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44お礼

お待たせしました。

アヴァロン王子殿下目線です。

 ひどく浮足立っていることは自覚していた。

「……とうとう頭がおかしくなった?」

 だが、この侮辱はいただけない。

 ナイトライト侯爵邸宅。足を運んだ俺を出迎えたエインの第一声に、思わず頬がひきつった――怒りに。

 とっさに放ちかけた殺意は、けれどエインの目の下にくっきりと浮かんだクマを見て引っ込む。

「忙殺されているな」

「まあ、な。ただ、楽しくはあるのが救いだ。……結婚ってのは、想像していた以上に大ごとだ」

 ぼやきながら招き入れたエインは、どこか覚束ない足取りで応接室へと進んでいく。

 その背中はまるで幽鬼のようで、今にも倒れそうだった。どこか狂気を感じたのはきっと、それだけ疲れた顔なのにも関わらず、目だけはぎらぎらと嫌に強く光っていたからなのだと思う。

 片手に持つ布袋を手にあがり、見慣れた応接室に入る。

 ソファに座れば、体は深く座面に沈む。

 自分で思っていた以上に、私も疲れているようだった。おそらくは、精神面で。

「……珍しく気を抜いた姿だけどどうした?」

 そう問いかけてくるエインもまた、ぐったりとソファに背中を預けている。背もたれの後ろへと片手を投げ出し、背もたれ上部に首をひっかけるようにして天井を見上げる姿は、私など比ではないほどにだらしない。

「少しは気を遣ったらどうだ」

「オレたちの間に今更そんな取り繕いはいらないな……」

「いや、私は王子だからな?」

「王子殿下は一人の女性の尻を追いかけまわして翻弄されることはないと思うんだよな……あぁ、そんな王子に仕えるのは嫌だな」

「…………それは、喝を入れてほしいという意味」

「言ってることと動きが違うんだよなぁ」

 こぶしを軽く握って見せれば、エインはぐったりとつぶやきながらとうとうもたれるのさえやめて座面に横たわる。

「はぁ……うらやましい、なんて死んでも言う気はないけれど」

「言ってるだろう?」

「少しだけ、結婚式が簡単だった殿下に憎しみを覚えるな」

「憎しみ……戯言を聞き流すのは今日だけだからな」

 怒りをぐっと抑えたのは、私が考えていた以上にエインが疲労困憊の様子だったから。

 さすがにここで追撃をするほど私は子どもではない。

「……疲れた時には甘いものだな」

「殿下が土産を持ってくるなんて、天変地異の前触れかな」

「親しき中にも礼儀あり、ということだ」

「いつもは何も持ってこないくせに」

 横に置いていた布袋を手に取って、少しためらう。こんな男にこれを食わせるのか、という疑問が心の中で膨れ上がる。

 何しろ、これはスミレの乙女と共に作った菓子なのだから。

 立ち上がって棚から皿を選び出し、袋の中から取り出したフレッシュ・ボールを置く。

 共に並んで料理をしたあの時間は、今では夢でも見ていたのではないかと疑わずにはいられないほどの、予想もしなかったことだった。

 幸福だった。

 すぐ隣に彼女がいる、そのことに、心臓の鼓動は時間を経るごとに早くなった。

 常に頭は真っ白で。彼女の動きに合わせて時折ふわりと香る香草らしき匂いに脈がおかしくなった。

 おかしな自分に困惑しながらも、けれど、多幸感が心を満たしていた。

 それはきっと、私が心のどこかで願っていた、けれど決してかなわないと思っていた時間だったから。

 王子たるもの、常にその立場に縛られる。

 生まれながらに王子として生きることを宿命づけられたこの身に自由はない。それでも、使用人たちが語る「幸せな生活」とやらを心の中で夢想するくらいは許された。

 彼女たちは口々に理想の男性を、理想の結婚生活を語った。

 お金持ちで、趣味に没頭させてくれる夫がいい。苦労しなければどんな男性でもいい。どこか現実的なようで、それでいて夢を見ている言葉の中の一つに、私は、自分の「幸福」像を構築する答えを得た。

