22朝の庭園
朝露したたる庭園には人一人いない。使用人も下がらせたから、今この場所はわたしが独り占め。
色とりどりの花々は、露のせいで少し香りが弱まっている。むせ返るような甘い匂いも嫌いではないけれど、今日のすさんだ気持ちにはこのほのかな香りが落ち着く。
昨日は逃げるように王都から飛び出して森で魔物狩りにいそしんだ。というのも、動物を狩ることができるほどの精神的な余裕がなかった。
動物は人の気配を感じると大抵逃げていくけれど、魔物は向こうからやって来る。すさんだ心では自然に溶け込むなんてできなくて、動物たちはわたしの存在に気づくとすぐに逃げて行ってしまった。
お陰で昨日の結果は魔物一匹。しかも巨大な蜻蛉。流石に食べる気にもなれなくて、リフレッシュとは程遠い結果に終わった。
それでもこうしてお城の中で気を抜けるくらいには心は落ち着いていた。
かすかに聞こえて来た足音に背筋が伸びる。ただ、薔薇棚の向こうから現れた姿を見てすぐに肩から力が抜けた。
「おはようございます。エインワーズ様」
「おはよう。相変わらず言葉が固いね。マリーと同じくらい気やすく話してくれていいんだよ?」
軽薄な笑みを浮かべる遊び人のごときエインワーズ様は、空席だったわたしの対面に座ってからハッと周囲を見回した。
「もしかして誰かを待っていたかな?」
「いえ、庭園を独り占めして楽しんでいたところです」
「そうか。独占できなくして悪いな」
頭を下げるエインワーズ様。慌ててお顔を上げるように言えば、上を向いた顔にはいたずらめいた笑みが浮かんでいた。
「おからかいになりました?」
「ああ。随分と緊張しているようだったからな」
緊張している?
言われて、体にひどく力が入っていることに気づいた。どうしてかと首をひねりながら周囲を見回す。今、この場にはエインワーズ様以外は誰もいない。周囲には朝露に濡れる青々とした枝葉と、花開こうとするつぼみたち。であれば、彼に見られているから?
でも、思い返せば彼が来る前からわたしは緊張していたような気がする。
「オレはてっきり人を待っているものと思ったが」
「……っ、誰を待つのですか?今日は、アマーリエは王城へは来られませんよね?」
「そう聞いている。式の準備で忙しいらしいからな。それはもう真剣な顔で、当日のドレスに修正を入れて、会場の設営に口を出してと精力的に動いているさ。全部、オレとの結婚のためだ」
「惚気ですか」
「ああ、惚気だ。可愛いだろう?特に、オレとの結婚式のために張り切っていることを減給すると、頬を赤らめて、上目遣いに『ダメ、なのですか?』なんて聞いてくるんだ。心臓が一瞬止まったぞ」
エインワーズ様を前にしたアマーリエを想像する。それはもう、猫かわいがりたくなるような姿だと思う。気の強いように見える彼女は、その実、とても乙女だ。凛とした仮面も彼女の一面ではあるけれど、その内側には優しくて可愛らしいアマーリエがいる。
「……わたしも、結婚式に行けたらいいのですけれど」
言って、慌てて口を手でふさいだ。
「何を言ってるんだ?マリーがクローディア嬢を招待しないわけがないだろう?」
「それは、そうですね」
それは、わかっている。そうじゃなくて、わたしは、ふっと胸にこみ上げた昏い感情に、そんな思いを友人に対して抱く自分に、怒りを覚えていた。どうしてこんなことを考えているのかと、自問自答を繰り返す。
――どうして、うらやましいだなんて。
わかっている。わたしだって、いつか結婚して、それなりに夫と幸せに生きていくのだと、そう思っていた。結婚式では家族を含めた大切な人達に祝福されて、期待で胸を膨らませて。
そんな日々は、失われた。王子殿下は、おざなりな結婚式にとどめ、わたしは瑕疵付き令嬢にされた。
固く目を閉じて、必死に醜い思いを胸の奥底に鎮めようとする。けれど、そうすればするほどに、一層心は痛み、苦しみが大きくなる。
幸せに、なりたかった――まるで、もうわたしは、決して幸せを手に入れられないと、あきらめているようだった。
別に、幸せなんてたくさんあるのに。例えば、今の生活だって、こっそりと精霊に見放された土地に行って思うままに魔法が使えるのだから、十分なのだ。魔法を使って狩りができているのだから、楽しい生活で、幸せな、はずなのだ。
目を、開く。じっと見つめてくるエインワーズ様が、瞳で告げる。話してみろ、と。
その包容力に、心臓がトクンと弾む。多分、時折こうして見せる真剣なまなざしに、アマーリエは虜になったのではないか、そんなことを思った。
自然と、口は動いていた。わたしが、意識して止めることもできない間に、本音がぽろりと零れ落ちる。
「……羨ましいと、そう思いました」
「羨ましい?」
「はい。幸せそうなアマーリエが、羨ましいと」
こんなにも愛されて、愛する人と一緒になれる。輝かしい未来に期待を膨らませ、一世一代の大舞台に気合を入れる。結婚式で、きっと二人は多くの人から祝福を受ける。幸せになるんだと、そういってもらえる。
わたしとは違って。
「別に、住めば都といいますか、今の生活にだってそれなりに満足しているんです。でも、比べてしまった。自分も、アマーリエのようにあれたらと。こんなわたしでも、愛する人と夫婦になって、幸せに暮らすことを夢見ることくらいありましたから」
それはもう、はるか昔のように思える。精霊のいたずらをこの身に受けた以上、普通の結婚はできないと半ばあきらめていて。それでも心のどこかで「そんなことは関係ない」と、一途に愛してくれる人が現れるのを期待していた。
「友人の結婚に嫉妬するなんて、ひどい女ですよね?」
「いや、ひどいのはクローディア嬢の夫だ。この場限りとして言うが、正直アヴァロンに物申したいところでね。女性の大舞台を台無しにしたあいつに思うところがないわけじゃない」
「その言葉は、聞かなかったことにしておきますね」
「……じゃあ、この際だからもっと言っておこうか。オレは、もっとあいつが苦しめがいいと思う。クローディア嬢が苦しんでいる以上に、苦悩すればいいと思う。だから、今のあいつを見ながら、内心でざまぁみろとせせら笑っているわけだが」
「それは、どういう――」
「おっと。これ以上は秘密だ。ただまあ、アマーリエを愛でる同志である君に、いつか必ず幸せが訪れることを予告しておこう。……そう遠くないうちに、な」
何を言いたいのだろう?まさか、アヴァロン王子殿下が改心するとでも?妻であるわたしの顔すら覚えていないような人が?おかしな呼び方でわたしに声をかけてくるような人が。
まさか、あり得ない――
その言葉を口にできなかったのは、きっと、殿下の瞳を思い出したから。
焼け焦げそうなほどの熱をはらんだ、あの目を。
ぞくり、と体に走ったのは悪寒か、あるいは――
思考の海に沈むわたしの心を落ち着けるように、さわやかな風が吹き抜ける。湿り気を帯びた冷たい風に乗って、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
甘ったるいと顔をしかめるエインワーズ様が、小さくくしゃみをした。




