23エインワーズとアヴァロン
一晩、まったく寝付けずに時間が過ぎた。
頭を占めるのは、スミレの乙女のこと。彼女の拒絶を思い出すたびに、心が悲鳴を上げる。
いつだって、私と彼女はすれ違う。彼女のことを勘違いして怒りをあらわにしたことがあった。彼女が、本当は心優しい人物だと、そう思いなおしたつもりだった。
けれど、スミレの乙女は理不尽なまでに私を突き放す。
一体、私が何をしたというのだろう。本当に、何かをしたのだろうか?まさかスミレの乙女が何か誤解をしているのでは――
落ち着け。スミレの乙女のことになると思考が突っ走りがちになってしまう。冷静に、冷静に考えなければならない。
もう眠ることができる気はしないため、改めてスミレの乙女について考え直すことにした。
まずは、スミレの乙女との出会いについて。
彼女は精霊に見放された土地に、まるで散歩でもするかのように踏み入っては魔物と戦っているようだった。実際、それくらいの頻度で騎士たちから報告が上がっていた。最近では頻度こそ減ったが、やはり時折目撃情報が入る。
スミレの乙女は、魔法使いだ。それも、若いながらにかなりも腕前。老獪な、精霊との意思疎通を何十年と行ってきた者を思わせる、完璧な疎通を図ることのできた攻撃。それは美しく、思わず目を奪われる魔法だった。
そして、スミレの乙女は王城で目撃された。なんでも使用人が毒を盛ろうとしたとかで、逆にその毒入りの紅茶を使用人に飲ませるような人間だった。残虐かと思えば、事実は違うようだった。彼女が王城にいて、しかし私の知らぬことであるということから、私は彼女が陛下の――父の愛妾ではないかと考えた。
わからないでもない。スミレの乙女は麗しい。その理性を宿した淡い紫の瞳が私を映すだけで、どうしようもなく舞い上がる。薄い唇で私の名前を呼んでもらいたくて仕方がなくて、いつ私の名を呼ぶのかと、唇から目が離せなくなる。揺れる長いまつげの些細な動きに心揺さぶられ、黄金を溶かしたような髪は、なるほど、彼女をこれ以上ない美へと成すことに成功していた。
他の誰にも、彼女を奪われたくない。他のどんな男をも、その目に映してほしくない。私は、狂おしいほどに彼女を求め、彼女がその目に映すだろう誰かに、激しく嫉妬していた。
そうして、その瞬間を、見てしまった。軽薄な男と、スミレの乙女がともに歩いていた。その男は婚約者がいたらしく、引きずられながらもそれでもスミレの乙女に愛を叫んでいた。
このままではいけないという、強い焦りが生じたのだ。彼女のための装飾品探しをしている場合ではなかった。一刻も早くこの胸の思いを吐露して、彼女に私を見てもらわねばならない。そうせねば、彼女はほかの男のもとへ行ってしまう。ああ、その両翼を手折り、籠の中に閉じ込めてしまいたい――傲慢で、冷酷な男が顔をのぞかせる。
違う。私は、スミレの乙女に愛されたいのだ。強制された、愛なき関係に、中身無き言葉に興味などない。
ただ、いとおしむようにその唇で名前を呼んでほしい。熱くうるんだ瞳で、私を映してほしい。私と、ともにいてほしい。ただ、それだけなのだ。
これが、恋か。これが、愛なのか。
そんなもの、わからぬと思っていた。そんなもの、自分は決して手に入れられないと思っていた。けれど今、手を伸ばすところに、届く距離に、彼女がいる。この千載一遇の好機を逃しては、私は――
そうして、気づけば朝が来ていた。何度、スミレの乙女について思考を巡らせたことだろう。同じところをぐるぐると回り続けたことだろう。それはまるで、果てしない円運動を続けるラットのごとき生産性のなさ。
窓の外で、鳥たちが朝を歌っていた。窓を開けさせると、湿り気を帯びた涼しい影が室内に舞い込む。その風に、ふと、花の甘い香りを感じた。
そういえば、スミレの乙女と王城で出会ったのは、庭園でのことだったか。
もし今赴けば、彼女はそこにいるだろうか。一人、あるいは毒を盛るような使用人とともに、寂しく花を見ているのだろうか。あるいは陛下か、はたまたほかの誰かと、一緒に笑みをたたえながら花をめでているのだろうか。
彼女の隣に私ではない男が立っている――それを想像しただけで、心臓が嫌に軋んだ。
今すぐに、いかねばならない。たとえそこにスミレの乙女がいないとしても、居ないことを確かめなければ、執務にも手がつかないことは確かだった。
手早く着替えを澄ませ、食事もそこそこに部屋を出る。執務室へ向かうのは後だ。まずは庭園、そこに彼女の姿がないことを確認せねばならない。
