分はいったい何を、誰を、待っていたというのか。
誰を待っているというのか。
一瞬、脳裏をよぎった男の顔にブンブンと首を振る。
そんなに都合のいい話があるはずがない。
そう思うと同時に綺羅は気づいてしまった。
今まで散々否定して気付かないようにしてきた感情をもう自分が認めてしまっていたことに。
「あぁ…。私は、」
それを皮切りに流れ込んでくる感情の渦。
そう、待っていたの。
ずっとずっと、唯一人、あの人が迎えに来てくれることを。
あの人の隣で笑っていられる日々を。
だからそれが、その願いが汚れてしまわないようにあの日その記憶を、その感情を眠らせたの。
「ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい…!」
弱くて。忘れてしまって。逃げて。思い出せなくて。
「綺羅は、まだ貴方をお慕いしております。」
でもそれはもう許されないから。
だから、私はこの想いに蓋をします。
苦しくて切なくて愛しくて温もりをくれるこの感情に。
再び鍵をかけて眠らせます。
だからどうか、あと2日。
泡沫の夢幻を見ている間だけは貴方を想うことを許してください。
それを、この最後の幸せを糧に、私は生きていくから。




