かまいたちの谷
朝のギルドは、いつもより少しだけ賑やかだった。
人の数は変わらない。
だが、空気が軽い。
ヒナタは依頼板の前に立ち、紙を流していく。
討伐。
警戒。
護衛。
指が止まる。
卵の回収。
対象生物:指定なし。
条件:持ち帰りのみ。
「……楽そうだな」
呟くと、後ろから声がした。
「楽、ではないぞ」
振り向く。
年配の冒険者。
装備は軽いが、使い込まれている。
「卵そのものはな」
男は続ける。
「岩陰に転がってるだけだ」
「取るだけなら、誰でもできる」
ヒナタが眉を上げる。
「なら、なんで残ってる」
男が肩をすくめた。
「そこに行くまでが、通れん」
少し声を落とす。
「谷だ」
「風が出る」
「刃みたいな風だ」
ステラが、静かに反応する。
「……かまいたち、ですね」
「そう呼ばれてるな」
男は頷く。
「少し前からだ」
「踏み込んだ瞬間、切られる」
「深くはないが、数が多い」
腕を示す。
古い傷。
浅い切り口が、何本も残っている。
「奥までは行けん」
「だが、鳥自体は強くない」
「卵も、守ってない」
ヒナタが腕を組む。
「……行けさえすりゃ、終わりか」
「そうだ」
ヒナタは、もう一度依頼票を見る。
討伐対象:なし。
セレネが小さく言う。
「戦闘、ではありませんね」
「だな」
ヒナタが息を吐く。
「……一回、見てみるか」
軽い言い方。
だが。
谷。
風。
刃。
ミドは、黙って依頼票を見ていた。
そこに書かれていない“面倒さ”を、
もう、想像している顔だった。
谷の手前で、ヒナタが足を止めた。
「……この辺りからだな」
言葉より先に、空気が違う。
音が、ない。
風は吹いているはずなのに、肌に当たる感触が読めない。
一歩。
――ひり、と。
頬に、細い痛み。
次の瞬間。
ぱっと赤が浮く。
「……っ」
ヒナタが、即座に足を止めた。
切り傷。
深くはない。
だが。
数が多い。
空気そのものが、刃になっている。
「……まずいな」
ヒナタが振り返る。
「ミド、ここで待て」
即断。
「何かあったら困る」
視線が、ステラにも向く。
「ステラもだ」
「……分かりました」
反論はない。
セレネに視線が向く。
「え……私、ですか」
少し戸惑った顔。
「他にないだろ」
ヒナタが短く言う。
「走る」
「防御、全開」
「治癒も混ぜろ」
「止まらない」
セレネは一瞬だけ目を瞬かせて。
深く頷いた。
「……はい」
光が重なる。
まず、ヒナタ。
次に、セレネ自身。
防御。
治癒。
重ねがけ。
「行くぞ」
踏み出す。
同時に、走る。
風が、来る。
切れる感覚。
だが。
痛みは、浅い。
すぐ、消える。
治癒が追いつく。
それでも。
息が詰まる。
皮膚が、じりじりする。
セレネの呼吸が、次第に荒くなる。
それでも、止まらない。
走る。
走る。
そして。
風が、抜けた。
空気が、軽くなる。
二人は、ほとんど同時に足を止めた。
セレネが、膝に手をつく。
「……は、……っ」
顔色が、少し白い。
「大丈夫か」
「……はい」
だが、余裕はない。
少し歩く。
岩場。
谷の奥。
岩陰。
そこに。
卵。
確かに、転がっている。
「……本当に、取るだけだな」
ヒナタが拾い上げる。
重さも、普通。
「よし」
振り返る。
「戻るぞ」
セレネが、わずかに目を見開いた。
「……もう一回、ですか」
「当たり前だろ」
苦笑。
光。
再び、重なる。
防御。
治癒。
全開。
走る。
また、風。
また、刃。
今度は、脚が重い。
息が、苦しい。
それでも。
止まらない。
ようやく。
ミドとステラの姿が見える。
境界。
風が、消える。
セレネが、その場に座り込んだ。
「……つ、疲れました……」
額に汗。
息が、整わない。
「少し、休むか」
ヒナタが言う。
「帰るのは、そのあとだ」
セレネは、黙って頷いた。
谷の風は、まだ奥で唸っている。
だが。
ここまでは、届かない。
四人は、しばらくその場で休むことにした。