 曰く、家事に手を貸してくれて、ともに歩いてくれるような、そんな夫が欲しい。

 ともに時間を過ごし、ともに支えあい、助け合い、ともに困難を乗り越えて生きていく。

 それは、結婚の誓いそのままの在り方。あるいは戦友。あるいは親友。あるいは、それこそが家族なのだろうかと。

 まだ若い使用人女性は、やや年上の同僚から「夢を見すぎだ」などと言われながらも幸せそうに笑っていた。

 そんな彼女に、私は多くの話を求めた。彼女の理想を知ろうとした。

 それを、自分の心が求めていた。

 ――それが、淡い己の初恋だと気づかぬままに。

 そうして彼女が語った話の中に、ともに台所に立って料理をするという話があった。生まれついて下級貴族の身であった彼女は手ずから料理をしており、その時間さえも共有できる男性を求めていた。

 それは、貴族男性に求めるものではなかった。結局彼女が結婚した子爵家の男性は料理をするような男ではなく、仕事に情熱を燃やして家庭を顧みない人間だった。

『それでも彼は、私を求めてくれました。……だからきっと、幸せなんですよ』

 彼女の、どこか諦めを含んだ言葉は今も覚えている。

 そうして、私の初恋は終わって。

 終わって胸の痛みを感じて初めて、私はこれが初恋だったのだと理解した。

 あの時の苦しみが胸を突き、幸福感を塗りつぶす。

 気持ちは沈み、そのままの勢いでフレッシュ・ボールを皿の上に出す。

 スミレの乙女とともに作った大切な品をエインに食べさせるのはやはりまだ受け入れがたく、けれどここへこれを持ってきたこと自体が答えであるようなものだった。

 ――はずなのに。

「……殿下?」

 菓子へと伸ばされたエインの手を、私は無意識の内に打ち払っていた。

 驚きと困惑を含んだエインの問いに答える余裕はなかった。理由など、答えられるはずがない。

 何しろ私自身、無意識の動きだったのだから。

 ひりひりと痛むらしい手をさすっていたエインが、再び手を伸ばす。

 私はやはり、その手を払いのける。

「何がしたいんだ……」

 じっとりとした視線が突き刺さる。ああ、私も同じ気持ちだ。

 私は、何がしたいのか。

「……これは、作ったのだ」

「へぇ?天下の王子殿下が料理……そんな趣味があったっけ?」

「いいや。無いな」

 じゃあどういうことか、エインが視線だけで問う。

 フレッシュ・ボールを取るのを諦めてソファにもたれた彼はすっかり聞く姿勢に入っている。

 疲れ切った顔は生気がなく、濁って見える瞳をしたエインの視線は、やや背筋に悪寒を感じさせるものだった。

「……これは、私一人で作ったものではない」

「へぇ?」

「…………スミレの乙女と作ったものだ」

「へえ!なるほど、一足飛びに進んだみたいだね。オレに報告がなかったことも、まあ許してあげるよ」

「どの立場でものを言っているんだ?」

「相談者としての立場だけれど?殿下、自分がオレに相談したことは覚えているよね?」

 ああ、覚えているさ。王城にスミレの乙女がいるという話は役に立った。ただ、スミレの乙女の正体を知るにも関わらず核心を突かない答えだけを口にするお前に相談したのは、間違いだったと思っているが。

