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次の日は大学へ行っても上の空で、授業そっちのけで夕方以降のことを考えていた。
何を話そうか、少しでも部屋に上がっていってはくれないだろうか、そんなことばかりが頭をよぎる。
雄介は指輪を渡すだけ渡してすぐ帰るつもりだろうが、せめてお茶の一杯でも飲んでいってほしい。
けれど好きな女ができたのだったら、元カノの部屋でくつろぐような行動はしないだろうということも分かっていた。
彼はそういう男だ。
「どうした?なんかいいことあった?」
隣りに座っている美波がソワソワしている私を見て尋ねてくる。
「今日さ、雄介に会えるかも」
へらへらと笑ってみせると美波はやれやれといった感じで私を見た。
「なんで今頃?」
私は指輪のことを簡単に説明する。
加えて昨日恭子から聞いた新しい女のことも話した。
ふんふんと頷いていた美波はすべて聞き終わると
「良かったじゃん。いや女のことは良くないけど、最近あんた無理してるのが見てて分かってたから。今日はすごくいい顔してるよ。やっぱりまだ雄介くんのことが好きなんだね」
と笑顔になった。
「…好きだけど、もう望まないよ」
浮かれた気分が少しだけ影を潜める。
そう、雄介を好きだと嫌というほど実感しているがナンパ男との一件を忘れた訳ではない。
男は信用できないという思いも相変わらず心の底にはびこっている。
けれどやっぱり雄介は特別なんじゃないかという希望を捨てきれずにいた。
どうして私がこんなに雄介にこだわるのか、それは大学に入りたての頃に遡る。
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それはその時入っていたオールラウンドサークルの先輩たちと家飲みをしていた時のことだ。
わいわいと騒ぎながらコンビニで買った酒やつまみを飲んで食べて、その日はとても盛り上がった。
終電近くになると一人抜け、二人抜け、それでも酔いつぶれた人や飲み足りない人などがいてオール飲みへと続き、暇な私はそのままそこで慣れない酒を飲み続けた。
けれど酒に強くない私は当然のように睡魔に襲われ、まだ誰も使ってない家主の布団に潜り込み、ちょっとだけと目を閉じた。
ふと目が覚めた。
あんなに騒がしかった部屋の中はしんとしている。
何時だろうと目だけ動かして壁にかかった時計を見る。
朝の五時。
少しだけ眠るつもりがガッツリと寝てしまったらしい。
会場になった家から自分の家は近かったのでそっと抜け出そうかと考えていたら突然太ももを触られて私は飛び上がりそうなほど驚いた。
その手の主は布団の中に埋まるようにして寝ていたので、寝起きの私は誰かが隣りで寝ていることに気付かなかったらしい。
ずるずると布団の中から上へとずり上がってきた男の顔を見て私ははっとした。
それは以前から私に好意を持っていると噂に聞いていた先輩だったからだ。
「やめてください」
周りで眠るサークル仲間を起こさないように私は小声で咎める。
けれど大真面目な顔をした先輩は、何かにとり憑かれたかのようにじりじりと接近してきて唇を合わせてきた。
騒いだら他の人に見られる…それが怖くて私は抵抗すらできなかった。
それをOKと捉えたのか、先輩の動きは次第に大胆になる。
そして何がなんだか分からないうちに下半身を気のすむまでまさぐられ、静かに先輩が覆いかぶさってきたと思った瞬間鈍い痛みが走った。
もうやめて、と私は何度目になるか分からない無言の懇願をする。
しかしその願いは聞き入れられることはなかった。
先輩は無言のまま息が上がるのを必死に堪えているようだった。
痛みに耐えながらぼやける視界の隅で、私は早く開放されることだけを祈った。
と、先輩が突然私の身体から離れた。
硬直していた身体から一気に力が抜け、私は涙を拭う。
「初めてってすごいな。半分しか入らなかったわ」
全く悪びれもせず、先輩はこれ以上は無理だと笑って言った。
私は何も答えず身なりを整えてすぐに部屋を飛び出した。
もう一秒だってこんなところに居たくなかったのだ。
それが私の初めてのセックスだった。
愛も何もない、ただの行為に笑うしかない。
よく「事故のようなもの」なんて言葉を聞くが、その言葉が一番しっくりくる。
初めてのセックスに多少なりとも特別感を持っていた面もあるが、それも今日打ち崩された。
それでも、悔しいけれど初めてというこの記憶はいつまでたっても消せないだろう。
ならば何とか笑い話にできるようにしなければ。
でもさすがに今はまだ無理だ。
そう思って唇をかみしめる。
いつかきっと何でもないことになるからと自分に言い聞かせて、このことは突き詰めないようにしようと私は朝日で明るくなった空を見上げて誓った。
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それから程なくして私は雄介と出会った。
男なんて信用ならないと頑なに思っている私を不審に思ったのか、彼は直球で何があったのか聞いてきた。
黙っていても良かったのだが、男に対する私の嫌悪は心にしっかり根付いていて決してなくなるものではない。
だから気が進まないながらもかいつまんで過去にあったことを打ち明けた。
おそらくこの時すでに雄介に対して何らかの惹かれるものがあったんだと思う。
でなければ、こんな話を他人にするのは憚られる。
雄介は真剣に話を聞き、そして私を抱きしめた。
「俺はそんなことしないよ。大切にするから」
そんな告白で私たちは始まった。
半信半疑ながらも誠実な雄介と一緒にいることによって、男も全員が下らない訳じゃないんだなと、少しずつ少しずつ私は頑なな心を解いていくことができた。
雄介の存在は希望の光というと大げさだけど、実際その位の影響を与えるような存在となっていくのに鈍感な私は気付かなかった。
だから必要以上に試したり甘えたりしてしまったに違いない。
祐介はそんな私のお守りに段々疲れてしまったんだと思う。
それでも未だに彼は私の中での希望の光に他ならなかった。