合鍵の歯型なんて無駄だと笑われましたが、火の回った書庫で侯爵様を救えたのはその無駄でした
「一山、二谷、三度寝禁止」
イングリッドは鍵の歯を蜜蝋へ押し込み、左右へぶれないよう親指で支えた。
客の鍵である。失敗は許されない。だから三度寝も禁止。二度寝までは起床事故の範囲だが、三度目は本人の意思が混じる。
「また歯型遊びか」
ネイサンが客の前で笑った。
「蜜蝋歯型控えです」
「呼び方の問題じゃない。そんなものを帳場に並べるな。見栄えが悪い」
「帳面には歯の高低が残りません」
「完成品があれば十分だ」
「なくした場合は?」
「なくさないよう言うのが職人だろう」
錠前師が鍵へ全幅の信頼を寄せてどうする。鍵はなくなる。曲がる。折れる。昨日まで腰にあったくせに、朝には井戸の底から発見される。それが鍵である。油断ならない金属片なのだ。
イングリッドは蜜蝋を外し、潰れていない山谷を確かめた。よし。一山も二谷も無事。
無事ではなかったのは婚約だった。
「そんな歯型遊びを続ければ、客にも夫にも選ばれない」
ネイサンは磨き上げた納品帳を閉じ、その上へ婚約解消の書面を置いた。続いて工房の鍵を出せと手を伸ばす。
客は目を伏せた。ネイサンは客に向けているときより、ずいぶん大きな声だった。
「今日限りで工房から外す。父から継ぐ前に、幼稚な癖を全部改めたかったが——もう必要ない」
「一つ訂正を」
「まだ何かあるのか」
「三度寝はしていません」
「そこじゃない!」
工房の鍵と婚約者を同じ日に失った。
蜜蝋だけは、イングリッドの鞄に残った。
* * *
「一山、二谷、三度寝禁止」
「まだやっているのか」
聞き覚えのある声に、イングリッドは書庫錠の鍵を蜜蝋から抜いた。
山荘へ臨時の錠前師として来て十二日目。旧工房から納められた錠を検品していたところへ、納品に来たネイサンが現れたのである。間がいいのか悪いのか。少なくとも胃には悪い。
「蜜蝋歯型控えです」
「名前まで同じか」
「同じものですから」
「新しい雇い主の前でも、それを広げるつもりか?」
ネイサンの視線が、イングリッドの後ろへ滑った。
若い侯爵ルカーシュが、書庫の入口に立っていた。黒い上着の袖口から包帯が覗いている。顔色は悪い。眉間の皺はもっと悪い。寝ていない人間の顔だ。錠前なら分解清掃を勧める段階である。
「客前でみっともない。無駄な遊びは捨てろと、何度言えば分かる」
「二度目です」
「回数を聞いていない」
では何を聞いたのだろう。
イングリッドが首を傾げると、ネイサンは磨かれた納品帳をルカーシュへ差し出した。
「歯の深さは?」
イングリッドが横から尋ねる。
「完成した鍵がある」
「なくした場合は?」
「またそれか」
またである。鍵は人を見て態度を改めたりしない。
ルカーシュは納品帳を一度開き、閉じた。何も言わなかった。褒めもしなければ、笑いもしない。
モーリスが次の検品場所を告げたため、イングリッドは蜜蝋を布で包んだ。火気に近づければ軟らかくなり、山谷が潰れる。書庫から二つ離れた作業室へ運び、蓋つきの控え箱へ収める。
「まだ間に合うぞ」
ネイサンが背中へ言った。
「何にです?」
「まともな職人になるのにだ」
「納品数が合いません。錠が十二、鍵が十一です」
間に合わなかったのは、そちらだった。
* * *
「夕食が一日三回出ます」
「朝食と昼食が混じっております」
料理人は、深刻な顔で訂正した。
山荘での臨時雇用は、どうも条件がいい。
専用の作業台がある。工具を置いたままにしても誰も勝手に磨かない。傷を洗う水は頼む前に届く。部屋には内側から掛けられる錠があり、寝台は作業台より広く、木屑も刺さらない。
工房では食事を抜き、眠くなれば作業台へ突っ伏していた。それで困ったことは——首が左へ回らなくなった日と、鑢の柄を枕と間違えて頬へ筋がついた日と、起きた拍子に鍵束を額へぶつけた日くらいだ。
かなり困っていたのでは?
