次の歩み
梅雨が明けてから頻繁に富国強兵会議が開かれるようになり、幾つもの提案がされた。その提案に優先順位が付けられ、茂長に上申するまでに至った。初夏のころには茂長に決済を貰い、出来る事から次々と実行して行った。
新田が幾つか開発され、川の上流から水が引かれ、溜池を経て田に送られた。溜池では食用に鯉が育てられた。野菜も必要な時期に必要な量が作られ、山菜や茸が不足分を補った。
鶏や兎の繁殖育成、それらの肉及び鶏卵の生産、流通、引退した牛や馬の食肉加工も行われるようになった。牛の育成に付随して牛乳の生産も行われた。牛乳は妊産婦や幼児に向けて提供された。家畜や人の糞尿は肥料として農作物の増産に活用された。
家畜の皮は綺麗に剝ぎ取られ鞣された。皮は種類によって防寒着や道具を作る材料として使われた。また家畜から出る余分な脂は集められ甕に貯められた。
家畜の屠殺場は日当たりの良い丘の上に作られ、筵を敷いた穴の中に骨などが廃棄された。何かの信心のように思えたが、それに言及する者はいなかった。
武盛が牛馬を野良仕事に使役する為の道具を図に示した。この図は久杜が父の実家に残されていた古い農具を再現したものだった。それをこの時代の材料と道具と技術で具現化した。田を耕す農機具と、牛馬の力を農機具に伝える道具が試作され改良が加えられていった。
農作物を始めとした物資を運ぶための荷車、いわゆる大八車の規格が決められ、生産された。一つの規格で作られた事で、材料の準備や組み立て、及び修理や部品の取替などが容易になった。それらは本村領内の要所に置かれ、物資運搬の効率化に寄与した。
川の近くに水車を設け、水が流れる力を利用して、穀物の脱穀や、石臼を使った小麦の製粉などに利用された。
各屋敷の生け垣には矢竹が植えられ、やがて矢に加工される。また各屋敷の敷地に植える樹木は、梅や柿など食べられる実が生る木が推奨され、収穫時期を考慮して数種類の樹木が偏ることなく植えられた。
瓜山の戦で回収した武具が整備され、過剰な分は鋳溶かされ、必要な武具や農具などに作り変えられた。
他に小規模ながら学問や技術を学ぶ場を設け、元服前の子供を選抜して教育する制度を設けた。
これらの作業にあたっては人足のほか、武士も時間を割いて動員された。また農民は作業の合間を割いて槍や弓を持ち兵の訓練を受けた。
季節は夏へと変わり、本村領に定住する人が増えていた。始めは戦により荒廃した領内の整備が行われ、それが一段落すると富国強兵策に依る新たな事業が動き出し、継続的に労働力が必要とされた。それに幾度も戦に敗れてきた本村領には、少なからず寡婦がおり、新たな定住者の受け入れ先となった。
稲穂が首を垂れるころ、部落の人々も新しい生活に慣れてきているようだった。そんなある日、武盛が寛茂に呼び出され登城した。
寛茂は武盛の姿を見ると人気のない部屋へ連れて行った。二人は共に胡坐をかいて、向かい合って座った。
「儂は長宗我部氏と雌雄を決し、失った平野部を取り戻したい。何か手立てはないか」
寛茂がそう言った。唐突な話しに武盛は少し面食らった。
時を遡ること一刻(2時間)、本村茂長は栗山尚忠の訪問を受け、寛茂と共に応対していた。
尚忠は本村氏が平野部に進出していたころ居城としていた浅井城近隣の有力国人の一人で、本村氏との関係も良好だった。しかし長宗我部氏との合戦で本村氏が不利になったと見るや同じ有力国人の一人、国岱又左が長宗我部氏に寝返り、尚忠始め本村派の国人を押さえつけた。その結果本村氏は平野部に於ける基盤を失い、平野部から撤退せざるを得ない状況になった。今は尚忠も長宗我部領の国人になっており、本日も隠密裏に訪ねてきていた。
