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殿下は移動中も確認する書類があるらしく、終始それに目を通しては、従者に指示を出しているようだ。私も殿下に渡された最新の王都の貴族リストに目を通し、近々行われる茶会や夜会に備える。時折殿下は気が付いたように、こちらに目を向け、疲れていないか、不便はないかと尋ねてくれる。
馬車が走り出してから数刻が経ち、少し喉が渇いたなと思っていると、殿下がすっと水の入ったコップを差し出してくださった。
「殿下自ら用意していただくなど……申し訳ありません。」
王族に飲み物の用意をさせてしまうなど恐れ多い。本来なら臣下の私が気遣って、馬車の外の従者に頼むことだ。
「かまわない。外も急がせているせいで、忙しないだろうしね。」
殿下は自分のコップにも魔法で水を注ぎながらそう答える。本当に全く気にされていない様子だ。
「本来であれば私がしなければならないことですのに、申し訳ありません。」
殿下のその気遣いに、ますます申し訳ない気持ちになってしまう。
「レイシア嬢の魔力についてはもう報告を受けているよ。こういうのはできる者がすればいいだけだ。」
殿下は微笑みながらコップに口をつける。
そう、私は魔法が使えない。
しかしそれは生まれつきではない。前世を思い出した5歳頃から使えなくなったのだ。
基本的に我が王国は一部の王族が強い魔力を持つ。そしてそれに伴い貴族も魔力を持つものが多い。ただ実際に魔法を使えるものは半数ほどだ。私のように、年齢を重ねるうちに魔法を使えなくなる者も少なくないらしい。ただ私の場合は間違いなく前世を思い出したせいだろう。
魔力は魂に帰属すると言われている。前世と現世の記憶が混ざって、私の魂は変質したのだろうと思う。急に魔法が使えなくなっても怪しまれなかったことに感謝したい。
「それと私のことはフィリップと名前で呼んでくれ。王太子殿下では婚約者としては少しよそよそしいからね。私もレイシアと呼ばせてほしい。」
「もちろんです。ただ私が殿下をお名前で呼ぶのは……いえ、慣れるまで少々お時間をいただいてしまうかもしれませんが、よろしいでしょうか?」
「もちろんさ。早く慣れてくれれば嬉しいけどね。」
殿下からの笑顔の圧に押されれば、断ることなど不可能だ。
*****
そうこうしているうちに宿に着き、その日は何事もなく眠りについた。
そして次の日、いよいよ王都に入るというタイミングで、殿下が口を開いた。
「王宮に入ると、おそらくすぐに弟からの接触があるかと思う。正直、弟はこの婚約を余り好意的には捉えていないらしい。」
第二王子殿下が婚姻に前向きでないというその言葉に、少し疑問を感じる。
「第二王子殿下の婚約者様が変更される可能性がなくなるにも関わらず……ですか?」
殿下は表情を固くしたまま答える。
「そうだ。というよりはこの婚約に限ったことではない。弟は以前から私の婚約者の選定に厳しかった。王家の中の誰よりも。以前の公爵家の令嬢のときも、聖女のときも、弟は個人的に詳細な調査を行っていたらしい。今回もあなたに何かしら詮索をしてくる可能性がある。」
一瞬これを聞くのは……と急遽したが、王宮に入る前に確かめておかねばならないだろう。
「―――失礼を承知で伺いますが、第二王子殿下が殿下の王太子としてのお立場を……と考えてらっしゃる可能性はありますか。」
「それはない。」
殿下は即答した。
「それならば聖女が失踪した時点で何かしら行動を起こしていただろう。聖女の失踪を私の責任に転化することは簡単だっただろうから。しかし弟は第二王子派がそのように画策しても全くのらなかったという。それを考えても弟が王太子の立場を望んでいるとは考えにくい。
―――むしろ弟は幼い頃から、それこそ私が正式に王太子に任命される前から、自身の臣籍降下を父に願い出ていた。」
確かに王太子にならない王子たちは、いずれ公爵籍を……というのが古くからの慣習だ。しかしそんな幼い頃から自分の将来について考えていたとは驚きだ。
やはりあのことが原因なのか……と前世からの記憶がよぎったところで、
「どうやら検問を通過したようだな」
殿下の言葉で現実に引き戻される。
窓のカーテンを少し引き、外の景色を覗いてみると、そこは懐かしい王都の景色が広がっていた。
(本当に人々で溢れているわ。華やかで美しい町並み。)
領地の広大な自然が広がる景色も、私はもちろん好きだった。
でもこの王都の、華やかな町を背景として人々の様々な暮らしがぎゅっと凝縮された、この景色を見て回るのは、王都に住んでいたときの私のひとつの趣味みたいなものだった。
多くの人が行き交い、一人ひとりに目を向けてみればそこでは小さな物語が生まれている。笑顔で溢れる人もいれば、涙を流したり、苦痛に顔をゆがめている人もいる……。
この国は比較的情勢も安定しており平和な時代が続いている。しかし、以前の災害の煽りを受けて厳しい生活を強いられるようになった人々も少なくない。
今の王家は過去にないくらい民の生活に心を尽くしている。災害によって被害を受けた地域には手厚い支援を施し、王都に職を求めてくる民のため公共事業を大幅に増やしてそれに対応しようとしている。
しかし、それだけでは全ての人々の心を満たすことはできないというのも確かだった。
民たちのそんな不満や不安を癒してくれる存在が聖女様だった。
平民から生まれ、厳しい旅を終えて災害を治めてくれた聖女様を、民たちは神聖な存在として崇めている。
(いずれ王家の代表として、この国を、民を治めていかないといけない―――
聖女がいなくなった事実を公表した上で―――)
前に座り、同じように町並みを見ている殿下をちらりと横目で見てしまう。
(この方はこの重圧をずっと抱えてらっしゃったのね……)
今その考えに至った自分でも、その重責に心がつぶれる思いがした。実際聖女様の失踪を目の当たりにし、民の失望をすぐに予感した殿下の胸中はどれほどの苦しみだっただろう。聖女様の愛を信じた自分を心底恨んだのだろうか。
せめて自分はこの方に誠実に接しようと心に決めた。
たとえ互いに愛を持てぬとも。