不退転の気迫
翌朝遅く起きた武盛は朝食を済ませたあと、炭焼き小屋から着てきた古い着物に着替えて外へ出た。
長宗我部軍が進軍する道は、昨日城まで辿った川沿いの道の他に無いと聞き、丁寧に見て回った。
城のある山を下り、川沿いの道を下流に向かいに歩いた。常に周りの地形や森の様子を観察し、時には川辺から山の方に登り、時には林の中まで分け入り持参した紙に何やら書き込んだ。武盛は子孫に言われて川原の小石を10個ほど懐に入れて城へ戻った。
日暮れ近くに戻ると武盛は、景成に時間を割いてもらい、景成が考える長宗我部軍の攻め方、本村軍の応戦の仕方を詳細に聞き取った。
景成も城に籠って敵の攻撃を耐え忍ぶ戦いより、味方に優位な場所に誘い込んで戦いたいと考えていた。
しかし優位に戦い敵を全滅させたとしても、こちらが相応の消耗をすれば勝ちとは言えない。本村軍は戦に勝ち、尚且つ最低でも200や300名の兵が残る戦いが必要だと言う。
なぜなら敵には僅かながら本村城に残す兵がいるし、必要があれば援軍の派兵も可能だ。故に景成の思い描く戦では本村軍が勝つ未来は見えなかった。
夕食を済ませてから、夜遅くまで子孫は武盛と検討を重ねた。武盛が何枚かの絵を書き、その上に川原で拾ってきた小石を配置し、小石を戦闘部隊に見立てて動かしながら策を練った。と言うより子孫が一人で作戦を練り上げ、同時に武盛に覚えさせたと言う方が正しかった。
翌日武盛は朝食を済ませると再度景成に時間を貰い、練りあがった策を説明した。
しかしこの策の第一歩、前提から躓いた。
「まず兵を、槍兵2部隊、弓兵2部隊、騎馬兵1部隊の合計5部隊に分けます」
と武盛が話し始めたところで景成が口を挟んだ。
「あいや武盛殿、兵とは各々の武将に仕える家来であり、それに集められた農民などを加えた構成となっておる。それを家来を含めて編成し直すとなれば、武将達から家来を取り上げることになり、皆が承知しようか」
この時代の用兵の考え方を景成が説明してくれた。それでは計画が成り立たなくなるので、武盛は子孫に助言を求めた。子孫は総大将からの上意下達を以て解決する案を提示した。
少しの間うつむいた武盛が顔を上げて景成に問いかけた。
「この度の合戦の総大将は誰になりましょうや」
「おそらくは、若君の寛茂様であろう」
「それでは寛茂様からの下達としていただくようお願いしましょう」
不承不承ながらも景成は武盛が話す策を最後まで聞いてくた。
そして少し困ったようにも見える表情で、こう感想を述べた。
「聞き始めは奇策と思っていたが、聞き終えた今は我々が選べる唯一の正攻法に思える。早速寛茂様にお目通り願い聞いて貰おう。但し兵の編成について武将たちの理解が得られるかどうか請け負いかねるが」
午の刻(昼12時)をまわったころ二人は寛茂を訪ね、武盛の策を説明した。話を始めた一言目から少しでも深意を理解しようと真剣に聞いてくれていた。
最後に付け加えた兵の再編成についても、当然という表情をするだけだった。説明を聞き終えたあと、寛茂が静かに話しをした。
「儂は、この策を以て長宗我部軍を迎え撃とうと思う。追い詰められたいま、敵兵を900減らそうとも味方の兵を800失えば敗北なのだ。だから必要なのは善戦ではなく、完全なる勝利なのだ。言い換えれば完全なる勝利に至らぬ論議は無用なのだ。しかし自ら満足できる道筋を描くことがどうしても出来なかった。この策に命運を懸けることにする。父上に上申して、明日軍議を開き皆に周知しよう」
「では、この策を若様からお示しいただけましょうか。武盛殿は拙者の客将であり、軍議の場に出ては他の方々からの異議もあろうかと存じます」
