疲労困憊
小安城下から走り出した伝令は、午の刻(昼12時)に岡豊城に到着し、安芸軍の侵攻を告げた。
直ちに岡豊城から浅井城下にいるはずの元親に宛てて、伝令が遣わされた。伝令は馬を駆り、国分川沿いの道を西に向かった。
浅井城下を発った長宗我部軍は1度の小休止を挟んで移動し、矢尻丘の手前まで来ていた。そこへ北側の道から蓮中規正が現れた、元親に本村軍の動向を報告した。
「殿、本村軍が半刻(1時間)前に山沿いの道に入りました」
本村軍はあと半刻(1時間)足らずで岡豊城に着くであろう。我が軍は半刻遅れで本村軍の背後に到着する。どうやら間に合いそうだ、と元親は思った。
丁度その時に、国分川沿いの道から岡豊城を発った伝令が馬を走らせて到着した。
「安芸軍およそ1000名が岡豊城に向け進軍中で、未の刻(午後2時)に到達する見込みで御座います」
伝令の話を聞き、本村と安芸が示し合わせたか、と元親は考えた。本村軍との戦いの最中に、安芸軍が加勢に加われば、我が軍には極めて不利だ。
しかし安芸軍が到着するまでに1刻(2時間)の猶予がある。最も早く城に戻る道を選び、城の南側から城内に入れば籠城戦に持ち込める。そうすれば吉良城からの援軍と力を合わせて、勝機を掴むことも出来よう。
元親は、丘と丘の間を抜ける道へ向かって軍を進めた。並の武将なら目が回るような窮地であるが、元親は落ち着いて状況を分析する冷静さを失っていなかった。
進軍速度はより一層早まり、騎馬兵の歩みに歩兵が遅れ始め、前方を騎馬兵が進み、槍兵や弓兵がその後を追う形となった。やがて丘の間の道に入り、馬一頭が通れる幅の狭い道を7町(700m)進んだ。その先で右手の丘は切れ、さほど大きくない平地が扇状に広がっていた。
そこに行く手を塞いで槍を構える本村軍の兵およそ250名が、一列に弧を描いて並んでいた。その後に槍兵150名が並び二重の構えをとっていた。更に後には騎馬兵70騎が待機している。
長宗我部軍が本村軍を見つけるのと同時に、右手の矢尻丘から矢の雨が長宗我部軍の騎馬兵に降り注いだ。矢尻丘を見上げると本村軍の弓兵300名が、平地に出てきた騎馬兵と狭い道を進行中の騎馬兵に、次から次へと矢を射かけてきた。避けようのない矢の雨は騎手に傷を負わせ、或いは馬に傷を負わせた。矢を受けた馬は暴れて騎手を振り落とした。
この上まだ策を仕掛けてくるか、そう思った元親の顔に一瞬笑みが浮かんだように見えた。それは不意を突かれ、窮地に陥った自分自身に対する嘲笑だったのかも知れない。
しかし、今は戦の最中であり、如何に対処するか決めねばならない。槍に向かって前に進むか、矢が降るこの場に待機するか、味方が押し寄せる後ろに退却するか、両側の急斜面に逃げ道を求めるか。
選べる選択は前進しかなかった。
「突撃!」
元親が騎馬兵に命令を下した。
長宗我部軍の騎馬兵が一列に並ぶ槍を目掛けて馬を駆った。騎馬兵は槍が届く手前で右に左に行き交い、隙あらばその隙を突こうと窺った。
目の前の騎馬兵が右に動けば槍の穂先も右に動き、左に動けば槍の穂先も左に動いた。動く槍は密集する場所と疎らになる場所を生んだ。その疎らな場所を狙って騎馬兵が分け入った。しかし騎馬兵の太刀が槍兵に届く前に、振り戻された左右の槍が騎馬に突き刺さった。槍に突かれて暴れた馬が騎手を振り落とすと、周りの槍兵が一斉に槍で突いた。
倒れた騎手に襲い掛かる槍兵が隊列を元に戻す前に、槍兵の列を突破する騎馬兵が数騎いたものの、すぐさま後列の槍兵が襲い掛かった。
そのうちに長宗我部軍の槍兵と弓兵が丘の間の狭い道を進んで来た。矢尻丘の上にいた本村軍の弓兵は、長宗我部軍の騎馬兵が味方の槍兵と接近したため一時待機していたが、接近してきた槍兵と弓兵に矢を浴びせた。