いや、過去の自分への追及はやめよう。逃げ道のない尋問になる。
「食べないのか」
向かいの席からルカーシュが言った。
「食べています」
「パンを数えている」
「残り二個です」
「追加させる」
「侯爵様のお皿は空です」
ルカーシュの手が止まった。
イングリッドの皿からは、もう湯気の立つ肉と野菜が半分消えている。彼の皿には、手をつけられていない肉が一切れ。こちらの空き具合を見ていたらしい。
「先ほどから、私が一口食べるたびに侯爵様も一口です」
「偶然だ」
「七回連続です」
「数えるな」
「錠前師ですので」
意味は分からないが、職業を出すと大抵のことは押し切れる。
イングリッドはパンを一つ取り、ルカーシュの皿へ置いた。
「食べ終わるまで、書庫の鍵の相談には応じません」
「雇い主への条件か」
「錠前の調子より先に、侯爵様の包帯が緩んでいます。寝不足で巻けばそうなります」
ルカーシュは右手を卓の下へ隠した。
遅い。見た。三周目の布が斜めになっている。昨夜も眠らなかったに違いない。
「モーリス」
「すでに寝室の火を入れてございます」
「私は何も頼んでいない」
「イングリッド様から、夕食後に侯爵様を寝台へ施錠せよと」
「扉をです。侯爵様を錠前へ入れないでください」
料理人が鍋の向こうで肩を揺らした。
ルカーシュは眉間を押さえ、それからパンを食べた。イングリッドの皿が空になるのを見て、残りの肉にも手をつける。
職人の健康状態まで確認する、責任感の強い雇い主である。イングリッドも同じだけ確認を返す。公平な職場だ。
翌朝、専用作業台に同型の鍵材が六本届いた。書庫錠の補修用として、イングリッドが頼んでおいたものだ。
「多くないか」
ルカーシュが鍵材を一本持ち上げた。
「失敗用が二本、紛失用が二本、誰かが井戸へ落とす用が一本、予備が一本です」
「井戸へ落とす者がいる前提なのか」
「鍵は落ちたがっています」
「そうか」
否定しない。侯爵は鍵の性質をよく理解している。
彼の腰には、別の鍵輪がある。屋敷玄関の大鍵と、侯爵私室の細身の鍵。どちらも主人だけが持つため、モーリスでさえ必要なときは借りるという。
鍵材を受け取ろうとしたイングリッドの人差し指には、浅い切り傷があった。
ルカーシュの手が伸びる。
だが、触れる寸前で止まった。
「洗ったのか」
「はい。布も巻きました」
「ならいい」
いいと言いながら、彼は新しい布と軟膏を作業台へ置いた。
臨時職人への備品が手厚い。これなら寝台も食事も、腕を買われた結果に違いない。
よし。山荘じゅうの錠を、百年は壊れないようにしてやろう。
臨時雇用の期間は一月だった。
* * *
「火だ!」
鐘より先に、廊下の向こうから叫び声が飛んだ。
イングリッドは作業台を蹴る勢いで立った。書庫側の窓が赤い。運び込まれた油灯の金具が折れ、隣の物置へ落ちたらしい。
「西廊下を使え! 厨房前には近づくな!」
モーリスが使用人たちを裏庭へ出す。二人、四人、七人。料理人がいる。下働きの娘もいる。ルカーシュがいない。
「侯爵様は?」
「書庫へ入られました。奉公人名簿を取りに」
「人が先でしょう!」
「同じことを申し上げました!」
本人だけが数に入っていない。侯爵の計算は欠陥品だ!
