テルミンのバストダウン大苦戦!
揺れる爆乳!
右へ、たゆん。
左へ、たゆん。
大学の講義棟を歩くたび、春の日差しを受けながら、それは実に景気よく揺れていた。
「ふんふふーん♪」
本人――天野輝実、十八歳。通称テルミン――は、自分の胸が廊下の交通事情に少なからぬ影響を与えていることなど気にも留めず、上機嫌でスキップしていた。
ワイヤレスイヤホンから流れているのは、美少女ゲーム原作アニメの主題歌。
つい一か月前までなら、
「こういうの、ヒロ君が聴いてるやつでしょ?」
くらいの認識だった。
それが今ではプレイリストの上位を独占している。
輝実は、昨日切ったばかりの髪へ触れた。
肩にも届かないショートヘア。
幼いころからずっとロングだった。
高校卒業まで、腰より上にしたことすらない。
「ヒロ君、気づいてくれるかなぁ」
にへら。
頬が緩む。
最近変わったのは髪だけではない。
音楽。
服装。
飲み物。
苦手だったブラックコーヒー。
そして昨日はついに――。
「納豆も食べられたし!」
誰に褒めてもらうでもなく、拳を握る。
そう。
すべては、ただ一人の男のためだった。
水谷裕和。
中学時代からの腐れ縁にして。
輝実が長年ひそかに――全然ひそかではないが――想い続けている相手である。
そのとき。
廊下の向こうから聞き覚えのある声がした。
「――いや、それは絶対違うって」
「!」
輝実の目が丸くなる。
ヒロ君!
条件反射だった。
輝実は廊下の角へ飛び込み、壁から顔だけをそっと出した。
完全に不審者である。
少し先で、裕和が友人たちとしゃべっている。
「お前ら結局どういう子がタイプなの?」
「俺は普通に胸大きい子」
「俺はDくらいでいい」
「具体的だな」
「Fくらい欲しいだろ」
「お前ら胸の話しかしてねえじゃん」
輝実は思った。
男ってバカだなぁ。
まあでも。
大きい胸が好き。
そこだけは正しい。
ふふん、と胸を張る。
たゆん。
神様が私に与えてくれた唯一にして最大の長所!
そこで友人の一人が裕和へ振った。
「水谷は?」
「オレ?」
「お前、どういうのが好きなんだよ」
輝実の耳がぴくりと動いた。
これは重要情報である。
国家機密級に重要である。
裕和は腕を組んだ。
「そうだな」
輝実の心臓が跳ねる。
「オレは――」
どくん。
「絶対、胸は小さいほうがいい」
…………。
輝実の笑顔が止まった。
「え?」
聞き間違いかな?
しかし男子たちの会話は続く。
「貧乳派?」
「筋金入り」
「手に収まるくらい?」
「いや」
裕和は真顔で首を振った。
「それ、膨らみあるじゃん」
「は?」
「オレが言ってるのはもっとこう、すっきりしたやつ」
「お前、相当だな」
「胸なんかなくていい」
「そこまで言う?」
「むしろないほうがいい」
がーん。
輝実の頭の中で、巨大な鐘が鳴った。
膝から力が抜ける。
ずるずるずる。
壁を伝ってしゃがみ込む。
「うそ……」
自分の胸を見る。
大きい。
それはもう、どう見ても大きい。
服屋で試着するたび、
「胸に合わせると腰が余る」
という悲劇に見舞われる程度には大きい。
中学生のころから急成長を始めた胸。
当時は男子の視線が嫌で、ずっとコンプレックスだった。
だが。
漫画を見ても。
アニメを見ても。
グラビアを見ても。
SNSのバズっているコスプレイヤーを見ても。
世の中は巨乳をありがたがっている!
そう悟ってからは、輝実も考えを改めた。
これは欠点ではない。
才能だ。
武器だ。
神から授けられしボーナスステータスだ!
そう信じて十八年間生きてきた。
それなのに。
まさか。
恋い焦がれる裕和だけが。
「超貧乳派……」
運命とは残酷である。
「神様のばかぁぁぁぁ!」
輝実は立ち上がるなり走り出した。
たゆんたゆんたゆんたゆん!
