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45襲撃

続きます。

 ハンナの家を後にする頃には、すでに外は真っ暗になっていた。

 背後でひとりでに掛かる鍵は、フィナンではないけれど、言葉にできない恐怖を感じさせるものだった。

 そのせいか、目の前に広がる暗闇が、一層怖いものに見える。

 道を照らす美しい精霊の宿り木は、王都の闇を切り払う。

 完全な闇とは程遠い。うっそうと生い茂る樹木の枝葉が月を隠してしまうような、あるいは雲が空の星さえも飲み込んでしまうような、そんな暗さとは違う。

 そこには確かな明かりがあって、けれど明かりがあるからこそ、闇が引き立って見えた。

「寒っ!」

 強い風が吹き付け、体から熱を奪っていく。

 ぶるりと震えたのは寒さのせいであって、決して恐怖のせいじゃない。

 ……わたしは、誰に何を言い訳しているのだろうか。

「なんだか、幽霊が出そうですよね」

「幽霊はきっと、いまだにどんちゃん騒ぎをしている人のところに向かうんじゃない? 楽しそうだ、って」

「幽霊も楽しいものに惹かれるんですかね」

「どうだろう。どちらかというと生者の声に引き寄せられるような……?」

 ちり、と首の裏の毛が逆立つ。

 寒さのせいじゃない。

 闇に沈む森に踏み込んでしまったような感覚。

 ――敵。

「……フィナン、気を保ちなさい。それから、わたしが指示を出したら全力で走って」

「え、ええ?」

 困惑しているフィナンに構っている余裕はない。

 この感覚は、かなり大きな命の危機が近くにある。いつからかわからないけれど感じられるようになったこの直感は、今思えば、精霊による支援なのかもしれない。

 闇の先へと目を凝らす。

 足はまだ止めない。歩みを止めると、気づかれるから。

 闇から、光のもとへ。精霊の宿り木の下に来たその時、前に人の姿を見つけた。呆然と見開かれた、氷の瞳。銀糸のような髪は闇の中にあって、わずかな光を帯びて妖艶な色味を持っていた。

