報われない援軍
安芸軍とすれば背後から本村軍に攻撃され、前面に吉良軍が行く手を阻むように立ちはだかる状況を理解できなかった。分かっているのは吉良軍を突破しなければ安芸に戻れないと云う事だった。
吉良軍とすれば、何故本村軍ではなく安芸軍が向かって来るのか、理解できなかった。分かっているのは安芸軍を倒さなければ、岡豊城に援軍として辿り着けないと云う事だった。
戦い続けて疲れている安芸軍の兵600名と、ここまで4刻半(9時間)かけて移動してきた吉良軍300名の兵が入り乱れて死闘を繰り広げた。
双方共に、敵を倒し倒され、傷つけ傷つけられ徐々に数を減らしていった。やがて戦いに疲れ果てた安芸軍は、少しずつ夜陰に紛れてその場を逃げ出し始めた。片や吉良軍には安芸軍を追いかけ、戦い続けられるだけの兵が残っていなかった。
安芸軍はやっとの思いで近くの野山に分け入った。兵たちは崩れるように横になり、野山で一夜を過ごしたが、その数は400名を少し上回る程度だった。
吉良軍は安芸軍が去った後に岡豊城の偵察を行い、多数の本村軍に占拠されている事を把握した。これ以上の戦闘は無益と考え、退却を決めた。
岡豊城では、城門を固めた本村軍が、城内で続く長宗我部軍と安芸軍の戦闘に決着がつくのを待ってから、突入した。長宗我部軍も安芸軍も力尽きたと見えて、抵抗らしい抵抗も受けずに岡豊城を制圧した。
一夜が明けて東の空が明るくなると、野山に逃れていた安芸軍の敗残兵が、一人二人と安芸に向けて歩き出した。あと少しで安芸領と云う地に足を踏み入れた。ここは前日の未明に攻め込んだ小安氏の領地だ。
安芸軍が戦いに敗れ岡豊城から敗走した、という知らせは昨夜のうちに小安城下にも入っていた。そうであれば安芸領へ帰る敗残兵が、小安領を通ることは容易に予想できた。
小安領には、250の兵が残っている。領主を失ったので組織的な戦はできないが、少人数による局地的な戦いならできる250の兵が残っている。しかも昨日領主を殺され、悲しみと怒りの感情が込み上げている最中の兵である。
安芸に帰る途中の敗残兵は、街道で野で山で小安配下の兵に襲撃された。無事に安芸領に戻れた兵は300名に満たなかった。
武盛と寛茂が組んだ作戦によると、安芸軍は『約定の無い援軍』と位置づけられていた。もしも安芸軍が参戦しなければ、浅井城攻めの長宗我部軍に打撃を与えるだけで十分な戦果と出来たのだが、期待した通り安芸軍が参戦したので、望みうる最大の戦果を得ることが出来た。
つまり、長宗我部軍に望外の大打撃を与えられたこと、岡豊城を陥落させられたこと、本村と長宗我部の戦に割り込んだことで安芸氏を攻める口実ができたこと、同じ理由で吉良氏を攻め込む口実ができたこと、その上、安芸軍も吉良軍も戦力を大きく減らしたこと、この戦で望み得る全ての成果を手に入れることができたのだ。
本村軍に最大の恩恵をもたらした安芸軍の見返りは、岡豊城の長宗我部軍と戦い、本村軍と戦い、吉良軍と戦い、小安軍と戦い、四者から叩かれ大幅に戦力を失うと云う余りにも悲惨なものになった。
子孫は戦いが始まる前の不安が杞憂と終わり、胸を撫で下ろしていた。長宗我部氏との戦いに勝てたと云うことは、今起きていることはあくまでも夢なのだ。史実には縛られない新たな展開に進める。誰も選択できない武将で、天下統一を目指すゲームが出来るぞと、心の中で小さくガッツポーズをした。
ここで、この戦いで用いられた囲魏救趙の計について記しておきたい。
紀元前354年、春秋戦国時代真っ只中の中国で、趙と言う国に南の魏と言う国が大軍で攻め込み、趙の都邯鄲を包囲した。そして攻防戦は長期に及んだ。
翌年、趙は東の斉と言う国に援軍を要請した。斉はこれに応じて軍を出陣させたが、趙を助けに向かうと見せかけて、魏の都大梁に向けて軍を進めた。
斉軍が自国の都に向かったと聞いた魏軍は、慌てて邯鄲の包囲を解き自国の都を守るために引き返した。魏の国内に残っていた兵は多くなかったのである。
しかし斉軍は大梁に向かう途中の、桂陵という地で魏軍を待ち受けていて、少しでも早く戻ろうと過酷な行軍で疲弊していた魏軍に大打撃を与えた。
魏に囲まれた趙を救ったこの策は囲魏救趙の計と呼ばれ、のちに兵法36計のひとつとなったのである。
岡豊城が陥落した3日後に、武盛は自分の屋敷に戻った。戻るなり食事の仕度をしてもらい、食べ終わると直に床に就いた。翌日の昼近くに起きると用意してあった食事をとり、また眠りに就いた。
そうして3日目の早朝に目覚めた。万作も丁度起きたばかりらしく、竈に火を熾そうとしていた。
万作は武盛と顔を会わせると
「朝食はまだ少し時間がかかりますが、取り急ぎ何か用意いたしますか」
と尋ねた。
「いや朝食まで待とう。それよりも頼んでいたものの首尾は?」
「はい、出来る限りの準備はできました」
実は武盛は酒作りを始めようとしていた。しかし武盛や子孫に酒造りの知識が無かったので、年の功を頼り万作に白羽の矢を立てた。万作はあちこちの知り合いに聞いて回り、幾つかの情報を得てきたのだった。
その日から3日間、部落の者総出で山に入り酒造りに指定された数種の木の実を採り、叺(稲藁を編んで作った袋)に入れて武盛の屋敷の納屋に運び込んだ。次に万作の得た情報を元に、木の実を潰しながら樽に入れ試行錯誤を重ねて何とか酒の仕込みを終えた。
子孫は酒が出来れば蒸留して、消毒用のアルコールを抽出したいと考えていた。
武盛が酒造りに精を出しているころ、旧長宗我部領では全ての国人に対して、浅井城で6人の国人たちに書かせた起請文と同じ内容の物を提出するよう命を下した。
それと同時に国岱又左と、浅井城から解放されたのちに長宗我部城へ駆け込み浅井城攻めに加担した2名の、計3名を処刑して領地を没収した。このことは国人たちに無言の圧力となり、全ての国人たちは致し方なく起請文を書いて差し出した。
戦の後始末が落ち着くと、旧長宗我部領でも富国強兵策が実践された。
新田の開発、家畜の繁殖と肥育、鶏卵及び牛乳や食肉の流通、牛馬を使役した農作業、荷車の配置と活用、家屋周りの植物の植え替え、勉学施設の整備、農民の軍事教練などが進められた。
すると旧長宗我部領内の有力寺院から『不浄な肉食』を広めることに対する異議が唱えられた。もともと長宗我部領内でも肉食は行われてたが、表立って奨励されると仏の道を説くものとしては戒律に抵触すると、異議を申し立てずにはいられなかったようだった。
この宗教上の思想に、反論できる知識を持つものは誰もいなかったので、一層声高に喧伝するようになった。本村氏の方針に異を唱えることは罷りならぬと釘を刺すと、陰に隠れて誹謗するようになった。