それはもはや胸による盛大な敗走であった。
「あれ?」
男子たちが振り返る。
「今のテルミンじゃね?」
「またいたぞ」
「え、聞かれてた?」
「水谷、お前完全に狙われてんじゃん」
裕和は露骨に嫌そうな顔をした。
「だからなんだよ」
「付き合っちゃえよ。可愛いじゃん」
「タイプじゃねえよ」
そう言って裕和はそっぽを向く。
ただし。
耳だけは真っ赤だった。
※※※
「終わった……」
その日の夕方。
輝実は自室のベッドへうつ伏せになっていた。
「私の恋、終わった……」
枕が涙でしっとりしている。
「ヒロ君に嫌われた……絶対嫌われた……」
実際には嫌われたとは一言も言われていない。
恋する乙女に事実確認という概念はない。
スマートフォンの検索履歴には、
『胸 小さくする方法』
『バストサイズ 減らしたい』
『胸だけ痩せる方法』
『巨乳 貧乳にする』
『好きな人 貧乳好き 終わった』
などという検索ワードがずらりと並んでいた。
最後の検索では、なぜか失恋相談サイトが大量に出てきた。
「そういうんじゃないの!」
スマホを枕へ投げる。
コンコン。
「輝実ーっ」
母の声。
「夕飯できたわよー」
「いらない!」
「今日、唐揚げよ!」
ぴくっ。
輝実の肩が跳ねた。
唐揚げ。
好物中の好物。
だが。
鶏肉はバストアップにいい。
そんな怪情報を、輝実はさきほどSNSで見たばかりだった。
もちろん根拠はない。
しかし、今の輝実に科学的リテラシーを求めてはいけない。
「……ダメ」
輝実は起き上がった。
「私は決めたの」
鏡の中の自分を見つめる。
「ヒロ君の理想になる」
そして胸を指差した。
「そのためだったら!」
ぐぅぅぅぅ。
腹が鳴った。
「…………」
しばし沈黙。
「唐揚げなんて……!」
ぐぅぅぅぅぅ。
「…………三個だけ」
五個我慢したので、大勝利である。
※※※
それから一週間。
輝実は戦った。
ありとあらゆる方法を試した。
食事を減らす。
走る。
泳ぐ。
筋トレ。
ストレッチ。
SNSで流れてきた《一日五分で上半身スッキリ》動画を三十本くらい保存。
意味のわからないマッサージにも手を出した。
そして。
母親に怒られ。
友人に心配され。
講義中に腹を鳴らし。
売店の肉まんの前で十五分立ち尽くし。
一週間後。
「ふふふふ……」
鏡の前に立つ輝実。
ちょっと頬がこけている。
髪もパサパサ。
目の下には薄いクマ。
「体重は減った……」
決して良い減り方ではない。
「これだけやれば、さすがに……!」
部屋の鍵をかける。
上着を脱ぐ。
そしてメジャーを手に取った。
「いざ!」
測る。
「…………」
もう一度。
「…………」
念のため、もう一度。
「…………」
測り方を変える。
「…………」
メジャーが悪いのかもしれない。
別のメジャーを持ってくる。
「…………」
五回目。
六回目。
七回目。
そして。
「ぎゃああああああああああああ!」
絶叫。
家中に響いた。
「どうした輝実!」
バン!
兄が飛び込んでくる。
「…………」
「…………」
輝実。
薄着。
メジャー。
兄。
時が止まる。
「変態ぃぃぃぃ!」
「不可抗力だろ!」
メジャーが飛んだ。
「ぐへっ!」
顔面直撃。
続けてクッション。
「待て輝実、話を――」
「出てけ!」
さらにボディブロー。
「ぐふっ!」
兄を廊下へ追い出す。
バタン!
ガチャ!
鍵をかける。
外から兄の呻き声が聞こえてきたが、今の輝実にはどうでもよかった。
「胸が……」
メジャーを見る。
「ぜんぜん減ってない!」
むしろ。
体重が落ち。
アンダーが少し細くなった結果。
「前より目立ってるぅぅぅぅ!」
良い爆乳です。
「なんでよぉぉぉぉ!」
※※※
翌朝。
大学。
「…………」
どんよりした空気を背負った輝実が、廊下を歩いていた。
たゆん。
「裏切り者……」
たゆん。
「お前たちだけ元気になりやがって……」
ついに胸へ話しかけ始めた。
「テルミーン!」
後ろから友人の美咲が抱きついてきた。
「おはよ――うわっ、軽くない?」
「ふふふ……」
「顔色悪っ!」
美咲は輝実の正面へ回る。
「ちょっと、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「何を?」
「キャベツとか」
「ウサギ?」
そして美咲は輝実の胸元を見る。
「でもさ」
「何」
「テルミン、前より胸目立ってない?」
ぶちっ。
何かが切れた。
「ウキィィィィィィ!」
「えっ!?」
「ウキウキウキィィィィ!」
「テルミンが猿になった!」
輝実は歯を剥いた。
人間としての理性が危うい。
そこへ。
「おはよ」
裕和が通りかかった。
輝実と目が合う。
「…………」
「…………」
輝実の脳内に、あの日の会話が蘇る。
『オレは絶対、胸は小さいほうがいい』
『もっとすっきり』
『胸なんかなくていい』
ぷつん。
完全に切れた。
「こんな胸ぇぇぇぇ!」
輝実は自分の胸を両腕で抱え込んだ。
「もぎ取ってくれるわぁぁぁぁ!」
「何してんだお前!」
裕和が飛びつく。
「離して!」
