囲魏救趙の計
本村領の林上城で一夜を過ごした本村軍1100名は、翌朝卯の刻(午前6時)に出発し長宗我部領に向け進軍した。本村軍は馬100頭の背に槍や弓などを振り分けて結び、兵は身軽に動けるようにしていた。これは山道の行軍を少しでも短い時間で進む為の工夫だった。普段は馬に乗り進軍する武将や騎兵も、甲冑は馬の背に預けたものの、皆と同様に山道を歩くこととなった。
本村軍が城を出たころ、長宗我部軍の将兵が岡豊城に集まり始めた。
やがて辰の刻(午前8時)に長宗我部軍1300名は城を出て、国分川沿いの道を西に向かって進み始めた。浅井城まではおよそ4里半(18km)、隊列を組んだ兵の進軍速度で4刻(8時間)の行程だった。
岡豊城下に潜んでいた安芸氏配下の密偵は、長宗我部軍が出陣する様子を見届けた。密偵はすぐさま岡豊城下を離れ、安芸領を目指した。
直隆も長宗我部軍の出陣を見届けると、昨夜遅く岡豊城下に戻った安宣を呼び出し、本村軍に長宗我部軍出陣を伝えるよう指示した。
安宣は進軍途中の本村軍と山の中で合流して長宗我部軍の出陣を伝えた。寛茂と武盛は目論見通り事が運んでいることを確認した。
順調に進軍を続けた長宗我部軍は、申の刻(午後4時)に浅井城の北側にある川辺の平地まで来ると、そこへ陣を張った。
明日の昼になれば浅井城の南方にある吉良城から300名の援軍が出陣して、浅井城から打って出る本村軍の背後を突くため、密かに浅井城の南に陣取る段取りになっていた。
元親の本陣では武将たちが集まり、
「本村の援軍到着は明日の夕刻になるだろう。それまでに浅井城を落とさぬように気を付けねばならん。餌が無くなっては魚も逃げてしまう」
そのような確認が交わされた。油断ならぬ敵と口では言っても、本心では本村軍を軽く見ていた。
長宗我部城下を離れた安芸の密偵は、申の刻(午後4時)、丁度長宗我部軍が浅井城付近に陣を張っているころ、安芸領内で一番長宗我部領に近い金網城に着いた。この日の朝からおよそ1000名の兵が、安芸城下を出て金網城へ集まっていた。そこへ長宗我部軍出陣を報告した。
早朝に林上城を発った本村軍は、太陽が西の山に隠れようとするころになっても行軍を続けていた。やがて西の空から明るさが失われると、今度は東の空から昇った上弦の月が行軍の行く手を照らした。
その日の亥の刻(午後10時)長宗我部領内の仙備城手前の山まで来た。途中何度か休憩を取り、8刻(16時間)の行軍だった。
本村軍はここで林の中に分け入った。長い行軍の疲れもあり、簡単な夕食を取ると、兵たちはすぐ眠りについた。
一方、金網城に集まり休息をとった安芸軍1000名の兵達は、本村軍が眠りに就く少し前の戌の刻(午後8時)になり戦支度で、金網城を出て北西へ向かった。安芸軍は長宗我部領に入り、直近の山にある小安城に向け、進軍を開始した。
月明かりに照らされ、1刻半(3時間)の道程を黙々と進み、小安城に着いた。
子の刻(深夜0時)を回り小安城が眠りについた時に、梯子を担いだ安芸軍の一団が城に近づき、城壁に梯子を4、5本掛けると一斉に駆け昇り始めた。小安城の見張り番がこの異変にすぐに気が付き、
「敵襲だ、敵襲だ、敵襲だ」
と大きな声を上げた。安芸兵は城壁の高さまで昇ると、肩に掛けてきた綱を城壁の内側に垂らし、その綱を伝って城内に下りた。
不寝番の侍10数名が応戦に出てきたときには、その数を上回る安芸兵が城内に侵入していた。
斬り合いが始まる頃には、城内に侵入した安芸兵が城門を開けたので、安芸兵が一気になだれ込んできた。
この騒ぎに目を覚ました小安城の侍が、寝間着姿に刀を持って出てきたが、小安城の守備兵50名は1000名もの安芸軍に蹂躙された。僅か四半時(30分)で小安城は安芸軍の手に落ちた。
城門は再び閉められ安芸軍の兵たちは小安城内で仮眠をとった。
安芸軍はこの前の年に、長宗我部軍が本村領に攻め込んだ隙を狙い、防備が手薄になった岡豊城に攻め込んだ。そして城が落ちる寸前という時に、背後から小安氏の攻撃を受けた。態勢を立て直して反撃に転じようとするところに別な援軍が現れ、やむなく安芸軍は撤退した。
