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29満ちる

 満月の夜。

 一度ベッドの中に入りながら、わたしは期待と不安で全く眠れずにいた。

 もちろん眠る気なんてなかったからいいものの、そんなわたしをフィナンは少し不思議そうに見ていた。

 明かりの消えた部屋、しばらくベッドの中で転がり、人の気配が遠ざかったところで体を起こす。

 わたしに対する殿下の関心が低いというのは、今日という日においてはむしろプラスに働いた。

 わたしが普通の妃だったら、きっと部屋の外や使用人用の小部屋には常に護衛が待機していて、何か物音でも聞きつけると飛んできただろう。

 けれど蔑ろにされているわたしには、夜間にずっと侍っているような忠誠心の高い人はない。おかげで、気にすることなく夜に動ける。

 体を伸ばし、手早く服を着替える。明かりをつけなかったのは念のため。

 シャっとカーテンを開けば、外はいつもよりも明るい。雲一つない空には美しい月が輝いていて、遍く世界を照らしていた。

 真ん丸な月が降り注ぐ秋深い世界は、色づいた葉が光をすかし、闇の中にぼんやりと浮かび上がって趣ある姿を見せていた。

 闇と光。そこにまぎれたコントラストに胸を打たれながら、わたしはそっと動き出す。

 白い外套に身を包み、履きなれた革の靴を身に着ける。外套の下は、森に向かう際のいつもの防具。あとは腰にナイフを括り付ける。少し迷って、剣は置いていくことにした。

 今日は別に、戦いに行くわけじゃない。敵意を示さないためにも、余計なものは持っていかないほうがいい。

 革袋に入れるのは、沢山の甘味と、それから今日向かう場所のチケット。

 魔女を自称する魔法使いのハンナからもらった紙面は、今日も特に変わったところはない。月光を透かしてみても、何も変化はない。

 てっきり、月光を浴びると光の文字が生まれるような、そんな物語のような展開を期待していただけに拍子抜けだった。まあ、そんな童話の魔法使いのようなことをどうやって行うのだという話だけれど。

 精霊にどうすればそんなことが頼めるのか、少しもイメージできない。けれど、そうした作戦を練るのは楽しいし、ひょっとしたら精霊も、意外と面白がって話を聞いてくれるかもしれない。

「……後で挑戦してみるのもいいかな?」

 頭の片隅にメモをしながら窓を開く。

 ベッドの足に括り付けたロープを軽く引っ張って、ほどける気配がないことを確認する。

 長いそれを窓の先に垂らし、ロープを伝って降りていく。

 もう何度も挑戦しているし、慣れたもの。ここが三階だと考えれば少しだけ怖くなるけれど、わたしには魔法だってある。その気になればロープもなしに数メートルくらい飛び降りられるのだから、恐怖するほうがどうかしていた。

 それでも、吹き付ける冷たい風でこわばっていたのか。手がロープをしっかり握れずに滑った時には冷や汗をかいた。心臓がどくどくと早鐘を打っていて、口から飛び出してしまいそうだった。風にあおられたフードが、飛んでいく自分が落下するのを想像させた。

 着地して、恋しい地面に安堵しながら、わたしはいつものように森に向かって歩き出した。







「………ん?」

 感傷、あるいは、膨らむ思いを慰めるため。

 闇を切り払う丸い月を眺めながら、テラスに出て風にあたっていた。視界の先には、黒々とした姿を見せる精霊に見放された土地が見える。

 あまたの魔物が住まい、食らい合い、手が付けられない巣窟と化した世界。目と鼻の先にそのような恐怖の象徴があることに、昔はひどく恐怖したものだった。

 そんな私に、父はいつだって「次期国王たるもの恐怖を見せるな」と語って聞かせた。

 感傷を覚えることもないそんな記憶を思い出したのはきっと、今も私が彼女のことを考えていたからだろう。

 スミレの乙女。君は今、どうしているのだろうか。

 問いかけても、満月は答えてくれない。慈悲深くも、無慈悲に世界を照らすばかりで、私の心を晴らしてはくれない。

 等しく照らす月は、私の不安や孤独感さえも浮かび上がらせる。

「君は、今、どこにいるんだ?」

 今も、王城の中にいるのだろうか?父とともにいるのだろうか?やはり君は、父の愛人なのだろうか。

 いやな思考ばかりがぐるぐると渦巻く。吐き気がこみ上げ、それを強く目を閉じて飲み込む。

 落ち着け。次期王たる私が、この程度で動揺していてはいけない。

 ああ、そもそも、悪いのはエインだ。何やら意味深なことを言いながらも、答えを告げようとしない。あいつはきっと、スミレの乙女の正体を知っている。知っていて、はぐらかす。まるで、私が自ら答えに行きつかなければ意味がないというように。

 意味がない。私が、自ら答えを手にできなければ。

 それは、つまり、エインが告げても、嘘だといいたくなるような現実があるということだろうか。目を疑いたくなるような、否定したくて仕方がないような、私にとって残酷な真実が隠されている?だから、スミレの乙女も何も言わない?後ろめたいところがあるから?

