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28招待状

「……奥様?」

「何かしら?」

「いえ、少しぼんやりとされていたようでしたから。……お疲れですか?」

 確かに、少しよそ事を考えていたかもしれない。

「そうね、フィナンとのデート中に他事なんて考えていてはだめよね」

「で、デート!?」

 声をひっくり返して叫ぶフィナンの反応が面白い。

 くすくすと笑っていれば、揶揄われたと理解したフィナンが頬を膨らませて不満を訴える。

「こういうところが可愛いのよね」

 頬をつつけば、ぷしゅう、と間の抜けた音が響く。それが恥ずかしかったのか、フィナンは湯気が立ち昇りそうなほどに顔を赤くする。

 目は潤み、あちこちに揺れ動く。

 その姿を、わたしはにやにやと眺める。

 やがてフィナンは気持ちを落ち着けるべく深呼吸をして、近づいてきた王城へと目を向ける。

「今日は満足されましたか?」

「ええ、いい気分転換になったわ。これでしばらくは鳥かごの中の鳥の生活を受け入れられるわ」

「それ、は……」

「少し意地悪だったわね」

 暗い表情をするフィナンは、何も言えずに黙り込む。

 王城でのわたしは、まさしく鳥かごの中の鳥だ。

 腫れ物。あるいは、見世物。

 王子殿下に粗雑に扱われる、形ばかりの妃。

 使用人からは見下され、毒を盛られ、王子殿下は近づきもしない――その、はずだった。

 スミレの乙女――どこか悲痛な、恋焦がれる声が耳の奥に蘇る。

 わたしの聞き間違い。その、はずなのだ。

 だって、そうじゃないと、私自身が報われない。ううん、わたしは、殿下に、ひどい人間でいてほしいんだ。

 だって、形ばかりの結婚で済ませて、近づきもしなくて。

 苦しかったのだ。辛かったのだ。わたしがどれだけ、彼のせいで傷ついたか。

 その原因を殿下だと思っていれば、少しは救われた気がした。仕方がないのだと、あきらめがついた。

 あるいは、せっかく日常になじんだ、こっそりと抜け出して魔法を使うこの生活が。

 魔法を使える幸せすらもが、奪われてしまいそうで。

「奥様?」

「……なんでもないわ。やっぱり、少し疲れたわね」

 早く休みたい。

 けれど、わたしたちが向かうのは、少しも気の休まらない場所。

「それじゃあ、こっそりと忍び込みましょうか。大丈夫。もう慣れているわ」

「…………どれだけ抜け出してきたんですかぁ」

 泣き言に、わたしは笑った。

 ああ、話し相手がいることが、これほどまでに楽しいだなんて。


 王城に戻り、いつものように自室に引きこもる。ここは窮屈で、居心地が悪くて、けれどフィナンという味方ができたおかげで、少しはましだった。

 フィナンが入れてくれた紅茶に、そっと口をつける。

 香りに害はない。舌の上で転がした感じに、しびれるような感覚はない。

 一口飲みこんで、しばらく待つ。

 そうしてようやく、それなりに無害な可能性が高いと判断できる。

 そうとは気づかれないように毒見をしていても、される側であるフィナンにはわかってしまう。少し悲しそうに、そして申し訳なさそうに目じりを下げる彼女に、わたしは視線を向けない。

 下手に彼女との関係を周囲に示すことはできない。

 フィナンはわたしの使用人の中で一番身分が低い。つまり、他の使用人にいいように扱われる立場。

 だから、わたしの紅茶に毒を入れた。それは殿下の登場によってひどくややこしいものになってしまったけれど、かろうじて彼女は無実になった。

 私が、何とかとりなしたから。

 それは逆に見れば、わたしがフィナンにほだされたように見える。そうすれば、フィナンはもっと要求を増やされて、わたしを害するための命令を下される。断れば、フィナンの実家が、あるいはフィナン自身がタダでは済まされない。

 だから、波風立たせず、日々を過ごす。

 ただの主人と、使用人として。

 ああ、本当に窮屈だ。

 今日一日楽しんできたというのに、すでに心は鬱屈していた。

 苦しみの材料があれもこれもと投下され、心という鍋の中でぐつぐつと煮詰められ、まがまがしい苦しみの形に昇華する。

 なんとなく手を動かした先。隠し持っていた紙きれがくしゃりと音を立てる。

 誰も近くにおらず、わたしを見ていないことを確認してから。

 そっと、その紙きれを取り出し、眺める。

「……魔女の円卓」

 それは、去り際にハンナから渡されたものだった。

 魔法使いにして、自らを魔女と称する老齢の女性。

 自分が魔法使いだと言えないわたしを気遣って、フィナンに気づかれないようにこの紙片を渡してきた彼女の意図はわからない。

 けれど、なんとなく想像はできる。

 これはきっと、魔法使いのコミュニティへの招待状。

 魔法使い、あるいは魔女たちが集まり、話をする場につながるもの。

 ハンナと同じように、息をするように魔法を使える人が集まっているのだろうか。戦闘ではなく、日々の生活の中に魔法を組み込んだ人たちの魔法を見ることができるのだろうか。

 紙面に刻まれているのは、「月の満ちた日の夜、精霊無き世界へ」という短い言葉。

 精霊無き世界――それを、精霊に見放された土地のことだと思うのは、わたしが運命というものを信じている、夢見がちな女だからだろうか。

 ただ、信じてみたくなった。願ってみたくなった。

 彼女たちならば、わたしのこの鬱憤を少しでも晴らしてくれるのではないかと。

 それから、現実を忘れて楽しい時間を過ごせるんじゃないかと。

「月の満ちた夜……まだ、先ね」

 窓の外、そこには半月から少し膨らみ始めた、いびつな月が見える。まだ、その月が膨らむには遠い。

 その日まで、私はまた、この牢獄のような場所で生きていかないといけない。

 不安と、苦しみと、怒りが、ぐちゃぐちゃになってわたしの心を責め立てる。

 それから、王子殿下への罵声を飛ばす。

 あなたが、わたしを見ていてくれたら――

 いいや、そんなの、期待するだけ無駄だ。

 あの氷の王子は、愛なんて知らない。

 わたしを愛してくれる人じゃない。

 そっと、右手の甲を、布の上からなでる。

 精霊のいたずら。それが、私の人生のすべてを変えた。

 もし、わたしがこの烙印を押されると知っていたら。

 それでもわたしは、魔法を使わずにいられただろうか。

 ――きっとわたしは、同じ道をたどる。

 糧を得るために精霊に魔法を使ってもらって、魔法に失敗して、いたずらされる。

 この手は、わたしの罪の証。

 戒め。

 ただ、かなうことならば。

「人並の幸せくらい、願っても……」

 言葉は、近づいてくる使用人に気づいて止まる。

「夕食の時間です」

 告げるそこには、そこはかとない悪意が垣間見える。

 アヴァロン王子殿下の妃の座をかすめ取った女――そう、思っているのだと思う。

 そんなに欲しいのなら、あげるのに。

 そうできない自分が、ひどく無力に思えた。


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