小安氏討伐はその時の鬱憤を晴らす戦いであり、同じ轍踏まないための戦いであった。
所変わって本村軍が潜む仙備城裏手の山の中、本村軍の一員として仮眠を取っていた蓮中規正は、寅の刻(午前4時)に起こされた。
「次はお主が見張りの番だぞ」
高窪久彦にそう言われて、規正は眠い目をこすりながら起き上がり
「承知仕った」
と返事をした。
「卯の刻(午前6時)になったら皆を起こしてくれ。朝飯が済んだら、岡豊城へ向けて進軍するぞ」
「え、浅井城の救援に行くのでは無いのですか」
久彦の言葉に驚いて規正が聞き返した。
「おう、まだ兵たちには知らせていないが、守備の手薄な岡豊城を落としに行くのじゃ。さぁ儂も一休みさせてもらうぞ」
そう言うと久彦は横になり眠る姿勢をとった。
浅井城を救うための援軍だと考えるこの場面で、長宗我部氏の居城を落としに向かうとは思いもよらなかった。おそらくは長宗我部軍の誰もが気付いておるまい、何とかして伝えなくてはならない。
そう考えると規正は音を立てぬように、静かに足を運びその場を離れた。そして平野部へ続く山道を気付かれぬように下り、本村軍から見えなくなると一目散に仙備城に向かって駆け出した。
四半時(30分)掛かって仙備城に着いた。規正は城門を力の限り叩いて、城内の人間を起こした。城主は浅井城攻めに出ており、僅かな兵と家人しか残っていなかった。
「拙者は元親様に仕える蓮中規正と申すものである。急ぎ元親様にお知らせしたき事がござる。本村軍およそ1100名は、本日卯の刻(午前6時)過ぎにこの仙備城裏を立ち、岡豊城を目指して進軍する作戦であると、城主の厚田殿から元親様にお伝え頂きたい。一刻の猶予もございませぬ」
規正の徒ならぬ様子に、家人が残っていた兵に浅井城下の陣中にいる領主に、規正の伝言を届けるよう指示を出した。指示を受け取ると兵は、急いで月夜の道を走り出した。
規正は仙備城の家人に礼を述べると静かに山をのぼり、何食わぬ顔で本村軍に紛れ込んだ。その様子を物陰から見ていた寛茂と武盛は、目を合わせ小さく頷いた。
仙備城からの知らせは卯の刻(午前6時)に城主の厚田に届いた。その内容に驚いた厚田は血相を変えて元親の元へ行き大声で
「元親様、一大事に御座います。一大事に御座います」
と叫んだ。元親は尋常ではない厚田の声に応じ、直ちに厚田を呼び寄せた。
「なにぃ、本村が岡豊城に!なんと狡猾な! 」
元親は絶句した。蓮中規正からの知らせであれば間違いはあるまい。
本村との決戦に備え可能な限りの兵を浅井城攻めに動員した為、岡豊城に残した兵は200名ほどであった。
陣内に元親の声が響いた。
「全軍、岡豊城に引き返す。直ちに支度せよ。吉良城に伝令を走らせ岡豊城での合戦になる故、直ちに岡豊城へ駆け付けるよう知らせよ」
浅井城下で陣を張っていた長宗我部軍は、朝食の支度を途中で放棄し、全員を起こして鎧兜を纏わせた。隊列が整うと直ちに岡豊城を目指して進軍を開始した。通常の進軍ではなかった。急ぎ足の、それも殺気だった急ぎ足の進軍だった。
長宗我部元親は進軍しながら、思いを巡らせた。
本村軍はこちらが浅井城下で待ち受けていてる間に、岡豊城を落とす考えだろう。しかし蓮中規正の働きで早くに本村軍の動きを知る事ができた。ここは奴らの背後から襲い掛かり岡豊城の兵と連携して挟み撃ちにしようと考え、本村軍の進んだ山沿いの道を目指して軍を進めた。
長宗我部軍が浅井城を離れたころ、小安城を占拠した安芸軍も岡豊城を目指して進軍を開始した。本村軍と長宗我部軍が激突する頃合いに悠々と岡豊城を攻略する算段だった。
安芸軍が小安城を出て北西に進む様子を見て、麓の村の住人は何が起きたかを察した。
農村には普段は農作業をしながら、戦の時は兵として戦う豪士と呼ばれる身分の者がいる。小安方の豪士ある村長は、村の若い者に命じて安芸軍の進軍を岡豊城に伝えるよう命じて走らせた。伝令は村の裏道を抜けて、安芸軍より先に村を出た。
長宗我部軍と安芸軍が動き始めた半刻(1時間)あとに、朝食を済ませた本村軍は、岡豊城に向けて進軍を開始した。軍は山沿いの道を東に進んだ。




