その3
アリシア・シルバーバーグ、それが彼『女』の名前だった。
インドネシアのムンバイ出身で、弁護士の娘として生まれる。
富裕層の子女として厳格な高等教育を受けアメリカに留学。ペンシルバニア大学を卒業後、図書館司書として勤務し、今に至る。
アリシア・シルバーバーグは、義体調整用のメンテナンスルームで目覚めた。
そして、思い出せたのが上記の記憶だけであった。
インドネシア出身? インドネシアの言語が何語と言うかすら知らない。
それ以前に、ムンバイがあるのはインドだ。
……そもそも、横で産声を上げている血まみれの新生児と、剥き出しになった自分の内臓はどういうことだ?
「こ、コレはいったい……」
アリシアは、剥き出しになった自分の臓物を指して言う。
「ちょっと黙って! 新生児取り出しまでは成功したけど、そこから先が成功する保障はまだ無いんだかんね! えーと、帝王切開部の縫合は……あったあった! プロテインステープラー!」
医師は子宮断裂部をつまみあげ、プロテイン製の硬質素材で出来たホッチキス針でカチカチと止める。そして、ホッチキスで止まった部分にチューブ入りの水分反応型のプロテイン製ゲルを塗りつけた。
回復促進のためにステロイドも入った弾力性ゲルは、見る間に血を吸い固まり同化して、子宮を止血する。
「ふう……手術って、案外チョロいんだね、全体的に」
そして即席医師は腸詰の子宮付近に付いた水密ファスナーを上げ腹皮をボンドで封印し、手術は完了した。
「でも、並列作業だったヘッドソケットの交換は、超簡単だったよ!」
「そりゃーねー……スイッチポン、ヘッドソケットオフ、新品装着で終わりだから。眼球換装も込みで電球の交換並みの簡単さだよね。電球2個取り替えるのと、あまり手間は変わんなかった」
「こんなに手術が簡単なのも、義体技術のおかげだよね!」
頭部の方からの声が、そう請合った。
「義体って、なに? それに、この赤ちゃんは? どうして私のおなかにジッパーが付いてるんですか」
「質問は一個づつにしようよアリシア。それよりホラ、アリシアのベイビーちゃんだよ!」
ベッドに横たわるアリシアに、包布にくるまれた生まれたての赤ちゃんが手渡される。
しかし、アリシアには何の感慨も沸かない。強いて言えば、あるのは困惑だった。
「サリー、アリシアの神経系代謝があまり活発じゃないみたい! まるで、見ず知らずの女に『あなたの子よ』って言われながら赤ちゃんを差し出された男みたいな反応ね!」
ヘッドソケット換装を担当したという助手が、モニタ画面を見ながら言う。
「腸詰のほうは、内臓脂肪をガンガン溶かしてまでありもしないおっぱいを膨らませようとしたりして、ホルモン分泌レベルでママになったことを自覚しまくってるのになぁ……よっしゃ! エストロゲンとドーパミンとセロトニンのスペシャルカクテル『こんにちは、赤ちゃん』入りまーす!」
この船の搭乗員はほぼ全員が元男という説明どおり、大脳の構造的に出産時に母親になる自覚が現れないものが想定されていた。そのための出産時脳波モニタリングであり、緊急回避用の出産時専用脳内麻薬だった。特に今回の新生アリシアは、ヘッドソケット換装自体は出産よりも優先順位が下だったので仕方がない。男の科学者が母性本能かくあるべしと考えた液状の母性本能『こんにちは、赤ちゃん』がアリシアの脳幹内に注入される。
全世界を手に入れたような爆発的な幸福感、元々どこにあったのかすら分からない、出産そのものには立ち会っていなかったから、当然であった。
わずか数ナノミリグラム、それによりもたらされたのは、全世界を手に入れたかのような幸福感と、今までどこにあったのかすら分からないところから断固として溢れ出る愛しさ、その精神の根底を揺さぶる衝撃が血まみれの新生児という視覚情報を経て、我が子の誕生を本能レベルで認識させる。
「私の……赤ちゃん。なんて……なんてかわいいの……」
「A-10神経系代謝が最高レベルの活動状態になったわ! アリシア、あんた今どんだけ幸せなのよ」