「離せるか!」
「ヒロ君のためなの!」
「オレ!?」
「ヒロ君のために貧乳にならなきゃいけないのぉぉぉ!」
しーん。
廊下が静まり返った。
周囲の学生全員が裕和を見る。
「…………」
裕和の顔が真っ赤になる。
「お前……何言って」
「だってそうしないと嫌われちゃう!」
「誰がそんなこと――」
「私の胸なんて!」
輝実が一歩踏み出す。
「あれ?」
視界が揺れた。
「輝実?」
「なんか……床が……」
ぐらっ。
「おい!」
白目。
そのまま倒れる。
裕和が慌てて抱き止めた。
「輝実!」
完全に自爆である。
※※※
「…………」
白い天井。
消毒液の匂い。
輝実が目を開けると、大学の保健センターだった。
「起きたか」
「…………」
聞き覚えのある声。
横を見る。
「ひゃあっ!」
裕和。
輝実はものすごい勢いで毛布を引き上げ、鼻から下を隠した。
「な、なんでヒロ――水谷君がいるの!?」
「今さら名字に戻すなよ」
「どうしているんですか!」
「目の前で倒れた人間ほっとけるか」
「もう大丈夫だから!」
「全然大丈夫に見えねえよ」
壁の時計を見る。
一限はとっくに始まっている。
「授業は?」
「サボった」
「ダメだよ!」
「お前のせいだろ!」
「じゃあもう行って!」
輝実は毛布へ顔を埋めた。
「お願いだから……」
声が小さくなる。
「出てってよ……」
「…………」
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
廊下で胸をもぎ取ろうとした。
好きな男の名前を叫んだ。
しかもギャラリー多数。
もう大学を辞めたい。
今なら退学届をオンラインで提出できるだろうか。
「なあ」
裕和が口を開いた。
「一個聞いていい?」
「嫌です」
「聞くけど」
「人の意思を尊重して!」
「オレのために貧乳にならなきゃいけないって、何?」
「…………」
三秒。
「ぎゃああああ!」
輝実は毛布へ完全に潜った。
「忘れてぇぇぇぇ!」
「無理!」
「お願い!」
「無理だって!」
「一生のお願い!」
「今日だけで何回目だよ!」
毛布の中からすすり泣き。
「だって……」
「うん」
「ヒロ君、小さい胸が好きなんでしょ」
「…………」
「聞いたんだもん」
「いつ」
「廊下」
「あの日か!」
「胸なんかなくていいって言った!」
「言ったけど!」
「だから私、絶対無理じゃん!」
輝実は勢いよく起き上がった。
「見てよこれ!」
「見せなくていい!」
「減らないんだよ!」
「知らねえよ!」
「一週間頑張ったのに!」
「頑張る方向が完全におかしい!」
輝実の目に涙が浮かぶ。
「だって……」
「…………」
「好きな人のタイプになりたいじゃん」
裕和が黙る。
「髪だって切った」
「え?」
「ヒロ君、ショート好きって言ってたから」
「…………」
「音楽も聴いた」
「…………」
「ブラックコーヒーも飲めるようになった」
「…………」
「納豆も食べた」
「そこまで?」
「臭かった」
「無理して食うなよ!」
「全部ヒロ君のためなのに!」
言った瞬間。
輝実自身の顔が真っ赤になる。
「…………」
「…………」
裕和も赤い。
沈黙が落ちる。
「……バカ」
裕和が呟いた。
「なによ!」
「いや、本当にバカだろ」
「ひどい!」
「胸のサイズなんか変えようとすんなよ」
「だって!」
「オレが小さい胸好きなのと」
裕和は視線を逸らした。
「誰を好きになるかは別だろ」
「…………」
輝実が固まった。
「え?」
「好みと、実際に好きになる相手は違うって話」
「…………」
「ラーメンで言ったら」
「なんでラーメンで説明するの!?」
「わかりやすいだろ!」
「私ラーメンなの!?」
「じゃあ何がいいんだよ!」
「もっとロマンチックなの!」
「知らねえよ!」
輝実は混乱していた。
好きになる相手は別。
ということは。
え。
待って。
それって。
「それに」
裕和が言う。
「その髪」
「え?」
「似合ってる」
「…………」
輝実の脳が止まった。
「もう一回」
「嫌だ」
「お願い!」
「言わない」
「録音するから!」
「絶対嫌だ!」
輝実はベッドから身を乗り出す。
「ヒロ君!」
「近いって!」
「もう一回だけ!」
「うるせ――」
ぐるん。
毛布に足が絡まった。
「え?」
「あ」
輝実の身体が前へ倒れる。
「危なっ!」
裕和が支える。
その結果。
ふにゅ。
「…………」
「…………」
裕和の顔が。
輝実の胸に埋まった。
時が止まる。
五秒。
十秒。
胸の谷間からくぐもった声。
「……く、苦しい」
「ぎゃああああああ!」
輝実が跳ねる。
「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい!」
「落ち着け!」
「もう死ぬ! 私もう恥ずかしくて死ぬ!」
「死ぬな!」
「この世界から消える!」
「一週間まともに飯食わなかったくらいで大げさなこと言うな!」
輝実が後ずさる。
足が仕切りカーテンの脚へ引っかかる。
「わっ!」
「またかよ!」
ガシャーン!