「……答え合わせにはまだ足りないって顔だね」

「スミレの乙女はやはり、父陛下の女なのか?」

「…………はあぁぁぁぁぁぁぁ」

「なんだ、そのため息は」

「ため息でも吐かないとやってられないからな。本当、何をどう話して、どんなフィルターをかけて聞けばその答えから揺らがずにいるんだか」

 ずりずりと背もたれを滑るように姿勢を崩したエインは、目を細めて天井を見上げる。疲れ切った顔はもう話をするのもごめんだとばかりに感情が削げ落ちていた。

「……違うのか?」

「彼女が、何か言っていなかった?」

「…………すべては私のせいだ、といったようなことを話していたはずだ。だが、私には彼女にあんな目を向けられるようなことをした覚えはない」

 庭園で再会した日のことは今でも鮮明に思い出される。それほど強烈に、私の心に突き刺さったのだから。

「『わたしにこの人生を強いたあなたが、それを言うのですか』……彼女は、確かにそう告げた。だが、わからない」

「ははっ……なるほど」

 ひどく乾いた笑い声だった。感情のすべてが失われたような、空虚な声。

 のっそりと体を起こしたエインが菓子に手を伸ばす。それを、今度こそ私は止めなかった。

 何しろエインの目には、強い嫌悪と憤怒の光があったから。

「ん……うまい。さすがスミレの乙女。名付け親として、彼女にぴったりな名前を付けられたことは誇らしく思うよ」

「彼女にはスミレと呼ぶなと言われた」

「……へぇ?まあ、殿下相手ではそうなるだろうね」

「っ、それではお前が彼女をそう呼べば、スミレの乙女はその呼び名を受け入れるというのか!?」

 「もちろん」と、静かな声でエインはうなずいた。

 その確信も、冷めた瞳も、その目が私に向けられている理由もわからない。

 その、すべて突き放されたような目は、初恋の彼女が私に向けたそれに似ていた。

 ――殿下には、わかりませんよ。

 去り際。彼女に「こんな結婚でいいのか」「そんな夫が相手でいいのか」と繰り返し尋ねた私に対する答え。

 かつての棘は私の心をむしばみ、傷口はじくじくと痛み始める。

 失恋の痛み、ではない。

「……エイン、教えてくれ。私は、何を理解できずにいる?」

「それを聞くのはオレじゃなくてスミレの乙女相手だね。オレはこれ以上、殿下に協力はできない」

「ッ、何故」

「オレはマリーの婚約者であり、マリーの未来の夫だからだ。彼女を悲しませる選択をするわけがない」

 アマーリエ・トレイナか。彼女がスミレの乙女とつながりがあるという話は前に聞いた。友人だと。

「オレは殿下の右腕である以前に、マリーの男だ。マリーが傷つく未来は選ばない……殿下はもう少し、人を知るべきだね」

 そう告げて、フレッシュ・ボールをいくつか手に取ったエインは、立ち上がって部屋から出ていく。おそらくは、そのいくつかはトレイナ令嬢の口に入るのだろう。歩く足取りは、疲れを感じさせないくらいに軽い。

 結婚を控えた彼は忙しい。少ない時間を縫って私への応対をしていたのだから、責められない。責めてはいけない。

 どうして今更梯子を外すようなことをするのか。何がエインを、あるいはトレイナ令嬢を怒らせるようなことだったのか、せめてヒントくらいは与えてしかるべきだろう。

 そんな怒りを、向けてはいけない。

 深く息を吸い込み、力を腹の奥にためる。

 口からほとばしろうとする感情を抑え込み、目元をもみほぐする。

 どれだけ考えても、私には何一つわからない。

 スミレの乙女の正体も。

 スミレの乙女が、私に敵意か憎悪を向けるわけも。

 スミレの乙女にしたという、私の何らかの失態も。

 エインワーズとトレイナ令嬢を怒らせた訳も。

 脳が糖分を欲し、皿の上に一つだけ残されたフレッシュ・ボールを手に取る。

 スミレの乙女との、幸福な時間の結晶。奇跡的に手にしたあの時間が、確かに夢ではなく存在したことを示す、確かな痕跡。

 それを、ためらいながら口にして。

「~~~~~ッ!?」

 口内を蹂躙する強烈な苦みに吐き出そうとして。

 ためらい、慌てて紅茶でそれを胃に押し込む。

「ゲホ、ゴホ……薬草、か」

 おそらくは毒ではない。ただ、滋養強壮に良いとされる、私も摂取したことのあるいくつもの薬草が入っていただけ。

 文字通りの匂い消しの丸薬(フレッシュ・ボール)。これが混じっていた意図を考えて、気づく。

 これはおそらくは嫌がらせなのだと。溜飲を下げるための、彼女の一撃なのだと。

 つまり、私へのお礼参り(ほうふく)のようなもの。

 エインの口に入ればよかっただろうにと思いながら、ためらいながら食べ進める。えぐみはひどく、舌がしびれるような感覚こそあるものの、彼女の手作りだと思えば廃棄する気にはならなかった。

