初めての悪阻、医師としての自分
その後、優香の日常は一変した。
妊婦としての体の変化と、産婦人科医としての仕事という、その両立は想像以上に大変だった。
まず、つわりだ。かつて教科書で学び、診察時も散々説明してきた症状が、自分自身の体に起きている。朝起きた時のムカムカ感。特定の匂いへの嫌悪。今まで大好きだったコーヒーの香りが駄目になり、代わりに妙にポテトチップスが無性に食べたくなったりする。
診察中、患者さんの前ではプロとして冷静に振る舞わなければならないし、そんな体の変化は不思議でたまらなかった。
診察に来た妊婦たちにつわりの辛さや乗り越え方をアドバイスするが、その言葉は以前と同じはずなのに、今は自分自身の体験に基づいている。
「初期は本当に辛い時期ですよね。食べられるものを少しずつ口にするようにしてください。水分だけはしっかり摂ってください」
優香はそう説明しながら、自身の胃のむかつきを必死で抑えるが、休憩時間になるとトイレに駆け込んで吐いてしまうこともしょっちゅうだった。
職場に妊娠を伝えるタイミングも悩ましかった。
まだ初期であり何があるか分からないし、安定期に入るまではできるだけ自分の中の秘密にしておきたい。
だが、体調の変化は隠しきれない時もあるのだ。
ある日、外来中に急な吐き気に襲われ、診察室を飛び出してしまった。そしてすぐに気づいたのは、同じ職場の看護師長だった。
「優香先生、大丈夫?顔色悪いわよ」
「いえ大丈夫……ちょっと最近、胃の調子が良くなくて」
苦しい言い訳をする優香に、看護師長は心配そうな目を向けた。彼女は長年、この病院で働いているベテランであり、たくさんの妊婦や医師を見てきた彼女なら、もしかしたら気づいているのかもしれない。
「先生、最近無理してるでしょ。少し休んだ方がいいんじゃない?」
その言葉に、優香は胸が締め付けられる思いがした。本当は少しでも体を休めたいのだが、患者さんのことを考えると、簡単に休むわけにはいかない。
和人は優香の体調を気遣い、家事を積極的に手伝ってくれていた。
夕食の準備、洗濯、部屋の片付け。疲れて帰ってきた優香が何も言わなくても、彼は当たり前のようにこなしてくれた。
「無理しなくていいからね。辛い時は、ちゃんと辛いって言って」
一人で抱え込まずに済む安心感。それは、同じ医師として、そして夫として、優香の心強い支えだった。
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ある週末のこと。
和人と二人で過ごしている時、優香は妊娠についての不安を打ち明けた。
「私、ずっと生理不順で、排卵も不安定だったから、正直、妊娠は諦めかけてたの。だから今回の妊娠はすごく嬉しいんだけど、ちゃんとこのまま育ってくれるかなって、不安もあるんだよね」
「優香はこれまで、たくさんの命の誕生に立ち会ってきたじゃないか。自分の体を信じようよ。出産までに起こることの大体がどうしようもできないことだってことは、優香も知ってるでしょ」
和人の言葉は優香の心に温かい光を灯し、自分は産婦人科医なのだと改めて自覚した。
自分たち夫婦はこの道のプロのはずであり、自分の体を信じてこの命を大切に育てていけばいい。
妊婦健診は勤務する病院で受けており、知り合いの医師に診てもらうのは少し気恥ずかしかったが、何かあった時にすぐに相談できる安心感もあった。
エコーで成長していく我が子の姿を見るたびに感動と愛情が湧き上がってくるし、モニターに映る小さな体や手足をバタつかせる仕草は愛おしくてたまらない。
医師としての知識では分かっていたことだが、それが自分の子宮の中にいる命だと思うと、感情の深さが全く違った。
「赤ちゃん、順調に育ってますね。元気に動いてますよ」
担当の医師がそう言うのを聞きながら、優香は涙ぐんでしまった。
医師として冷静であるべきなのに、一人の妊婦として感動を抑えきれなかったのだ。
妊娠中期に入ると、つわりは落ち着き、体調も安定してきた。お腹も少しずつ大きくなり始め、妊婦らしい体形になってきて、仕事中に白衣を着ていてもお腹の膨らみは隠せなくなってきた。
そして意を決して、優香は職場の同僚たちに妊娠を報告した。
驚きの声と共に祝福の言葉をたくさんもらい、特に看護師長は自分のことのように喜んでくれた。
「優香先生、おめでとう!やっぱりね、気づいてたのよ。前々から顔色が悪かったり急に席を立ったりしてたから、心配してたのよ」
看護師長の言葉に優香は苦笑いするしかなかなく、やはり看護師の目はごまかせなかったらしい。
そんな温かい言葉に優香は心から感謝し、この職場で働いてきてよかったと改めて思った。
妊娠を公表したことで、仕事の調整も始まった。
夜勤やオンコール業務は免除され、外来や病棟業務も体調に合わせて調整してもらえることになったし、周りのサポートのおかげで優香は安心して仕事に取り組むことができた。
産婦人科医としてたくさんの妊婦を見てきた優香は、自分自身の妊娠を通して、今までとは違う視点を持つようになっていた。
例えば体重が増えすぎてしまった妊婦への指導も、今は食欲がコントロールできない辛さや、体重増加への不安など、気持ちに寄り添って話を聞くことができるようになったと思う。
「体重管理、大変ですよね。私も、つわりが終わってから食欲が止まらなくて。でもお腹の赤ちゃんのためだと思って、一緒に頑張りましょうね」
目の前にいる妊婦医師の話を聞くことで、患者さんは安心してくれて、自分の経験が患者さんの役に立つ。そのことに、優香は大きな喜びを感じていた。
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妊娠後期に入り、優香のお腹はさらに大きくなった。
胎動も激しくなり、お腹の中で赤ちゃんが元気いっぱいに動いているのが分かるようになると、出産への期待と同時に陣痛や出産への不安も高まってきた。
産婦人科医として、分娩のメカニズムは熟知している。
それでも、自分がその痛みを経験することになるのかと思うと、少し怖くなった。
ある夜、優香は和人に不安な気持ちを打ち明けた。
「私、ちゃんと出産できるかな?医者なのに、ちょっと怖いんだ」
「大丈夫。優香は、たくさんの赤ちゃんを取り上げてきたじゃないか。その経験が、きっと優香自身の出産につながるよ。それに僕がずっと傍にいるし、出産は僕に任せてよ」
「最初からそのつもりでいるわよ」
和人は優香を抱き寄せ、お腹を優しく撫でながら言った。
同じく産婦人科医である夫の言葉に、優香は万が一の際は全てを任せようと思った。
出産予定日が近づく中、優香は勤務時間を減らしつつ勤務に入っていた。
優香にとって、自身の出産は力強い存在が揃っている。
自分と同じ産婦人科医の夫、それから実母だって万が一の際は我が子を受け止めてくれるだろう。
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