長宗我部軍の槍兵は矢の雨に怯む事無く、そのまま前に進み平地に出た。槍兵が騎馬兵と入れ替わって本村軍に立ち向かった。
槍の穂先と穂先がぶつかり小競り合いになった。しかし、本村軍の兵が少しの力で槍を払うと、長宗我部軍の兵が持つ槍が手から滑り落ちた。長宗我部軍の兵が槍を突こうとしても足がもつれた。
思い起こせば朝食を放棄して進軍を始め、中食も口にしていない。空腹を抱えて半日に及ぶ強行軍の間、重い槍を腕と肩で担ぎ移動してきたのだ。既に兵の腕と足に、思うように槍を操る余力はなかった。
槍兵同士の戦いで出来た間隙を突いて、長宗我部軍の騎馬兵が飛び出して来たが、本村軍の騎馬兵が敵1騎に対して2騎で応戦した。長宗我部軍の疲弊した人馬が勝てる筈も無かった。
狭い道の上に残された長宗我部軍の弓兵は残った力を振り絞り、丘の上の本村軍に矢を射返していたが、丘の上で木々を盾に攻撃する本村軍に有効な反撃とはならなかった。遮る物のない道の上に立つ弓兵と、平地への出口に待機した騎馬兵は丘の上から降る矢の標的になっていた。
後方では、来た道を戻り大きく迂回して、岡豊城へ戻ろうとする長宗我部軍の行く手に、本村軍の槍兵300名と騎馬兵30騎が立ちはだかり戦っていた。やはり状況は同じで長宗我部軍の劣勢は変わらなかった。
長宗我部軍の兵は、疲労困憊の状態で、本村軍の攻撃に耐えていた。
戦況が好転する兆候は何もなく、長宗我部軍の兵だけが減っている。兵の半数近くが力尽きて戦列を離れ、万策尽きた元親は、敵の手にかかって果てるよりはと自刃を選択した。元親の胸中には無念の思いが強かったが、次から次へと張り巡らされた策謀の見事さに、戦乱の世に生きる者として尊敬の念さえ覚えていた。
元親の自刃と共に長宗我部軍は降伏した。
戦を制した本村軍は、降伏した兵の武装解除をしたり負傷した者の手当てを済ませた。兵達は携行食で小腹を満たし、休息を取っていた。時は間も無く申の刻(午後4時)になろうとしていた。
一方、小安城から進軍を開始した安芸軍は北西に進み、未の刻(午後2時)に岡豊城に着いた。直ちに岡豊城への攻撃を始め、徐々に打撃を与えていった。
やがて西の空が茜色に染まる頃、安芸軍は200名近い犠牲を出しながらも城門を破り、城内へ攻め入り、最後の抵抗をする長宗我部軍との戦闘に入っていた。
安芸軍が勝利を確信したその時、北側の城門前に本村軍が現れ、そこに集まっていた300名ほどの安芸兵に襲い掛かった。安芸軍はもう2刻(4時間)も戦闘を続けていて、明らかに疲れが見えている。対して満を持して参戦した本村軍は900名に近い兵を有していた上、1刻(2時間)の休憩を取り腹も満たされていたので、勢いに大きな差があった。
安芸軍は、瞬く間に蹴散らされ、城の南方向に逃げ出した。本村軍は安芸軍の後を追いかけ、岡豊城を包囲していた安芸軍の兵を悉く城のある山から追い出した。既に城内に攻め込んでいた安芸軍の兵200名は取り残されてしまった。本村兵は城内に入ろうとせず、各所の城門前で待機した。そして城外へ逃れようする兵を押し留めた。残された安芸軍は退城することができず、抵抗する長宗我部軍と戦い続けた。
時は少し遡り、吉良城に本村軍が岡豊城に向かったと云う知らせが届いたのは、辰の刻(午前8時)の少し前だった。出陣の準備はほぼ整っていたので、三百名の兵はすぐさま岡豊城に向けて城を出た。
吉良城から東に向かい、舟で土佐湾を渡った。全軍が渡り終えると、国分川の少し南にある道を東へ東へと進み、岡豊城の南まで進み、ここで進路を北に変えた。
吉良軍が岡豊山の手前まで来た時、本村軍に追われた安芸軍の兵が岡豊城から駆け下り、吉良軍に向かって来た。岡豊城から南へ向かって逃げ出す安芸兵と、岡豊城に向けて北に向かう吉良兵が真正面から衝突した。