 わからない。

 私にはもう、エインも、スミレの乙女も、わからない。

 わかるのは、私が、自分が思っていたよりもずっと感傷的で、女々しい人間だったということ。

 こうして月夜を見上げながら会えぬことで想いを膨らませる自分がいるなど、想像したこともなかった。

 ああ、会いたい。

 君に、会いたい。

 君のその、涼しげな菫色の瞳に、私を映してほしい。あの、町で抱き合っていた男だけではなく、私一人を映してほしい。

 わがままだ。強欲だ。自分のことばかり。けれど、この想いはもう、止まりそうにない。

 もし、君が、私のもとに来てくれるというのなら。君が、私と一緒に歩んでくれるというのなら。

 その時は、きっと、すべてを放り出してでも――

 それは、言ってはならない言葉だった。

 だから、飲み込む。

 テラスの柵にもたれかかり、体の奥底へと封印する。

 私の心の暗澹とした様子を示すように、月が陰り、世界が闇に覆われる。

 押し寄せる不安から逃げるように、強く、強く言い聞かせる。

「落ち着け、落ち着け。私は――ん?」

 それは、ほんの偶然だった。

 遠く、外壁の外に影を見た。それは王城から遠ざかるほうに進んでいた。王城の最上階からは、豆粒のようにしか見えない小さな影。

 王城からまっすぐ、精霊に見放された土地へと進む――人影。

 柵の隙間から、目を凝らして相手を見る。迷いのない足取り。わずかに揺れる、外套らしい影。

 強い風が吹き付け、体が震える。流されていく雲が月を開放し、世界を満月の明かりが照らす。

 遠くの人影が闇の中に浮かび上がる。清純さを思わせる、真っ白なローブ。フードはかぶっておらず、頭頂部には金の髪が揺れていた。

「…………まさか」

 彼女と初めて会った日のことを思い出した。

 彼女は一人、森にいた。凶悪な魔物に追われ、森を走っていた。

 白いローブをはためかせ、飛び降りてくる彼女。そのフードの下から覗いた、スミレの瞳。

「まさか、君なのか?」

 こんな時間に、一人、森に行くのか?今そこにいるのは、本当に君なのか?

 ドクン、ドクンと強く心臓が鼓動を刻む。

 心が確信を告げる。彼女に相違ないと叫ぶ。

 事情は分からない。けれど彼女は、一人で森に入る力量がある。若くも優れた魔法の腕がある。死を過度に恐れることなく魔物に対峙できる心の強さがある。

 けれど。

「……君を、一人にしておけるものか」

 部屋に飛び込み、防具に身を包む。腰に剣を提げ、黒い外套をひっつかむ。

「……仕方ない、か」

 複数人で向かう選択肢は選べない。それでは、彼女を見失ってしまう。そもそも、外出が許されるかどうかも定かではない。

 私は王子だ。次期国王だ。危険に、不十分な護衛とともに身を投じるなど許されない。ましてやここで下手に動けば、父に話が回り、私が患う病のことを知られてしまう。

 それは、不都合だった。

 だから私は、隠し通路を使って部屋を脱走する。

 壁際のブロックの一つを強く押し込む。

 ガコン、という小さな音に肝が冷えた。外で護衛をしている騎士たちに聞こえやしないだろうかとひやひやするも、ノックの音はしなかった。

 胸をなでおろしながら、無音で開いた扉をにらむ。

 その先に広がる闇を見て、明かりを手に一歩を踏み出す。

 恐怖はなかった――いや、今この時、彼女を失ってしまうかもしれないという恐怖があった。

 魔物への恐怖はなかった。

 ただ、スミレの乙女を見失いたくないという思いが、彼女の後を追わなければならないという信念が、私を突き動かしていた。

 一人、城を抜け出し、向かうのは王城の背後に広がる広大な自然。

 精霊に見放された土地。彼女が進んだ先を目指して、私は足早に進んだ。


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