席上で尚忠は一通りの挨拶をしたあと、以下のように話をした。
「現在、浅井城は国岱又左が城主となり、長宗我部氏の力を背景に旧本村派の国人を押さえつけ、年貢の徴収、水の分配、領地境の係争など、事ある毎に自分に都合の良きよう身勝手に振舞っております。旧本村領の国人の中には、腹に据えかねている者もおります。そんな折に、本村様が瓜山城で長宗我部軍を完膚なきまでに打ち負かしたと聞き、我らも溜飲の下がる思いが致しました。そこで本村様には、再度平野部への進出をお考え頂けるのではと思い、罷り越しました。どうか長宗我部氏を打ち破り、延いては国岱に天誅を下して頂きたくお願い申し上げます。本村様が兵を上げるのであれば、我々は命を賭して共に戦うと誓います」
茂長は、必ず打って出る時が来るので、事有る時は力を合わせて戦おうと回答した。会談の後、尚忠は来た時と同じく目立たぬように屋敷を後にした。
尚忠を見送った後、茂長から検討せよと指示を受けた寛茂が、武盛を呼び出したのだった。
寛茂から栗山尚忠訪問の話を聞いた武盛が、
「そうですか、長宗我部氏と雌雄を決し、平野部へ進出ですか・・・。それでは平野部の勢力について教えていただけますでしょうか」
と寛茂に問いかけた。
寛茂は懐から扇子を取り出し要を握ると扇子の天を床に向けて膝の前に横長の楕円を描いた。
「土佐の北側、ここが本村領だ」
そう言ってから、今書いた楕円の先に同じ大きさの楕円をもう一つ描き、
「土佐の中央部、ここが長宗我部領だ」
続いて二つ目の楕円の左横から更に先に伸びた縦長の楕円を描き、
「土佐の東側、ここが安芸領だ」
最後に二つ目の楕円の右横から更に先に伸びた縦長の楕円を描き、
「そうして土佐の西側、ここが一条領だ」
寛茂は、扇子を手元に戻し、説明を続けた。
「西の一条は京の都でも名門の家柄の出身であり、ここの領主も高い官職を持っている。領地は他の豪族たちと同じような広さだが、外国との交易の拠点となる港を有しており大きな収益を得ている。その収益も寄与して他の豪族より大きな財力を持っている。一条領の兵力は最大で3000ほどになる。土佐の盟主を自負しており、豪族の中には一条家の後ろ盾を得るため、姻戚関係を結ぼうとする者も少なくない。東の安芸も一条家の姫を正室に迎えたひとりだ」
寛茂は、目線を床の左側に移し、説明を続けた。
「その東の安芸は、かつて長宗我部を上回る勢力を誇っていたが、長宗我部の勢力が拡大して現在は劣勢にある。数年前に長宗我部が我が本村領に向け出陣した折に、手薄になった長宗我部の居城に安芸が攻め込んだ。その時は、あと一歩のところで長宗我部の援軍に阻まれて退却したが、隙あらば長宗我部に対して一矢報いるべく狙っている。安芸領の兵力は最大で1300と云うところだ」
ここで深く息を吸い込んだ寛茂は、武盛の目を見ながら説明を続けた。
「そして、土佐の中央部を支配下に置き一条家に匹敵する勢力にのし上がったのが長宗我部だ。元々は土佐中央部の東側を領地としていたが、中央部の中ほどにあった我が本村領を支配下に収めたのは既に承知している通りだ。そして中央部の西側を、治めていた吉良氏の内輪揉めに乗じて、長宗我部元親の弟を跡継ぎとして送り込み、ここも支配下に収めた。こうして中央部の全域を支配するに至っている。長宗我部領の兵力は、瓜山城での戦いで数を減らしたので、吉良領の兵力も加えて2700程度だろう」
「我が軍の兵力は、領内に住む人が増えた分を勘案しても最大で1500ほどなので、総合的な戦力では長宗我部軍の方が一枚も二枚も上だ」
それから、各領主の性格や軍の強さ、領主間の確執などの説明を受けた。
武盛は先ずは知る事からを実践するため、平野部を見て回りたいと寛茂に願い出た。




