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それからも私たちは高くも低くもないテンションで話し続けた。
こんなに長い時間が経っているのに未だに話題が途切れないのは、マサルの性格や話術のお陰だと思う。
どちらかというと話下手な私にとって、それは驚きと同時に尊敬する面でもあった。
彼の中にはタブーな話題はないらしく、身の上話から過去まで何でもないことのように話した。
私も聞かれれば変に隠したりせずに答えた。
どんな事を言っても彼は必要以上に驚いたり同情したりしなかったが、面白いと思えば大笑いしてくれるので話しやすい。
話しやすいので安いお酒も美味しく感じる。
そう思いながら何杯目かのグラスを空にして私はメニューを手に取った。
「まだ飲むの?」
赤い顔をした私を心配しているのかマサルが問う。
「飲みたいけど、ちょっと無理かも」
こんなに長い時間飲み続けることはサークルのコンパでもなかなかない。
そろそろ限界も近そうだ。
確実にアルコールは軽い頭痛をどこからともなく連れてきている。
「ウーロン茶にしときな」
マサルは勝手にそう決め、さっさと店員を呼んで注文した。
時計を見ると午前四時を指している。
もうすぐ始発が走り出すな、と若干緩んでいた意識をシャンとさせるべく背筋を伸ばした。
けれど眠気と酔いで身体は重く、行儀が悪いけれどテーブルに肘をついて上半身を支えることになってしまう。
マサルはそんな私をちらっと見ただけで何も言わずに話を再開させ、私も何も言わなかった。
ウーロン茶が運ばれてくる頃、ふと左手に温かい感触を感じた。
わざわざそちらを見て確認するような事はしない。
マサルに手を繋がれたんだと頭は冷静に判断する。
カウンターから上だけ見れば、何も変わっていないだろう。
けれどその手のぬくもりが何故だか泣きたいくらい心地よくて、私はこっそりとため息を吐いた。
手を繋ぐなんて何てことないはずなのに、この落ち着くような感覚は何なんだろう。
初めて異性と手を繋いだ中学生でもあるまいに。
酔っているせいだろうか?それとも相手がマサルだからだろうか?
けれどそれ以上考えたところで答えも出なければ得もしなそうだったので、私は慌てて考えるのを放棄する。
その優しい手の感触は夜が明けて席を立つまで、私の左手をじんわりと包み込んでいた。
***************
店の外へ出るとまだ空は暗いというのに街には人がたくさんいた。
急ぎ足にどこかへ向かう人、集団で騒いでいる人、昼間よりは明らかに人通りは少ないが明け方の光景としては違和感を感じてしまう。
けれどこれがこの街の日常なんだろう。
そんな事を考えている私の方が、この場では浮いているのかもしれない。
「歩ける?」
再び繋がれた左手に意識をとられながら「うん」と頷く。
駅はすぐそこだ。
けれど切符を買い、自分の乗る改札へ入ろうとした時、マサルも同じ自動改札を通ったのを見て不思議に思う。
「同じ路線だっけ?」
家の最寄り駅まで聞いていなかったが、もしかしたらそうなのかもしれないと聞いてみる。
「いいや?茉莉の家に行こうかと思って」
「・・・ええ?」
一瞬何を言われたのか分からなくて問い返した。
「そんな嫌そうな声だすなよ」
マサルは苦笑しながらやってきた電車に一緒に乗り込み、当然のように私の隣りに腰をおろした。
嫌か嫌じゃないかと聞かれれば、嫌に決まっている。
今まで誰かと飲みに出かけても自分の家に誰かを招き入れるなんてことはなかった。
それはひとことで言ってしまえば面倒だからだ。
どこか特別に感じているマサルだって例外ではない。
自分の部屋は砦のようなものなんだから。
