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夕方19時。
まだ雄介からの連絡はない。
夕飯を食べずに待っていると一緒に食べたいと思われると思って早めに済ませた。
もしかしたらと淡い期待を持ち、堅苦しくならない程度のお菓子だけ用意してあるが、用意してあると知られるのも嫌だったので棚の奥に隠してある。
準備は万端だ。
ぼんやりテレビを眺めながら、ドキドキする胸を宥めるのに私は必死になっていた。
不意に携帯が光ってメールの到着を知らせる。
慌てて画面を開くと『もうすぐ着く』とだけ書かれていた。
途端私は立ったり座ったり挙動不審になりながらチャイムが鳴るのを今か今かと待ち続けた。
キンコン。
数分後に鳴ったチャイムに一呼吸おき、心とは反対にゆっくりゆっくりと玄関に向かう。
私はもう雄介のことは何とも思ってない、そう自分に言い聞かせながらドアをそっと開けた。
「よう。久しぶり」
そこには以前と全く変わらない彼がいた。
「外、まだ暑いよ」
そう言いながら笑う姿に目の奥が熱くなるのを感じて慌てて俯いた。
そのまま私は自然に
「上がる?」
とどうでも良さそうなトーンで誘う。
「中涼しい?ちょっと涼ませて」
そう言ってあっさり雄介が靴を脱ぐのを見て私は心の中でガッツポーズをした。
麦茶をコップに注ぎ、さっき棚の奥に隠したお菓子を無駄にならなくて良かったと思いながら皿にあける。
お盆にコップを乗せて運び、カラカラと氷がぶつかって軽快な音をたてるのを聞きながら机にそれらを並べた。
「忘れないうちに、これ」
雄介が差し出したのは例のペアリングだ。
再び私の元に戻ってきたそれを大切に受け取り、けれどそんな様子はおくびにも出さずにお菓子の横に無造作に置いた。
「わざわざありがとう」
「いやいいけど。どうして今頃?」
麦茶のコップを頬につけながら不思議そうに雄介が尋ねる。
当然聞かれるだろうと思っていた質問に、私は前もって用意していた回答を口にした。
「ようやく雄介のことをふっきれたから。今は思い出を大切にしたいと思っただけだよ」
この答えで不自然ではないだろうか。
ポーカーフェイスは貫けただろうか。
そんな疑問が頭をよぎったが、雄介はふうんと言いながら手で顔を仰いでいる。
言葉の意味をまるで理解していないような様子に私はそっと肩の力を抜いた。
「お前最近恭子に会った?」
突然話が飛んだ。
若干あっけにとられながら「うん」と素直に頷く。
しかし聞いたきり何か納得したような表情を浮かべて特に何も言わない彼の様子に引っかかりを覚える。
けれどそこを掘り下げようとは思わなかった。
恭子の話題になると、好きな女の話を目の前でされる確率が高い。
それを笑って聞いてやる自信は正直なところ皆無だ。
だから私はさりげなく話を逸らすために世間話を始め、彼もそのままそれに乗ってきた。
付き合いの終盤にいつも取り巻いていた重苦しい空気はそこにはなく、軽い調子で話は弾み、今だけの幸せとは分かっていても楽しくて楽しくて仕方がなかった。
「そろそろ帰ろうかな」
そう雄介が言って時計を見ると時計は21時過ぎを指している。
もう2時間も経ったのかと私は純粋に驚いた。
付き合っていればこのまま泊まっていってもらえるのに、私にはもう引き止める資格がないことが悲しい。
「送れないけど気をつけてね」
けれどせっかく楽しい時間を過ごせたんだ、笑顔で別れよう。
これで会うのも最後かもしれないけど今日のことは良い思い出になるに違いない。
だから笑顔を浮かべながら彼の顔を焼き付けようとしっかりと見つめた。
「そういえば恭子から聞いた?」
あとはじゃあねと言うだけだと心の準備をしていた私は、彼の言葉に一瞬キョトンとし、すぐさま気付く。
さっき避けられたかと思ったあの話題だ。
「聞いたよ、良かったね」
「うん、まあ」
「こんなとこで私に会ってて大丈夫?」
冗談ぽく言った皮肉は思いがけない言葉で返された。
「そういう付き合い方してないから大丈夫だよ。もっと心で通じ合ってるっていうかさあ」
そういう付き合い?
心が通じてる?
言い換えれば私とはそういう付き合い方をしていたということか。
瞬く間に自分を包んでる空気が冷えていくのを感じた。
駄目だ、これでは雄介に嫉妬がバレてしまうと思ったがもう遅かったらしい。
「なに?嫉妬?」
キスをするのかと思うくらい雄介が私に顔を寄せ、私は思わず固まる。
そしてゆっくり彼の唇の端が上がるのを至近距離で見た。