 アヴァロン殿下が、どうして――まさか、彼が。

 思考の流れは、そこで断ち切られる。

 右斜め前方で、闇の中で何かが動く。

 わたしか、殿下か。

 とっさにポケットに手を入れて飴の包装を握って。

 闇の中から溶け出すように現れた敵は、殿下のほうへと走り出した。

「フィナン、向こうへ走って!」

 敵の数も能力も未知数。ただ、非戦闘員のフィナンを守って戦えるほど、わたしは器用じゃない。

 もつれそうになりながら走り出したフィナンは、明かりの多い大通りのほうへと逃げていく。

 その背中に投げられた刃を、とっさに発動した微風でそらす。

「走って!」

 背後を見て、真横を何かが飛んで行ったことに躓きそうになるフィナンの背中に叫び、彼女を守るような位置に移動する。これでフィナンは大丈夫。

「彼女には触れるなッ」

 再びわたしに攻撃しようとする相手を殿下が一喝する。そうして、男は興味をわたしから興味を失ったように殿下へと意識を向ける。

 敵は一人。

 全身に黒い布を身に着けた暗殺者のごときは、足音一つ響かせることなく、流水のごとく疾走して殿下へと襲い掛かる。

 闇の中、暗殺者の手が動く。

 静かな、それでいて鋭いナイフの一撃。

 艶消しされたそれは闇の中に溶けるようになっており、刃渡りの予想も困難で。

 けれどその刃は、殿下が降りぬいた剣によって阻まれる。

 目にもとまらぬほどの連撃が二人の間で繰り広げられる。

 前後左右、入れ替わり立ち代わり攻防を交代する二人に割って入るタイミングが見当たらない。

 魔法はいつでも発動できる。けれど、これほどまでに高速で動き回る男に、しかも殿下に当てないようにというのは容易なことではない。

 金属同士のぶつかり合う音だけが無数に響く。

 五月雨のように重なる音――そこに、怒号が混じる。

 フィナンの声、ではない。野太いそれは、巡回の騎士のもの。

 彼は戦闘中の二人の片割れの招待に気づいて目を見張る。

「殿下!?」

 騎士の声に、殿下の動きがわずかに揺らぐ。その隙をつくように暗殺者は強く踏み込んで。

 一瞬にしてバランスを立て直した殿下が、全力で剣を振りぬく。今の揺らぎは誘いだったらしい。

 まんまと殿下の策にはまった暗殺者は、手首のスナップを聞かせてナイフを投げつけることで殿下の攻撃を防御に回す。

 そうして次への攻撃をすべく暗殺者は深く踏み込んで。

「切り裂け!」

 長ったらしい呪文はいらない。今のわたしなら、ただ一言でいい。精霊がわたしの思考を読み取り、望む魔法を発動してくれるから。

 発生した風の刃はまっすぐに暗殺者の足へと襲い掛かり、深い裂傷を与える。

 血が噴き出し、体が傾いて。

 そこへ、殿下の剣がまっすぐに振り下ろされた。

 剣の腹で強く頭を殴られて暗殺者は動かない。素早く猿轡を噛ませたところで騎士に引き渡して。

「……ッ」

 緊張の糸が切れたように、殿下の体が膝から崩れ落ちる。

 両膝を地面につき、四つ足になった殿下はひどく荒い呼吸を繰り返している。

 命の取り合いを乗り越えた疲労?いいや、違う――

「来るな!」

 駆け寄ろうとしていた私と騎士を殿下が拒む。

「毒だ。木乃伊取りが木乃伊になる前に、すぐに応援を……スミレの乙女!?」

「黙ってください」

 知ったことか。殿下の制止を、どうしてわたしが聞かないといけない。殿下は、わたしのことなんて何一つ聞きやしないのに。

 風に乗ってわずかに香ってくるのは、確かに毒のにおい。ただし、強い麻痺毒。耐性がないと一週間くらいは手足にしびれが残るだろうけれど、その程度。森でよくとれる毒草を濃縮して得られるお手頃な毒物。

 ……殺しではなく誘拐となると、この男は暗殺者ではないのかもしれない。

「お、ぃ、スィレのぉおめ」

「すでに舌が回らなくなっているんでしょう?黙っていてください」

 おそらくはナイフに塗ってあった飛沫を浴びたのだろう。

「水を頂戴」

 精霊が応え、殿下の頭の上に水の塊が出現する。それは一瞬にして弾け、冷たい水が殿下に襲い掛かる。

「……何をしている?」

 ぬれねずみになった殿下から、ひどくとげのある声が聞こえてくる。

 ああ、そうだ。それでいいんだ。

 殿下は、わたしがただ恨んでいられる、心無い存在であってほしい。

 冷血で無慈悲な氷の王子。そうあれば、わたしは何も考えずに恨み続けられる。

 お飾りの妻になったことを受け入れられる――嘘だ。受け入れるなんて無理だ。けれど、気持ちを和らげることができる。怒りという形で吐き出すことができる。

 それは例えば、狩りによって鬱憤を晴らす形で。

 きっと、それができなかったからスヴェルトヴィナ・ルクセントは狂ったのだ。

 ハンナ曰く似ているというのは業腹だけれど、反面教師として彼女のことは覚えておこう。

「……この毒は水溶性です。特に揮発した液体が入ることによって麻痺が急速に進行します」

「……お、前は」

「私は、狩りにも使って慣れていますから。雑草のごとくどこにでも生えている草を煮詰めて作る毒ですよ。狩りのために匍匐前進でもしていれば擦り傷からしみます。今更この程度で麻痺にはなりませんよ」

「違……なぜ、だ」

 何が違うのか。

 考えながら濡れそぼった殿下に肩を貸す。冷たい水はあっという間にわたしの衣服にもしみてきて体が小さく震える。

「以前、一応助けてもらった恩返しですよ。これで貸し借り無しというわけです」

「そうじゃ――」

「まだ何か?」

 はくはくと、空気を求めるように口が動く。あいにくと読唇術なんていうものは身に着けていないけれど、それでも殿下が、まだ何かを問いたいらしいことは分かった。

「……貸し借り無しであれば、遠慮なく恨んでいられますから」

 これが殿下の求める問いへの答えではないとは分かっていた。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 夜の街を一人で動き回り、暗殺者に身柄を狙われるような阿呆を、こき下ろさずにはいられなかった。

 だって、そうでもしないと心臓が静まりそうになかったから。


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