10
「ふう―――」
思わずため息が大きくなってしまう。
ようやく大きく息が吸える。冷めた紅茶を一口飲む。茶会が終わったにも関わらず、私はなかなかそこから立ち上がれずにいた。
(あの視線……死ぬかと思った……。)
当初の予定と違って、いろいろはっきり言ってしまった。婚約者のことを勝手に調べやがってと、アレク殿下がめちゃくちゃ怒っていたらどうしよう。
少し涙目になってきた。話している最中、震えずにいた自分を褒めてあげたい。
アレク殿下の驚いた表情を思い出す。殿下があそこまで表情を崩すのは珍しい。というか初めて見た。
「当たり前よね……。」
アレク殿下の婚約者であるユーリ様の事情を知るものはほんの極一部だ。おそらく王太子であるフィリップ殿下も知らないだろう。それを一貴族令嬢でしかない私が知ったか顔をしているのだ。
では、なぜ私がそのことを知っているのか。それはお察しの通り、漫画にそのような描写があったからだ。
*****
ユーリ様は幼い頃のある事件のトラウマにより、大勢の前で発言しようとすると過呼吸を起こす。アレク殿下は臣下に下り、婚約者が人前に出る機会を極力減らしてあげたいのだろう。
もちろんヤンデレ特有の独占欲ゆえのものもあるだろうが。
大勢の前で話せないというのは、普通の貴族として、ましては王子の婚約者としては致命的だ。今はまだ学生の身であり、大勢の前で発言をする機会も少ないだろうが、今後王子の妃として王宮に残るのであればそんなことは言っていられない。
未来の王妃となればなおさらだ。
普通であれば、早々にそのトラウマを払拭すべく治療や訓練をと言われるはずである。それがこの世界の貴族の姿だ。
しかし―――
私は思うのだ。いいではないか、自分が辛いことを避けてしまっても、と。
この貴族社会で誰もがひたすら家のために身を粉にすることを求められる。
でももし自分が心底嫌なこと、辛いことを避けられるなら。そこから守ってくれる人がいるなら。逃げ出したってかまわないと私は思うのだ。
前世の記憶をぼんやり思い出す。
空気の重い会社の中で、いつも泣いていた後輩。言葉で励ます以外、何もできなかった自分がもどかしかった……。
正面から戦うには力が必要だった。でもあの頃の自分にはそんな力はこれっぽっちもなかったのだ―――
パチンッ!
自分の頬を両手で叩き、意識を現実世界へと引き戻す。
(こんなところで物思いにふけっている場合じゃないわ。)
まあきっぱりはっきり思っていることを、全て素直に言葉にすることもできないので、あんな伝え方でもアレク殿下に私が害がないということを理解してもらえればいいのだけれども。
(うん、やっぱりヤンデレこわい。思い出しただけで震えるわ。)
まだ立ち上がれないまま、ふと空を見上げる。腹が立つくらい穏やかな日だ。
空に流れる雲を見ていると、またぼんやりと思考が思い出の波にさらされていく。
思い出すのは漫画の一場面だ。
学園のパーティーで大勢の前で糾弾され、それが過去のトラウマと重なり過呼吸を起こしたユーリ様。それを聖女であるヒロインが光魔法で癒しているところだ。
明るく柔らかい光を纏いながら、ユーリ様に優しく手をかざすその姿は、まさしく聖女様そのものだった―――
そう。私にはない力だ。