書庫前の防火扉は落ちていた。火を遮るための分厚い扉だが、熱で枠が歪み、錠の掛かった位置で噛み込んでいる。
向こうから三度、鈍い音がした。
「侯爵様!」
「イングリッドか。離れろ!」
離れられるわけがない。
「正鍵は?」
「鍵棚です」とモーリスが答えた。
鍵棚へ通じる東廊下では、梁が炎を吐いていた。取りに行けば、戻るころにはイングリッドまで焼き上がる。錠前師の丸焼き。絶対に嫌だ。食卓へ出されても料理人が困る。
「納品帳を!」
残りの検品のため山荘に泊まっていたネイサンが、書庫用の帳面を抱えて駆けてきた。消火の人手に加わっていたらしく、頬に煤がついている。
「錠の型はこれだ」
「歯の深さは?」
ページをめくる。寸法、材質、納品日。肝心の山谷がない。
「書いていない」
「完成品があれば十分だったんですよね」
「今それを言うのか!」
「今必要です!」
扉の向こうで咳が聞こえた。
軽口が喉の奥で止まった。
イングリッドは踵を返し、作業室へ走った。控え箱。上から三段目。布包みを掴み、補修用の鍵材と万力、鑢を抱える。
戻るまでに火は壁を一枚食べていた。
「灯りをここへ!」
モーリスが水を被せた机を扉前へ据え、二人の使用人が鏡板で熱を遮る。イングリッドは万力を固定した。鍵材を挟む。布包みを開く。
蜜蝋歯型控え。
書庫の鍵を押した山と谷が、そこに残っている。
「それは……」
ネイサンが息を詰めた。
熱気が頬を叩く。蜜蝋の縁がもう柔らかい。指で強く持てば潰れる。布の端へ載せたまま、目だけを近づける。
一つ目の山。浅い。
二つ目の谷。深い。
三つ目は——蜜蝋がわずかに沈んだ。
「水を」
「蜜蝋にかけるのか?」
「私の手に!」
モーリスが柄杓の水をかけた。冷えた指で蜜蝋の外縁だけをつまむ。形はまだ残っている。
同型の鍵材へ目印を刻む。
一歯目。鑢を三往復。
「一山」
金属粉が汗へ貼りつく。
二歯目。角度を変える。深く削る。往復を増やし、一度止めて蜜蝋と高さを比べる。
「二谷」
扉の向こうで、また咳。
三歯目。浅い谷を作り、隣の山へ鑢を送る。手元へ煤が落ちた。熱で鍵材まで膨らんでいる。削りすぎれば終わり。足りなければ回らない。
「三度寝禁止」
ネイサンの口は固く結ばれていた。
鑢を短く二度。鍵材を裏返す。返りを落とす。蜜蝋の歯型へ重ねる。山が一つ高い。
あと一往復。
イングリッドは万力を締め直した。汗で指が滑り、鍵材の縁が人差し指を裂いた。
「イングリッド!」
「一本目、失敗用!」
失敗ではない。血が出たくらいで鍵は気を遣わない。実に公平だ。
布を巻く暇はない。中指と親指で鍵材を押さえ、人差し指を浮かせる。鑢を一度だけ引いた。
削り屑を吹く。熱い空気を吸って咳き込む。鍵を錠穴へ差す。
半分。
止まった。
「浅い歯はどれだ」
ネイサンが蜜蝋を覗き込む。
「触らないで!」
触れれば潰れる。見比べる。二つ目の谷ではない。最後の山、その根元に返りが残っている。
鍵を抜く。鑢の角で撫でる。
一度。
差す。
奥まで入った。
回す。
動かない。
熱で膨らんだ錠へ、鍵の肩が引っかかっている。イングリッドは柄へ布を巻いた。右へ力をかけ、少し戻す。扉をモーリスたちに押させる。
「せえので手前へ!」
「せえ——」
「まだです! 鍵が先!」
「紛らわしい!」
錠の内部を想像する。歯が持ち上がる。一本目、二本目、最後があと爪一枚。
イングリッドは傷ついた指を柄へ重ねた。
「一山、二谷、三度寝禁止」
鍵が回った。
「今です!」
扉が開く。
煙が塊になって吐き出された。ルカーシュが片腕で口元を覆い、もう片腕に書類箱を抱えて立っている。
「箱を捨ててください!」
「名簿だ」
「侯爵様より重いんですか!」
返事を待たず、イングリッドは箱を奪って床へ落とした。ルカーシュの腕を肩へ回す。膝が一度折れた。モーリスが反対側を支え、三人で防火扉から離れる。
