吉良城開城
武盛と寛茂が吉良領から先に攻めると決めた話し合いの7日後に、吉村忠臣が率いる800名の兵が吉良領に侵攻した。予想通り吉良軍の兵400名は、城下の集落から少し離れた山の頂上にある吉良城に集結し、籠城戦の構えを取った。
しかし、本村軍は吉良城には目もくれず、城下の集落で暮らす領民を強制的に立ち退かせ始めた。家財道具を荷車に積み、浅井城下に向けて連れ去った。それは毎日続き、連れ去られるのを嫌がり夜中に逃げ出す領民も出たため、3日ほどで吉良城下の住民はいなくなった。そこで4日目からは近隣の農家を立ち退かせ始めた。
毎日領民が連れて行かれる様子は吉良城からも確認できた。本村軍は昼過ぎには去っていくので、人を出して城下の様子を探ると、吉良城下に人の気配が無くなっていくのが確認できた。
吉良城内では連日協議がおこなわれたが、有効な結論を出せないまま日々が過ぎて行った。
10日経ち、既に領民が300人も連れ去られたころ、国人たちの腹の中には、
『元々は吉良氏が治めてきた領地なのに、後継争いに付け込んで長宗我部氏が送り込んできた女婿(むすめむこ)領主だ。長宗我部の領主と心中はしたくない』
そんな思いが頭を擡げてきた。
「このまま籠城を続けると、安芸領の領民が居なくなってしまう」
「今の戦力で戦を挑んでも勝ち目はない」
「戦えないのなら、降伏すべきではないか」
国人たちの圧力を受け、兄長宗我部元親の後ろ盾も無くなった吉良親貞は、ついに降伏する決断に至り、城を開き降伏した。親貞が捕らえられ、浅井城に送られた。
親貞は元親の弟であり、当然ながら本村茂長の正室ひさの弟でもあった。その関係で隠居を条件に処罰を免れて、家族と共に本村城下に移された。
本村軍に制圧された、旧吉良領に於いても起請文が回収され、富国強兵策が実践された。また連れ去られた領民は元の場所に戻されたが、本村領での待遇に未練を残す者もいたようだった。
頬を撫でる風が初冬の冷たさを帯びるころ、武盛は召されて登城した。城に上がると半刻(1時間)後に来客から話を聞く場を設けるので同席するよう言い渡された。
家臣たちが待機する部屋に入ると、河井達之がいたので、来客の正体を尋ねた。客は石山本願寺から派遣された僧侶だと知らされた。
なんでも、山崎景成の姉が京の都近くの武家に嫁いでいて、その家は浄土真宗の門徒であることを、本村家の菩提寺の住職が覚えていたらしい。その家に紹介してもらい、旧長宗我部領内で起きた肉食の問題を石山本願寺に相談したので、派遣された僧侶だと教えてくれた。
広間の中央に石山本願寺から派遣された僧侶が座り、上座に本村茂長が座り、僧侶から1間(1.8m)ほど距離を置いた左右に10人ずつ3列総勢60人ほどが座った。旧長宗我部領を含む本村氏領の国人たちと主だった配下の者が集められていた。武盛は僧侶の右手側の末席に近い場所にいた。
始めに茂長が僧侶に挨拶をして、突然の依頼にも拘わらず迅速に対応してくれた事に礼を述べた。その上で領内で持ち上がった肉食の是非について、どのように考えるべきか尋ねた。
「これは、丁寧なご挨拶を賜り恐縮でございます。拙僧は本願寺から遣わされた向円と申します。以後お見知りおきを願います。それでは始めに私ども浄土真宗についての話を致しましょう。浄土真宗は親鸞聖人により・・・ 」
と始まった向円の話は、難しい仏教上の言葉を使わず誰もが理解できる平易な言葉で語られた。
話の内容を要約すると、浄土真宗の教えとは
『全ての人を浄土へ往生させたい』という誓いを立てた阿弥陀仏を信じて、一心に南無阿弥陀仏と念仏を唱えると、極楽浄土へ往生させてもらえると言う。
功徳を積んだ人も煩悩にまみれた人も、善人も悪人も、阿弥陀仏を信じる全ての人を、分け隔て無く救ってくれるらしい。
生き物を殺したり、盗みを働いたり、邪な淫行などの戒律を破った罪人さえ、阿弥陀仏の力を信じてすがり、念仏を唱えると救われるそうだ。
聴衆は身を乗り出すように向円の話しに聞き入った。戦ともなれば武器を手にして殺し合いの渦中に身を投じ、戦に勝利して敵の城下に踏み入れば、略奪や破壊、婦女子への暴行なども罷り通る時代に生きている人々である。
