青姫
町が紺碧に沈む頃、彼女は眼を醒ます。つまり、もうじきその時間である。私は紗読会用の資料をデスクの上に投げ出し、配膳室へと向かった。
下げられた食器類の片隅に、手つかずの食事が一つ残っている。私はそこからミニトマトを取り除き、1個、2個…4個全て、その場で咀嚼した。まるでつまみ食いをしているような光景で笑える。トマトを片付けると、私はトレイを両手に持ち、廊下に出た。
消灯時間を待ちわびるのみとなった病棟はひっそりと静まり返っている。耳を澄ませば、微かな泣き声や低いイビキ声が聴こえてくる。さながら戦場の夜とでも称せば良いのだろうか。そんな深い世界の、一番奥の病室まで、私は進む。
三度ノックをし、鍵を回した。扉をスライドさせると、静謐な月の光が零れた。彼女はベッドから上体を起こし、ガラス越しに昏い空を眺めていた。
「おはよう。調子はどうだい」
「ああ、先生。おはようございます」
青姫はシルクのような黒髪を滑らせ、さっと振り返った。チューブや機器類の束縛も無く、身体には何ら欠損も無い。ただパジャマ姿の少女が、清潔なベッドの上に載っているというこの光景は、惨劇ばかりを見てきた私には信じ難いほど美しく、また同時に、嵐の前の静けさに似た不穏な雰囲気を醸し出している。
青姫という名はナースたちが付けたもので、彼女らは『青姫ちゃん』と呼んでいる。本人も気に入っているようであるし、本名を出すわけにはいかないので、私もそう述べることにする。
青姫という名前の由来は、彼女の精神疾患にある。彼女は『色』に対してある特異的な反応を示す。具体的には、赤色やそれに準ずる明色を極度に嫌い、青色に強い執着を見せるのだ。
パジャマも、スリッパも、筆記用具、ハブラシ、コップなど日用品のほとんどが青で統一されている。青姫の法だ。この法を破ると、彼女は激しいパニック状態になる。だから彼女は夕日が消えた後に眼を醒ますし、トマトを食べることはできない。また彼女の前で赤ペンを使用することなどはNGだ。
「ごはんだよ」
私はトレイを差し出す。青姫はあどけない笑顔をトレイに差し向ける。
その表情が一瞬に曇った。
「どうした?」
「先生…にんじんが」
青姫は云い、恐怖の対象から顔を反らす。
「ああ。そうか」
迂闊だった。私は冷めたシチューに指を突っ込み、にんじんを摘出して食べた。
「……もう大丈夫だよ」
「うん…」
青姫は再びゆっくりと食事に向き合った。
「だいぶ、抑えられるようになったね」
私はベッドわきの丸椅子に腰かける。
「ありがとう。先生…。でも、まだ、怖い。……危ないから、もう、行っても良いよ」
「いや、帰るとまた仕事が待っているからね。青姫の部屋で休憩だ」
云うと、青姫は静かな笑みを見せた。
青姫は自身の病気をはっきりと自覚している。自分が青を愛していること、赤を恐れ憎んでいること。またそれらの理由付けも、なかなかしっかりしたものがある。
青はそもそも、空の色、海の色、安らぎの象徴である。一方、赤は血や炎といった恐ろしい存在だ。その恐ろしい色が、皮一枚を隔てた自分の中に、溢れんばかりに存在しているということは、繊細な彼女を怯えさせるには十分な事実だった。赤色を見ると、自分の中の野蛮で破壊的な人格が疼くのだという。そして、分かっていても、どうしようもできない。
誰かの気を引きたくて、あるいはアイデンティティーを見出したくて、一風変わった人格を演出しようとする行為はときに、いわゆる『中二病』、『夢想家』などと揶揄される。
しかし、真っ赤な夕陽に焼かれ、狂おしいほどにもがいていた青姫。家族に引きずられ、泣きながらこの部屋にやって来た青姫。あの時の切実さは紛れもない真実のように思えた。ある人にとっての真実というものは、確かに一つの真実に違いない。最近、私はそんなことを考えるようになった。
私は真理を探して医者になった。
人間など、所詮機械のようなものだと信じ、ひたすらにメスを振るってきた。心臓が血液を送り、肺は酸素を交換する。細胞内ではATPが合成され、脳からは電気信号が巡り、ヒトを動かす。原理が分かり、あとは設備と器用さがあれば、命を繋ぎとめることは驚くに値しない。そう信じて、闇雲にキャリアを重ねてきた。
そして紆余曲折を経た今、私は青姫のベッドの隣にいる。何も持たず、何も疑わず、ただ彼女の食事風景を見つめている。
──あ。
私は、遠目から、シチューの中に紛れた小さなオレンジの塊を見つけてしまった。
緊張が走る。声をかけるべきか。いや、青姫は気付いたのだろうか。青姫は震える指先で青い箸を操り、シチューに埋もれたそれにじっと向き合っている。
「先生には、怖いもの、無いの?」
青姫は箸を止め、そう訊いてきた。視線は碗の中に落ちたままだ。
「怖いものだらけだよ。婦長さんも、幽霊も怖いしね」
そして、私の手では斃せない病も、怖い。
「私は、幽霊は怖くないなぁ。生きている人のほうが怖いもの」
「それはすごいね。でもまあ、云われてみれば、実体があるほうが怖いかも」
だから、にんじんも怖いんだよね、と云いかけて、私は言葉を飲み込む。それを察してか、青姫は申し訳なさそうに少し沈黙した。私は何気ないふうに顔を背けた。
「先生にも、怖いものってあるんだね」
青姫は念を押すように云った。
「そうだよ。誰だって怖いものはあるさ。いくつになっても、あって当然なんだ。ちなみに、婦長さんはアスパラが苦手なんだってさ」
私の背中で、青姫がくすりと笑った。
そう。認めることが大切だ。私は自分に云い聞かせる。怖いものは怖い。いくら強がったところで、嘘の鎧をまとったところで、内側に巣食う魔物には勝てない。
自身が強くなるしかない。ただ、それはゆっくりでも良いはずだ。安全な場所から、徐々に徐々に、脅威に慣れていくのだ。
怯える者を拒絶し、排斥する社会。それが青姫を傷つけた。眼下に点在する赤信号を見つめながら私は、未来の医療に思いを馳せる。
医療は死を否定し続け、高い塔を築くに至った。では、死を肯定し続けた場合はどうなるのだろうか。
私の興味は、次のステージに差し掛かっていた。次の紗読会では、終末期医療について触れる。患者の精神状態が生存率に与える影響を示す興味深い統計がある…。
「…先生」
ふと、私は眠りかかけていることに気付いた。青姫が心配そうにかけてきた声で、私は意識を取り戻した。青姫の病室は、海の底のように静かで、シィーンという高周波めいた音に満ちていた。私は腕時計を見る。いつの間にかもうこんな時間だ。行かなければ。立ち上がった私に、
「ごちそうさま」
と、すっかり空になったプラスチックの食器が差し出された。
誇らしげに、儚く笑う青姫。私は思い出し、驚き、そして確信する。
彼女が陽光の中に巣立つ日は近い。
END
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
夜明け前のイメージを感じて頂けたら幸いです。