外へ出たところで、ルカーシュが激しく咳き込んだ。
イングリッドは彼の襟を掴んだ。
「何人救うおつもりでした?」
「名簿にいる全員だ」
「ご自分を数え忘れています!」
「今度から入れておく」
「必ず一人目です!」
「分かった」
煤だらけの顔で、妙に素直に頷く。
イングリッドはそこでようやく襟を放した。自分の指から垂れた赤い筋が、ルカーシュの上着についていた。
「手を見せろ」
「侯爵様が先です」
「私は立っている」
「膝が笑っていました」
「見ていたのか」
「二回です」
ルカーシュは何か言いかけ、傷ついた指へ手を伸ばした。
今度は途中で止めなかった。
掌で包むのではなく、傷へ触れないよう手首を支える。モーリスが持ってきた水で煤を流し、清潔な布をきつく巻いた。
その手も赤く焼けていた。
「侯爵様も」
「あとだ」
「同時です」
イングリッドは余った布を奪い、彼の手へ巻いた。右、左、あと一周。二人とも片手が白い。
火はほどなく消し止められた。書庫の一部と物置は焼けたが、使用人は全員無事。名簿も床へ落としたおかげで、角が焦げただけだった。
ネイサンは、曲がった合鍵を拾った。
「歯型遊びじゃない」
煤のついた顔から、いつもの断定的な光が消えていた。
「人を生かすための控えだった。無駄だと言ったのは俺だ」
イングリッドは口を挟まなかった。
一度目と二度目にはなかった三度目が、今やっと終わったのだ。
胸の奥へ、磨かれていない鍵がぴたりとはまった。よし。採点するなら満点ではない。婚約解消分を引いて、七十二点。だが零点ではなくなった。
「工房へ戻らないか」
ネイサンが合鍵を握ったまま言った。
「控えの置き場も作る。お前の方法でやればいい。職人として必要だ」
ルカーシュの腰で、鍵束が鳴った。
彼の手が強く握り込んだのだ。包帯の下で傷が開きそうなほど。
「侯爵様、手を」
「今はいい」
「よくありません」
「その話も、今はいい」
声が低い。火災より危険な温度である。
ネイサンは顎を上げた。客へ向ける顔を戻そうとしたらしいが、ルカーシュと目が合うと半分ほどで止まった。
「雇用の話です。元の工房へ戻すだけで——」
「戻さない」
「本人が決めることでしょう」
「そうだ」
ルカーシュはイングリッドを見た。
返事を待っている。無愛想な顔なのに、鍵束を持つ指だけが白い。包帯が緩んでいる。やはり巻き直しが必要だ。
「戻りません」
イングリッドは言った。
ネイサンの肩が下がった。
「仕事場も、方法も、改めろと言われません。それに」
「それに?」
「侯爵様を放置すると、またご自分を人数から抜きます」
「そこなのか」
モーリスが小さく咳払いした。
ルカーシュの鍵束が、ようやく鳴るのをやめた。
「評価を言い直したことは受け取る、ネイサン。だが彼女を取り戻す権利まで戻ったわけではない」
ネイサンは合鍵をイングリッドへ返した。
「分かった」
短く言い、今度は見栄を張らずに頭を下げた。
その背が消火後の庭を横切っていく。
これで終わりかと思ったところで、ルカーシュが腰の鍵輪を外した。
「イングリッド」
「はい。包帯を巻き直します」
「その前に、受け取れ」
二本の鍵が差し出された。
大きな鍵と、細身の鍵。どちらも見覚えがある。
「二本目はどこの錠ですか」
「私室だ」
「夜間修理用ですね」
「妻に夜番をさせる気はない」
「では、なぜ私に?」
使用人たちが一斉にこちらを見た。料理人は鍋を抱えたまま、口を開けている。
ルカーシュは何も言わなかった。
火の爆ぜる音だけが遠くで続く。
彼の視線が、イングリッドの傷ついた指へ落ちた。控え箱を抱えて走った腕。煤まみれの顔。曲がった合鍵。それから、蜜蝋を包んだ布。
「笑われても捨てなかったものが、私を生かした」
彼は二本の鍵をイングリッドの掌へ置いた。
「役に立ったから雇い続けたいのではない。その癖をやめない君を、その癖ごと、妻として選びたい」