もうアリシアは、2秒前まで『なんだこの血まみれのサルみたいな生き物は』という認識でいたことすら、完全に遡って消去していた。自分は、この赤ちゃんのために生まれてきたとの確信に至る。
アリシアのヘッドソケットが新品……つまり、全く別の犯罪者の脳に換装されて、まだ10分と経過していなかった。このアリシアは、厳密には新生児よりも後で生まれたのだった。
「やっほー! アリシア!」
「おーっすアリシア! お見舞いに来たよー」
2人の女が、不細工なケーキを手に訪れる。
「ええと……あなたたち……誰? ですか? なんて……」
「ううっ! しどいよアリシア! 大親友のニルヴちゃんを忘れるなんて!」
「そうだよ! エレインのことも忘れたの?」
「ええと……ごめんなさい。あたしまだ記憶がハッキリしなくて……」
全く面識がない2人に謝る。2人からは、魚でも料理してきたかのような生臭い匂いが漂っていた。
「……なーんてね! アハハハ! ウソウソ ゴメンね」
「覚えてないのなんて百も承知だよ。だってアリシアは、ヘッドソケットを交換したばっかりだもんね」
「てゆーか、ついさっきまで前のアリシアのヘッドソケットの残骸をお掃除したんだよ!」
「タハハ……ちょっち臭かったらゴメンね!」
よく見れば、2人の飾り気の全くないジャージのあちこちに、痰のようでいて何か違う欠片がこびり付いていた。
「そうですか……ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
「いいっていいって! アタシ達はお掃除しただけだから! お礼ならサリーとミネルヴァに言ってあげて」
「いやいや、アタシ等も設定上医者と看護士だったから、そうしただけだから! なんせ義体の身体構造は、顔面・眼球・ヘッドソケット・腸詰・空胴・両手両足で終了だから超簡単なんだよ!」
「その中でも生体由来はヘッドソケットと腸詰だけだから、問題があれば交換するだけで終わり。それより……」
ニルヴとエレインは、ケーキを持ち上げる。
「パン職人の子が作ってくれたこのケーキのほうが、はるかに難しかったはずだよ! ……ちょっと失敗したみたいだけどね」
「パンの作り方も知らないのに、アリシアと赤ちゃんのために頑張ったんだから」
ニルヴとアリシア、それに医師のサリーと看護士のミネルヴァは明らかに失敗作の不恰好なケーキを差し出して言う。
「「「「お誕生おめでとう! 赤ちゃんとアリシア!」」」」
「ありがとう! みんな!」
アリシアは、赤ちゃんを抱きしめながら、強烈な脳内麻薬の余韻に浸っていた。
「私の赤ちゃん、生まれてきてくれてありがとう!」
「当艦は、まもなく惑星オーストラリア軌道上に到着します。先遣隊選抜メンバーは装備確認後、速やかにドロップシップに集合してください」
「……じゃあね、アタシ達、逝ってくるよ」
「赤ちゃんが見れて、よかった」
ニルヴとエレインは、脳の飛沫がかかったままの服でお祝いに来て、そのまま先遣隊として惑星オーストラリアへと降り立つ準備に飛び出していく。
「ニルヴ……エレイン……」
「ねえ、ニルヴ」
「なに? エレイン」
2人は他の先遣隊護衛要員とともに装備を確認しながら話す。
「いくらアタシ達が犯罪者だからってさ、わざわざ星の名前までこだわらなくてもいいのにぃ……」
「……それだけ重要なんだよ、きっと」
たとえ何人死のうがそんなこと関係ないぐらいにね、という言葉を続ける必要は、2人にはなかった。
ニルヴはグレネードランチャー付きアサルトライフル、エレインはサブマシンガンと大口径ハンドガンを担ぐ。
女性ホルモンの分泌信号は、ここで終了。その代わり、男性ホルモンのテストステロンと興奮物質のアドレナリンがゆっくりと脳内を燃やす。
「ヘルダイバー、ドロップします」
先遣隊を積んだドロップシップが、地表に向けて投げ落とされる。
「「「「ヒャーッ! ハー!」」」」
12名の先遣隊全員が、恐怖とも興奮ともつかない、がさつで荒くれた叫び声をあげた。