あのガゼボに、今日も彼女はいるのだろうか。もしいたら、彼女は私を見てどのような反応をするだろうか。
冷たい目で見てくる。それとも怒りがにじんだまなざしを向けてくるのだろうか。
愛を宿した目でないことは確かだ。
護衛たちを入り口で控えさせ、庭園へと足を踏み入れる。誰かが庭園を使っている様子はなかった。使用しているのであれば、園の入り口に使用人を置くのが普通だからだ。
朝露にきらめく青々とした葉の中、月下美人のつぼみが開こうとしていた。その高貴な姿は、どこかスミレの乙女を思わせた。いや、やはりスミレの乙女には、素朴な野花が似合うだろうか。だが、手足のように精霊を動かすあの立ち居振る舞いには、私にさえ出しえない高貴と色香があった。それに、騎士たちもまた飲まれていたのだから。
「……いない、か」
庭園は静かだった。心地よい微風が吹き抜けるそこには、会話の音一つしなくて。
ガゼボへと向かう入り組んだ道を行きながら、少しでも早く彼女がいるかと確認しようと、背伸びをしてみたが、背の高い薔薇棚に遮られて向こうが見えない。庭師に棚を下げるように言っておくべきか?いや、だが人目につかないことによって落ち着いた空間が作れているということも……もどかしさを感じながら、足早にアーチをくぐり、ガゼボの方へと曲って。
私がその道へと出ると同時に、はるか先、通路の奥を曲がる一つの影が見えた。
直感的に、彼女だと思った。根拠などなく、ただ確信だけがあった。
「スミレの乙女!」
気づけば、私は走り出していた。これだけ全身全霊で走ったのはいつぶりのことだろう。戦いのときにも確かに走るが、これほど後先考えない疾走をした記憶など久しくない。
「アヴァロン!」
どこか怒りをはらんだ声が聞こえた。それは、エインの声。しかもあろうことか、彼はガゼボに座っていた。
もしや、そこにスミレの乙女が座っていたのか?お前と、密会をしていたのか?愛する婚約者がいるお前が?
そもそも、お前はどうしてそんな目で私を見ている?私は、今はただスミレの乙女の顔を見ることができればいいのだ。それだけで――
エインを横目に、走り抜ける。まっすぐに、彼女が消えた、薔薇棚の先へ。曲がり角。この先に、彼女はいるはずだ。
耳の奥で激しい鼓動が聞こえていた。それが疾走のせいか、あるいは緊張のせいか、よくわからなくなりながら曲がって。
果たして、そこにスミレの乙女の姿はなかった。
「……幻覚、か?」
ふらつきながら、数歩進む。その先は、長い一本道。仮にスミレの乙女が健脚だったとして、私を振り切れたとは思えない。
つまり先ほど見えた気がした白い影は、私の見間違い。幻覚。スミレの乙女に会いたい一心で私が作り出した、幻。
「一目、一目だけでよかったのだ。ただ、お前に会えれば、それだけで……」
汗ばむ額をぬぐいながら、もう一度目を凝らす。
そこにはやはり、誰の姿もありはしなかった。
肩を叩かれる。エインが、鋭い目で私をにらんでいた。
「どうした?」
「どうしたはオレのセリフだろ?いきなり全力疾走して、気でも狂ったのかと思ったぞ」
軽口は、けれど今日に限っては確かな感情が宿っていた。何かを隠そうとするように、エインはやや早口でまくし立てる。一度医師に診てもらったらどうだ。最近どうにも根を詰めすぎじゃないか――
どこか安堵しているように聞こえるのは、私の気のせいのはずだ。
「エイン」
「……なんだ?」
「お前は、先ほどまで誰かとともにいたか?例えば、女性と」
「おいおい、マリー一筋のオレが浮気をしたと、そういいたいのか?」
「…………違うのならばいい。私の、見間違いか」
そうであってほしい。もし、エインとスミレの乙女が思いを通わせていたら――私は、おかしくなってしまうだろう。
「なぁ」
「なんだ?」
自分から話しかけてきたにも関わらず、エインは口を閉ざしたまま、じっと石畳を見つめている。そこに何かあるのかと思ったが、特に何もありはしなかった。
「少し、気が変わった。オレはこれ以上応援はできない……だから、自分で動いてくれ」
それだけ言って、エインは背を向けて歩き出した。
その背中を見送りながら、確信した。やはり、エインは先ほどまで、スミレの乙女と会っていた。そしてきっと、彼女に思いを寄せてしまったのだろう。
きっと、そうだ。
私は、どうすればいい?スミレの乙女の幸福を祈って身を引く――引けるのか?
これほど、身が焼焦げそうなほどに思いは膨らむばかりなのに?この炎が心を焦がし続けるのに、耐えろというのか?
なんて残酷なのだろうか。
恋とは、こんなにも苦しまなければならないものなのか?