鍵の重みが傷へ響いた。
屋敷玄関。私室。二本。
イングリッドは慎重に意味を組み立てた。侯爵家の職人へ最大級の権限を与える。妻と同等に信用する。つまり。
「終身雇用ですね」
料理人が鍋を落としかけた。
「違う」
「私室の鍵まで預ける特別職ですか」
「婚姻だ」
「契約更新の公的名称が?」
「結婚してほしい」
「侯爵様と働きながら?」
「私と暮らしながらだ」
「鍵の管理を?」
「それも頼む」
「やはり業務命令では?」
「侯爵家では、私室の鍵を臨時職人へ配る慣習はございません」
モーリスの一言が落ちた。
「ですが私は専属へ——」
「求婚です!」
料理人が耐えきれず叫ぶ。
「奥様です!」
「夜番じゃありません!」
「寝室が同じになるほうです!」
使用人たちが次々に畳みかける。親しみ深い職場だが、説明が急に具体的すぎる。
イングリッドは二本の鍵を見下ろした。
「しかし侯爵様は、先ほど妻に夜番をさせないと」
「そこを守るのか」
「勤務条件は重要です」
ルカーシュの肩が震えた。
煙を吸ったのかと顔を覗き込む。
次の瞬間、彼は声を上げて笑った。
短く噴き出し、止めようとして失敗し、包帯の手で顔を覆う。眉間の皺が消えている。使用人たちはイングリッドと、初めて見る主人の笑顔を交互に見た。
「侯爵様、煙が?」
「違う。君だ」
「私から煙が出ていますか?」
さらに大きな笑いが返ってきた。
何がそんなに可笑しいのか。火を消した直後である。笑う場面の選定が壊れている。だが、ずっと不機嫌そうだった顔がくしゃりと崩れると、こちらの口元まで勝手に持ち上がった。
困る。無愛想な侯爵より、よく笑う侯爵のほうが管理項目が増える。食事、睡眠、包帯、人数確認、そして笑う回数。忙しい!
「分かった」
ルカーシュは笑いの残る声で言った。
「まず、その二本を預ける。返したければ返せ」
「期限は?」
「君が返さず持っている間、私は求婚中だ」
「鍵の長期貸与記録が必要ですね」
「好きなだけ記録しろ。蜜蝋にも残せ」
イングリッドは二本を握った。
「では、控えを取るまでお預かりします」
「返す気のない人の言い方ですな」
モーリスが言い、使用人たちがどっと笑った。
ルカーシュもまた笑う。
二本の鍵は、イングリッドの掌に残った。
* * *
傷を洗える水が、桶に二杯用意された。
イングリッドが指を洗い終えるまで、ルカーシュも向かいの椅子から動かなかった。彼の火傷には軟膏が塗られ、包帯は今度こそ真っ直ぐ三周している。
温かいスープとパンが出た。
「全部食べるまで見張る」とルカーシュが言ったため、イングリッドも「侯爵様が全部食べるまで帰しません」と返した。結果、二人とも完食した。実に効率がいい。
鍵の掛かる私室へ戻る。
寝台へ横になったところまでは覚えている。次に目を開けたとき、窓から朝日が入っていた。
三度寝どころか、一度も起きていない。
イングリッドは寝台の上で数え直した。食事三回。水二杯。寝台一つ。鍵の掛かる部屋一つ。預かった鍵、二本。
最後の二本だけは、枕元にあった。
作業室で蜜蝋を温める。
屋敷玄関の大鍵を、傾かないよう真っ直ぐ押す。山と谷を確かめ、隣へ私室の細身の鍵を押した。
二本とも、歯型は綺麗に残った。
イングリッドは二枚の蜜蝋を布で包み、控え箱の最上段へ並べた。箱の蓋を閉じたところで、モーリスが入ってくる。
「お返事はお決まりですか」
「火災後の勤務についてですか?」
「求婚についてです」
「そんなことは言っていません」
扉にもたれていたルカーシュが笑った。
「鍵は返していないな」
「控えを取ったばかりです」
「二本とも?」
「紛失へ備えるのは錠前師の務めです」
「私室の鍵も、これからずっと?」
イングリッドは控え箱を両腕で抱えた。
「返事はまだです」
「鍵は返していないな」
「……それとこれとは、別件では?」




