産婦人科医師による未知の出産
帰宅して数時間が経過すると、陣痛の痛みが強くなってきた。
最初は重い生理痛程度だった痛みが波のように押し寄せ、ピーク時には思わず息を止めてしまうほどになった。
和人が帰宅しないまま陣痛は進み、数時間前まで勤務していた職場へとタクシーで向かったのが、つい先ほどのこと。
「ふうっ、ふうっ……ん!はぁはぁ、痛い」
痛みの波が来るたびに、呼吸法を意識する。
産婦人科医として妊婦へ指導してきた呼吸法を、今自分自身が実践している。
この痛みが赤ちゃんを産道へと押し出す力になっているのだと頭では分かっているのに、体の痛みは知識だけではどうにもならない。
「ふぅンっ、ん、ふぅ!ふぅーんっ!んっ、ん、痛いよぉ……」
「大丈夫ですよ、先生。赤ちゃん、順調に降りてきてますよ」
思わず呻き声が漏れる中、傍についていてくれる助産師が腰をさすってくれた。
その声に励まされ、痛みの波を乗り越える。
「先生、痛いなら遠慮なく声出してくださいね。我慢しなくていいんですよ」
「ありがとうございます……」
助産師の言葉に、優香はハッとした。自分は今、医師ではなく一人の妊婦なんだと。
痛みと戦っているただの女性であり、お産のプロとして冷静に振る舞おうとしていたが、そんな必要はないのだと気づく。
しばらくすると、和人が駆けつけてきた。息を切らしていて、額には汗が滲んでいる。
「優香、ごめん!」
和人は優香の手を握り、その額の汗を拭ってくれた。
「無理させちゃったね。急にごめん」
「何言ってるんだよ。気にしないで。それより、辛いな……もう、かなり痛そうだね」
和人の顔を見て、優香は張り詰めていた気持ちが少し緩むのを感じた。
「結構痛いのよ……ううっ、ふうっ!ふうっ……」
痛みの波が再び押し寄せてきて、優香は和人の手を強く握りしめた。
痛みに耐える優香の傍で和人は何も言わず、ただ優香の手を握り続け背中をさすってくれた。
やがて実母も到着すると、母は落ち着いた様子で優香の状態を確認し、看護師や和人と簡単な情報共有をした。
「頑張ってるわね、優香」
母は優香の顔を見て、優しい笑顔を見せた。
「お母さん……急にごめんね」
「親は何歳になっても頼るものよ。さあ、ここからはお母さんも医師として、あなたのお母さんとして、しっかりサポートさせてもらうわ」
心強い言葉に、優香は勇気をもらった。
痛みの波は容赦なく優香を襲ってきて、そのたびに優香は呻き、呼吸を整え、痛みに耐えた。
しかし、痛みの合間には、お腹の子に会えることへの期待が膨らんでいく。
お腹の子も、きっと頑張ってくれているはずだ。
医師として出産のリスクや合併症についても理解しているからこそ、不安がないわけではない。
しかし、それ以上に、新しい命を迎える喜びが勝っていた。
陣痛は優香を母へと変えていくプロセスであり、痛みを通して、今まで知らなかった自分の体の力強さや生命の神秘を実感していた。
「ああっ………ぁぁ痛いっ!いたぁぁ!ん………んんぅ!」
再び痛みの波が来ると優香は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
陣痛はゴールが近いことを知らせてくれているサインなのであり、その全てを受け入れ、優香は出産という大仕事に立ち向かおうとしていた。
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陣痛は容赦なく優香を襲い続け、波のように押し寄せ、ピーク時には全身が硬直するほどの痛みが走る。和人が優香の手を強く握り、母は優香の腰をさすってくれた。
「大丈夫、優香。上手だよ。深呼吸、深呼吸!」
「ふぅーっ、ん……んぅ!はぁーっ!ああっ………ぁぁ痛いっ!いたぁぁ!ん………んんぅ!」
「辛すぎるなら、一度座る体勢になってもいいと思うわよ」
母の落ち着いた声が、激しい痛みの最中に優香を支える。
「ふうっ……んんん!ふうっ、痛いっ!」
痛みの波が引くと、ぐったりと体の力が抜ける。
助産師による内診だけではなく、時に夫や母親も状態確認のために膣内へ指を差し入れてくる。優香はその度に痛みに涙を流した。
「全開になりそうですね。先生、そろそろ分娩室に移動しましょうか」
「ちょっと待って、痛いの来てるから……今はムリっ」
そして痛みをやりすごしたあと、優香は和人と母に支えられながらゆっくりと立ち上がって分娩室へと向かった。
廊下を歩く間も陣痛は襲い、歩くことで痛みは強くなることを知っていることで、痛みに対する恐怖が増してゆく。
同時に陣痛が進んでいる証拠だと頭の片隅で冷静に考えていた。
分娩室は様々な機材が揃っている、普段も仕事で見ている風景だが、自分が出産する身としてそこにいるのは、やはり不思議な感覚だ。
分娩台に上がりモニターをつけ直すと、赤ちゃんの心音が聞こえて安心する。
今日はお産が続いているらしく、先ほどから周囲がバタバタしているのが気になっていた。
陣痛の合間に優香は助産師に尋ねた。
「今日、出産する人多いのかしら?」
「昨晩から続々と。だって満月ですから」
「そっか……」
「先生には力強い存在がいてくれて安心ですね。何かあったら呼んでください」
とはいえ、母も夫も、そして優香も今の慌ただしさはとても理解できているし、少しの変化でいちいち声をかけることなどできなかった。
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