地の利は我が方にあり
翌朝、まだ部落が起き出す前に武盛は出発して炭焼き小屋に戻った。この段階で許嫁の乃亜やその兄直隆に、合わせる顔が無かったのだ。
小屋に戻ると武盛は高重に景成から誘いがあったことを打ち明けた。そして昨日部落で父と話し合った内容を説明した上で、この小屋を出て本村氏に参加することを伝えた。高重は黙って頷いた。
翌日、荷物をまとめて身支度をした武盛は、迎えに来た景成と一緒に小屋を出た。
二人は西に向かう街道を経て、途中から山合へ分け入る川沿いの道へと進路を取った。昼を大きく回ったころ瓜山の麓まで来た。そこから急な坂道を昇り漸く瓜山城が見えてきた。それは城と言うより砦であった。城壁は丸太を並べて立てただけのもので、高さも2間(3.6m)ほどしかない。敵に攻められれば守り切る事は難しいと思われた。
瓜山城に着くと、まず山崎景成の屋敷に入った。用意してくれた装束を女人の手を借りて着替え、髪を整えると、そのまま本村茂長の御前に連れて行かれた。
城に戻った茂長は本村氏統領の威厳を取り戻していた。茂長の前に進みひれ伏すと、景成は武盛が拝謁する経緯を説明した上で、武盛に挨拶をするよう促した。
「山崎殿の誘いにより馳せ参じました島田武盛で御座います。若輩者ゆえご指導のほどお願い申し上げます」
武盛は文字通りの若輩者であり、流暢な挨拶をするより実直に誠意が伝わるようにと心掛けた。
「面を上げるが良い武盛、そなたは恩人じゃ、改めて礼を言うぞ」
「ははっ、殿のお役に立て幸甚に存じます。その後のお加減は如何で御座いましょうか」
武盛は伏せた体を起こしながら茂長の様子に目をやった。
「これほどの傷を負い、命を取り留めた者を見たことが無いと、城中の評判ぞ。傷口の化膿が収まらぬなど、まだ全快とはいかぬが日々快方に向かっておる」
「それは何よりで御座います」
「後ほど宴席の場で配下の者と顔合わせをするゆえ、それまで下がって休むが良い」
「ははっ~」
二人は再度床に両手をつき深く頭を下げ、その場を辞すと山崎の屋敷へ戻った。
屋敷に戻ると景成は、真っ先に
「武盛殿は苗字をお持ちなのか」
と聞いて来た。この時代に苗字を持つものはそれなりに身分のあるものに限られていたのだ。
「先祖より受け継いでいる苗字ですが、これまでそれを名乗るような相手がおりませんでした」
景成は頭の中で『なるほど平家の家臣ならば苗字を持っていても不思議はない』と考え納得した。
次いで本村氏が置かれている状況を説明してくれた。それによると、
本村茂長は41歳、正室のひさは敵対している長宗我部元頼の姉であり、嫡男に21歳の寛茂がいる。
かつて土佐の国で有力な七雄に数えられた本村氏は、他の有力豪族との争いを経て徐々に勢力を拡大し、一時は南の平野部にまで領地を広げた。平野部の東地域を支配する長宗我部氏との争いは避けられず、幾度となく抗争を繰り返してきた。
その平野部で4年前に行われた長宗我部氏との合戦に於いて、攻め込んできた長宗我部軍千名に対して、本村軍は二千五百名の兵で応戦した。合戦の序盤は互角に渡り合えたが、やがて敵の騎馬兵が縦横無尽に暴れまわると、味方の武将が次々と倒されていった。遂には長宗我部軍に押され本村軍の陣形が崩れると、戦場から敗走し近くの城に逃げ込んだ。
しかし、この合戦の後本村氏の勢力は徐々に衰え、配下の国人たちの離反も起きた。遂には平野部の居城であった浅井城から撤退をせざるを得なくなり、元々の居城である本村城に戻ることとなった。
過日その本村城も長宗我部軍に攻め込まれ、応戦するも守り切れず、城を捨て支城であるこの瓜山城に撤退することになった。茂長様と共に瓜山城に向かう途中で本隊とはぐれ、山中で追手と遭遇し斬り合いのすえ敵を殲滅するも、新八以外の味方を失い、更に茂長様まで傷を負ってしまった。