 何より考え方を変えてこれは忙しい私への彼女の気遣いだと思えば苦行も苦にならない。

 ……嘘だ。涙がにじむほどには苦い。

 すべてを食べ終えたころには、私はすっかり疲れ切り、だらしなくソファにもたれてぼんやりとしていた。

 思考は、いくつもの彼女の顔を思い出させる。

 初めて会ったときの、どこか楽しげに魔物と戦う姿。

 精霊の「いたずら」にあって、フードの下で驚きに目を見開いた様子。

 再会したときの困り果てた顔。

 毒を飲んだと平然と告げ、使用人の醜態から眼をそらす彼女。

 魔女の円卓とやらに参加し、楽しげに魔法を使うところ。

 すべてが彼女の顔なのだ。その顔は、けれど私を前にすると怒りと憎しみにゆがむ。

 そんな顔を向けてほしいわけじゃないのに。それでも、私をその目に映してくれているだけで心が温かくなる。

 目を閉じれば、すぐに彼女の姿が思い浮かぶ。

 今頃、友人だという女性を訪ね、フレッシュ・ボールを見舞いとして届けているのだろう。

 歳の離れた友人。一度会ったばかりの相手に見舞いを届けるほどには、彼女は心優しい人で。

 だからこそ、私との対応の落差に胸が痛む。

 答えは出ない。どうして私相手に、彼女はこんな対応をするのか。

 答えへの手がかりは目前に迫っていて、けれど心が、答えを手にすることを拒絶していた。

 王城の設備を使ったのだ。誰が使用許可を取ったか、それさえわかれば、きっとすぐに答えにたどり着く。その先に、スミレの乙女の秘密がある。

 けれど、その秘密を暴いていいのか、私にはもう、わからなかった。

 その秘密を知ったとき、見たくないものを見ることになるのではないか、そんな恐怖があった。

 だから、私は逃げてきたのだ。目をそらすために、せめて少しでも衝撃を和らげようと、エインを訪ねてきたのだ。

 結局、答えは得られなかった。それどころか私の罪を突き付けられただけだった。

 本当に、私は何をしているのだろうか。

 こんなことをしている余裕など、ないというのに。

 それでも、私の心はスミレの乙女のことばかり考えていた。

 すでに西日は水平線の向こうに消えている。空には半月が浮かび、世界を淡く照らしている。

 こんな時間に、彼女が出歩いているとは思えなくて。

 それでも、一目でもこの目に彼女を映したいと、足は市外に向かう。すっかり静まり返った市場に。

 きっと、彼女は見舞いのために出歩いていた。ならば、暗くなってから王城へと移動するかもしれない。その際、偶然を装って会うことくらい許されるのではないか――

「……?」

 ちり、と首筋の毛が逆立つ感覚があった。

 殺意あるいは敵意。

 一気に心が冷える。スミレの乙女を思い、浮かれていた意識はすぐに戦闘態勢へと切り替わる。

 町に等間隔に置かれた精霊の宿り木だけが世界を照らす闇の中、目だけを動かして周囲を探る。

 そうして、見てしまった。

 通りの向こうにいる純白の衣を身にまとった彼女、思った以上に近くにいたスミレの乙女に。

 精霊の宿り木の下にいる彼女と目が合って、そして。

 彼女が開いた口が言葉を紡ぐよりも先に、市街に不自然な突風が吹き抜けた。


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