豪快な音。
仕切りが倒れる。
だが。
輝実自身は床へ落ちなかった。
裕和が腕の中へ抱き止めていた。
「…………」
「…………」
今度こそ。
鼻先が触れそうな距離。
裕和の顔。
近い。
ものすごく近い。
輝実の心臓が暴れ出す。
どくん。
どくん。
どくん。
「ヒロ君……」
「輝実……」
輝実は。
そっと目を閉じた。
顔を少し上げる。
唇をほんの少し突き出す。
ついに。
長年の恋が。
今――。
ぱちん。
「痛っ!」
デコピン。
目を開ける。
裕和が意地悪そうに笑っていた。
「ばーか」
「な、何すんのよ!」
「何その気になってんだよ」
「なってない!」
「めっちゃ目閉じてたじゃん」
「目にゴミが!」
「保健室で?」
「入るときは入るの!」
「へー」
「その顔やめて!」
輝実は耳まで真っ赤になった。
裕和は笑いながら立ち上がる。
「じゃ、オレ授業戻るわ」
「う、うん」
出口へ向かう。
扉を開ける。
そして。
「輝実」
「なに?」
裕和は振り返らなかった。
「その髪型」
「…………」
「マジで好きだぜ」
バタン!
逃げた。
「…………」
輝実は固まった。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
「ぎゃあああああああ!」
毛布へ飛び込んだ。
「何それ! 何それ何それ何それぇぇぇぇ!」
裕和がどんな顔をして出ていったのか。
輝実には見えなかった。
ちなみに。
輝実以上に真っ赤だった。
※※※
その日の夜。
「輝実ー!」
「はーい!」
「晩ご飯よ!」
「今日なにー?」
「唐揚げ!」
階段を駆け下りる音。
どどどどどど。
「食べる!」
母親が驚いた。
「あら。ダイエットは?」
「やめた!」
「急ね」
「ちゃんと食べる!」
「最初からそうしなさい」
食卓。
山盛りの唐揚げ。
輝実は箸を握る。
「いただきまーす!」
一個。
「うまっ!」
二個。
「生き返る!」
三個。
「唐揚げ最高!」
そのとき。
スマートフォンが震えた。
メッセージ。
裕和から。
『ちゃんと飯食ってるか』
「…………」
にへら。
顔が緩む。
唐揚げの写真を撮影。
『いっぱい食べてます!』
送信。
十秒後。
『食いすぎ』
「うるさいなぁ」
口ではそう言いながら。
にやにや。
にやにや。
向かい側の兄が気味悪そうに見る。
「何ニヤついてんの?」
「別に?」
「恋?」
「死ね!」
「なんで!?」
「乙女の秘密を詮索するな!」
母親がため息をつく。
「元気になったなら何よりだわ」
「元気です!」
輝実は胸を張った。
たゆん。
「…………」
一瞬。
視線を落とす。
大きな胸。
一週間前なら。
《こいつさえなければ》
と思っていた。
今は。
「まあ」
唐揚げをもう一つ取る。
「いいか」
胸は減らなかった。
苦労だけした。
兄を殴った。
大学で発狂した。
好きな男の顔を胸に埋めた。
何ひとつ計画どおりではなかった。
だが。
恋のほうは。
ほんのちょっとだけ。
前へ進んだらしい。
※※※
翌週。
「ヒロ君!」
「うわっ!」
大学の廊下で、裕和を見つけた輝実が走ってくる。
たゆんたゆんたゆん。
「待って!」
「走るな!」
「なんで?」
「……なんでもねえ!」
「見て、今日の服!」
「見てる!」
「胸、小さく見える?」
「まだ気にしてんのかよ!」
「女心です!」
「知るか!」
裕和が逃げる。
「待てー!」
輝実が追う。
たゆんたゆんたゆん。
「だから走るなって!」
「なんでよー!」
「なんでもねえ!」
裕和の耳が真っ赤だった。
その理由に。
テルミンが気づくのは。
もう少しだけ。
先のお話。
おしまい♪