そう景成から寛茂へ打診した。
「武盛がそれで良ければそうしよう」
武盛に異存は無く、その夜寛茂に策の説明を繰り返し行った。寛茂が時折挟む質問は真摯に取り組む気構えに溢れていた。そして子の刻(深夜0時)を過ぎるころには、自分の言葉で策の全体を語れるようになっていた。
翌日開かれた軍議の結果は予想通りであった。長宗我部軍迎撃の総大将に寛茂が任命された。寛茂から出された策以外に有効な選択肢は無かった。兵の編成について武将達から不満が噴出したが、『それでは代替案を』と求められても彼等に返す言葉が無かった。寛茂の発する不退転の気迫が全てを収めた。
軍議の様子を見守っていた茂長は複雑な思いでいた。
土佐の山間の領主だった本村氏が、勢力を増大させ平野部の浅井城に進出し、土佐一とも言われる存在になったのは父の功績だった。それが自分の代になると戦に負け、国人たちの離反に会い、山間の領地に退却し、その居城も攻め落とされ、遂には存亡を賭けた決戦にまで追い込まれている。後世の人達に暗君と揶揄されても、甘んじて受け止めなければならい立場である。
そんな茂長が今できることは手負いの自分に代わって、存亡をかけた決戦に挑もうとする息子寛茂に負けても悔いが残らぬよう、思い通りの戦いをさせてやることだけだった。
茂長が全てを承認して軍議が終わった。
武将達は各々に振り分けられた役割を全うするための準備作業に取り掛かった。
兵の編成に不満を申し立てた武将達も、自分の得意分野に特化した部隊を受け持ってみると、満更でもないと感じていた。また、武将から的確な指導を受ける兵達も、めきめきと技能を高めていった。限られた期間での作業だったが、集中して準備を進めた本村軍は生まれ変った。
景成は、長宗我部軍が本村城を占拠してから、城下を制圧し、城を整備し、人員と物資を補充するまでの期間を30日と見積もった。
長宗我部軍は領地の北側で対峙する本村軍を早期に屈服させる必要があった。それは東側と西側の両面で長宗我部軍の隙を狙う別の勢力に備えるため、ここの兵員をそれらの地域へ振り分けたいのだ。よって準備が整えば直ちに侵攻すると考えられ、本村城放棄の30日後が長宗我部軍侵攻予想日であった。
本村城下にいる密偵から、長宗我部軍が軍備を整え本村城に集結しているとの連絡が入ったのは、本村城放棄から32日目だった。
「いよいよ明日か」
本村軍の全員が覚悟を決めた。10日前なら動揺し不安に怯えたところだろうが、覚悟を決めるだけの準備ができていた。
本村軍が本村城を放棄してから33日目の早朝、総勢980名の長宗我部軍が本村城から瓜山城に向け進行を始めた。総大将は猛将と名高い江森嘉興が任されていた。
長宗我部軍は大きな川沿いの街道を西に進んだ。1刻半(3時間)後に、この大きな川に流れ込む支流のひとつまで来た。ここで進路を北へ変え瓜山城へ向けて軍を進めた。
巳の刻(午前10時)を半刻(1時間)過ぎたころ、瓜山の二つ手前の山に差し掛かっていた。ここは大昔に山崩れでもあったのか、山が東側に20間(36m)も張り出し、それは上流に向かって50間(90m)続いていた。山の張り出しの裾は川に浸食され、山肌は急峻な崖となっていた。
隊の先頭がこの張り出しを抜けようとした時、突然空から瓜程の大きさの石が50個降り注いだ。それは次から次から間断なく降り注ぎ、わずかの間にその数は1000にものぼった。
慌てて川に入り対岸に逃れようとする者、いま来た道を引き返そうとする者、隊の先頭は大混乱となった。石が落ちてきた場所から兵が離れると、今度はこぶし大の石が飛んできた。