敵か味方か分からないような奴を入れるわけにはいかないのだ。
けれど。
私は左手に視線を落とす。
未だに外れていないそれ。
そしてそこから視線を上げてマサルの顔をちら見する。
目を閉じて疲れた様子の表情に、私は諦めることを余儀なくされた。
もう電車に乗ってしまったんだし帰れと言うのは可哀相に思う。
なるようになれ、と心の中で呟く。
そう思ったら案外楽になり、地下鉄特有のゴーっと鳴る音をぼんやり聞きながら眠気に占領された頭で乗り過ごさないようにしないと、とそればかり考えていた。
部屋に着くなりマサルはそのままベッドに倒れこんだ。
「ちょっと、床で寝てよ」
化粧を落としたり部屋着に着替えたり、私はすぐにゴロンという訳にはいかない。
マサルにそこで寝られてしまったら私が床で寝るということになるんだろうか。
いや、どういう理由があっても家主にベッドの優先権があるはずだ。
そんなことを考えながら寝るための準備を終え、マサルをベッドから引きずり下ろそうと引っ張った。
「何だよ。眠いんだけど」
心底面倒臭そうにマサルがボソボソと抗議してくる。
「私だって眠いんだからお客さんは床で寝て下さい」
冷ややかに言い放つとほんの少しだけ眼が開いた。
「一緒に寝ればいいじゃん。大丈夫だよ、俺子供には手を出さないから」
そう言って用件は終わったとばかりに再び瞼が閉じられる。
どうしようか迷ったが床で寝るのは嫌なので、躊躇しつつもマサルの隣りにあるスペースに身体を滑り込ませた。
しかしどうしたことか、さっきまで追い払っても追い払ってもしつこく居座り続けた睡魔がやってくる気配がない。
隣りの男は寝てしまったのか、規則正しい寝息が聞こえるのみだ。
閉じられたカーテンの向こうでは、少しずつ空が白み始めているようだった。
それと共にわずかだけれど人々が活動を始める気配を感じる。
目を瞑り、寝ようと努力しながら以前同じようなことを感じていたことを思い出して私は息をつめた。
そうだ、雄介と付き合っている時にも明け方眠れなくてこうして目を閉じて耳を澄ましていたっけ。
きっと明け方まで下らない話をしていて寝そびれた時か何かだろう。
雄介は先に寝てしまい私も寝ようと横になって眠くなるのを待っていた。
あの時の満ち足りた気持ちに比べて、今はなんて乾いているんだろう。
幸せというものが身体から抜け落ちていき、今残ってるのはスカスカの残骸だけだ。
そう思いながら私は少しだけ今の自分を後悔する。
けれど、だったらどうしたら良かったんだろう。
常に最善だと思って行動してきたつもりだけれど、間違った道はやっぱり間違いでしかないのだろうか。
その時布団が動いた。
目は瞑っているので分からないが、隣りの会ったばかりの男が寝返りでもしたに違いない。
そう思っていると唇に温かいものが触れた。
思わず目を開く。
そこには真面目な顔をした男が至近距離で私を見ていた。
「・・・なに?」
「別に」
そう言って男は私の頭をよしよしと撫でる。
まるで私の後悔を感じ取ったかのように。
そのまま黙った私を見て、マサルは確かめるかのように丁寧に私の身体に触れた。
性的欲求を感じない、労わるような触れ方に私は力を抜く。
セックスはどちらかといえば男が身勝手な欲求を解消するものだと思っていたが、マサルは自分の欲望に突き動かされたりせず、それが当然かのように優しく恭しく、ゆっくりと行為を進めた。
行為が終わってやっと訪れた睡魔に連れ去られそうになりながら、私はひとつだけマサルに言いたいことがあった。
「ねえ、子供に手は出さないんじゃなかったの?」
再び寝る体勢に入っていた隣りからは数秒の間の後、
「やばい、俺ロリコンかな」
と返答があり、思わず笑ってしまった。
眠る瞬間、もう雄介の顔は思い出さなかった。