メッキは剥がれる
自分の保身のためにとった行動を、
優しさなんて呼ばない方がいいよ。
そう言いたくなる場面が、最近やけに増えた。
人はよく、
自分の選んだ“逃げ”にきれいな名前をつけたがる。
誰かを傷つけたくなかったから、とか。
空気を悪くしたくなかったから、とか。
けれど、そのほとんどは結局、
自分が悪者に見られたくなかっただけだ。
自分の立場が揺らぐのが怖かっただけだ。
それを「優しさ」で包んでしまうと、
真実がどこまでも曖昧になる。
優しさは、そんな都合のいい言葉じゃない。
本当に優しい人は、嫌われる可能性があっても、
目をそらさずに言うべきことを言う。
状況が不利になっても、
見捨ててはいけない人を見捨てない。
誰かのために動くということは、
いつだって自分が傷つく可能性を含んでいる。
だからこそ、保身で動いた人間が
「私は優しくしたつもり」
と言うのを見ると、胸の中に冷たいものが沈んでいく。
その言葉は、相手を守ったように見せかけて、
実は自分しか守っていない。
傷つかない位置から手を振っただけで、
助けたつもりになっている。
結局、それは自己中心の延長でしかない。
相手を思っているように見えて、
自分の好感度や立ち位置を守ることの方が優先されている。
その偽りのやさしさが、
どれだけ人を惑わせるかも知らないまま。
たぶん、人はみんな善人でいたいのだ。
誰かの痛みを無視したくなかった、と言える自分でいたい。
でも、行動の理由が“自分が楽だから”だったなら、
それは優しさではなく、逃避だ。
私はそんな人を見ると、
「あなたが自分を守っただけなのは、
誰よりもあなたが一番よく知っているでしょ?」
と思う。
本当のことから目をそらしているのは、
相手でも世界でもなく、
自分自身だ。
優しさという言葉を簡単に使うほど、
その重さは軽くなっていく。
そして軽くなったその言葉は、誰かの心には届かない。
ただ空中を漂って、何も残さない。
もしも本当に誰かを思って行動したのなら、
それはきっと誰に説明しなくても伝わる。
だから私は、
自分の保身を“良い行い”にすり替える人間を見るたび、
心の中でそっと線を引くのだ。
優しさは、自分のためにつくる飾りじゃない。
それを履き違えている人が多すぎる。