幸い小屋から上る煙が見え、武盛の小屋に辿り着いた。武盛の働きで茂長様は命を取り留め、瓜山城に戻る事が出来た。しかし戦が終わったわけではない。長宗我部軍は半月以内にも今いる城を攻めるものと思われ、それに耐えうる備えがあるとは言い難い状況にある。現在本村軍の戦力は約八百名であり、本村領内に攻め込んでいる長宗我部軍の戦力は約千名である。
概ねこのような内容であった。
「おい子孫、敵は強い上に数でも上回っている。俺たちは絶体絶命ではないか。この城に千を超える長宗我部軍が攻め込んで来たら、全員討ち死にするしかあるまい」
「諦めるのはまだ早い、やるべき事は、敵とどう戦うかを考え、その為にどんな仕度をするかだ。あとは時の運、運は天に任せるものさ」
久杜は戦国時代を舞台とした歴史シュミレーションゲームで、信長を選択して無敵の強さで天下統一するよりも、境遇に恵まれない蝦夷地の蠣崎季広を選択して天下統一を目指すことに喜びを感じるタイプの人間であり、この限りなく不利な状況にいることを、どこか楽しんでいた。
夕方になって二人は宴席の場へ向かった。会場は板張りで二十畳程の広さがあり、正面に茂長のものと思われる膳があり、左右に4膳ずつ向かい合った膳が並んでいた。宴席は茂長の快気祝いという名目だったので、功労のあった武盛は茂長の座る上座に一番近い席だった。同じく上座に近い向かいの席には嫡男の寛茂が座った。寛茂の隣に黒石政紀、その隣に高窪久彦、その隣に河井達之が座った。武盛の隣に山崎景成、その隣に沢崎鞆繁、その隣に吉村忠臣が座った。
茂長が席に着き宴席が始まると、景成が本村傘下の武将を一人ずつ紹介し、最後に武盛を殿の窮地を救った功労者であり、景成の客将であると紹介した。武盛は茂長に拝謁したときと同様に挨拶をした。
宴会の始めは、茂長の無事を祝う話が飛び交い和やかに進んだ。四半刻(三十分)経つと茂長が体調を気遣い、大事を取って中座した。
やがて酒が程よく回り普段は口に出せない思いが漏れ出してきた。長宗我部軍はいつ攻め込んで来るのか、どう撃退すれば良いのか、次は耐えきれるのか、話は明るい方に進みそうになかった。寛茂は毅然とした面構えで座っていたが、嫡男という立場でありながら皆の不安を払拭する手立てを示せないという、申し訳なさが見え隠れしていた。
黒石政紀が矛先を武盛に向けた。
「武盛殿、殿の命を救える貴殿の英知を以て、この窮地を凌ぐ方策を示唆していただけぬものか」
政紀は最古参の武将であり、茂長が中座したこの場で誰憚ることが無かったのだ。このところ手柄を挙げている山崎景成に対する牽制とも、もどかしい思いを持て余す寛茂に当て付けたとも受け取れる言動であった。
問われた武盛は酒を飲むのが初めてで、僅かな量の酒で酩酊していた。景成は慌てて遮ろうと言葉を探したが先に武盛の口が開いた。
「拙者が思うに地の利は我が方にあります」
もちろん子孫が武盛に代わって答えたのである。政紀は、問いを重ねてきた。
「どうすれば地の利を生かせましょぞ」
「高さが20間(36m)ある崖の上と下に、弓兵が対峙するとき、どちらに分が有りましょうや」
子孫がそう問い返した。
「崖下から20間上に矢を射っても容易に鎧は貫けまい」
口を挟んだのは、弓の名手を自負する沢崎鞆繁であった。
「とすれば待ち受ける我々は崖の上に陣取るとよろしいかと」
子孫の口調は堂々としていた。
「そんな都合の良い場所があるなら是非ともお示しいただけぬか」
政紀がもう一押ししてきた。
「どこに地の利があるか、慧眼の皆様方に探せぬ筈が有りますまい」
と子孫が押し返した。誰かの独り言が聞こえた。
「俄かには思いつかぬが、でも確かに・・・」
武盛の向かいに座った寛茂は刮目してこのやり取りを見守っていた。黒石と渡り合い一歩も引かぬその姿に驚きを覚えると共に、何か活路を開いてくれるのではないかと願った。
その場を支配していた暗い見通しに一条の光が差した。政紀を含め誰もがそう思った。八方塞がりの重い空気は、なんとかなるかも知れない、いやなんとかしてやる、そんな前向きな空気に変わって宴席は終えた。