風聞によると、殺生を始め重大な戒律を破った者は地獄に落ちると聞く。そこにいる多くの人が、心の中で我が身に科せられる地獄の責め苦を妄想して、不安を抱えながら生きていた。そんな人々にとって、阿弥陀仏による救いの話しは乾ききった心に降り注ぐ恵みの雨のように沁みわたった。
向円は話の最後にこう付け加えた。
「さて、この度の肉食の話しについてですが、浄土真宗を説かれた親鸞聖人が、師である法然上人から受けた戒めの中に『他宗の教えを学びもせずに中傷したり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を誹謗しないこと』と云う一節があります。よって、拙僧がここで申し上げられるのは、肉食は煩悩にまみれる凡夫の行いであるということ、そして阿弥陀仏にすがる人々は凡夫を含めて遍く、阿弥陀仏がお救い下さると言う事でございます」
集まった多くの人達にとって、肉食のことなど、もうどうでも良かった。幾つもの罪を背負った自分でも阿弥陀仏に救ってもらえる、その教えに接しただけで心の中は安らかな気持ちで満たされていた。
本願寺から派遣された僧侶の向円は本村城での話を終えた数日後、旧長宗我部領内で浄土真宗の布教活動を行っていた。
長宗我部氏は近年、北に東に西に武力を行使して領地を拡大してきた。当然ながら多くの領民が戦に駆り出され、仏の教えにそぐわぬ行いの限りを尽くしてきた。それゆえ浄土真宗の教えは、この地域の領民にこそ必要だと、この地の国人たちが茂長に訴えたのだ。
各地で国人たちが手配して人を集め、そこを向円が訪問して教えを説いた。向円の話は行く先々で人々の心に強く響いていた。
そのうちに、この地にも浄土真宗の寺を建立してもらいたいと、望む声が出始めた。そして、それは日を追うごとに大きくなっていった。ついには茂長に許しを乞うまでに至った。
茂長が別な目的のために頼んで来てもらった向円だったが、領民からの支持を受け寺の建立が望まれるのなら反対する理由は無かった。
向円の滞在は約1カ月にも及び、本村領内で浄土真宗の教えを広め、拠点となる寺の概要も作りあげ、一旦本願寺に戻ることになった。新たに寺を設けるために、了解と協力を得るためである。
向円が戻るにあたり何か手土産をと、茂長が思いを巡らせた。武盛の消毒液が思い浮かび、手元に残っていた消毒液のうちの1本を向円に持たせることにした。
消毒液の説明を終えたあと、茂長が、
「15本で150石の価値あり」
と付け加えた。武盛の所領150石から得られた15本の消毒液から引用したが、一本当たり10石と云うのは高価な品物である。
現代の米の価格を1kg600円と仮定すると、米1石は約150kgなので10石は約90万円となる。茂長が多分に風呂敷を広げてもいたが、自身が経験した苦痛の対価とすれば妥当な評価とも考えたのだろう。
向円が去ると正月の準備が始まるころとなっていた。
正月の習わしについて、部落にはほぼ伝わっていなかった。伝えたくとも正月の行事をする環境が無かったので、自然に廃れたものと思われる。
正月の準備はこの土地のやり方に従うように言って、万作とふみに任せることにした。二人が作業する様子を部落の者たちが入れ替わり顔を出しては見ていった。
そこで父定泰が一計を案じて、大晦日の夜は皆で集まり『年取り』をすることにした。それで部落の面々が万作とふみを手伝いに来る口実ができた。新年を迎え年齢を重ねることを祝って儀式を行えるなど、1年前には予想もできなかった。大人も子供も正月になるのを心待ちにして日が過ぎていった。
新年を迎え、武盛は17歳(満年齢16歳)になった。
正月早々武盛は忙しかった。
領民たちが年始の挨拶に訪れたのでその接待にあたり、登城して茂長、寛茂、始め武将達に新年の挨拶をして、新しく加増された領地の巡回すると共に新たな住居となる屋敷を下見したり、別の落人部落から移住する人達の受け入れ準備をしたり、多くの事に日々を費やした。




