雨の中
尚人さんの家を出て、走り疲れた私は、ひとりで街を歩いていた。
みんな私と視線を合わせず、通り過ぎていく。やっぱり私は透明人間なんじゃないか、って思う。
もしかしたら「透明人間じゃない」なんていうのは尚人さんが私を追い出す為についた嘘なんじゃないのだろうか。
迷ったけれど、私は帰ることにした。お母さんがいる、アパートへ。
もう二週間くらい帰っていないアパートの一室のドアを開ける。お母さんの靴がある。夕方だから、仕事から帰ってきたのだろう。
ゴミだらけで足の踏み場もない床を歩き、台所のすみっこーー私の定位置まで行く。
台所にはお母さんがいた。テーブルについてタバコを吸っていた。そして、近くには酒瓶。
目が合う。
「…帰ってきたの?」私に向かってお母さんが言った。「どっかに行ってくれて、せいせいしてたのに」
私の身体は硬直して動かなかった。私は透明人間なはずだ。お母さんに姿が見えるはずがない。
けれど、こうしてお母さんは私を見ている。私は透明人間じゃない。尚人さんが言っていたのは、本当のことだった。
お母さんはまた、いつものように私をもう見なかった。私なんていないかのように通り過ぎて、隣の部屋へ行った。
もう、ここにもいられない。私は家を出て行った。
外はまだ雨が降っていた。私はその中を傘もささずに歩く。
これからどうしたらいいのだろう。行く所もなくなったし、透明じゃないと知ったところで、私を見てくれる人なんていない。
視界が歪んで歩けなくなる。冷たい雨の中、流れる涙が熱かった。
どうして、お母さんは私を無視し続けたのだろう。
どうして、私は透明になれなかったのだろう。
次々と疑問は浮かんできたけれど、そのことについて考えられる余裕なんてなかった。
ただ、涙があふれて止まらなかった。
どのくらいその場に立っていたか解らない。雨は弱くなってきた。
だけど私は、その場から動ける気がしなかった。
「エリカ」
呼ばれて顔を上げる。誰かが前に立って傘をさしていた。涙で顔は見えなかったけれど、声でそれが誰なのかわかる。唯一、私を見てくれる人。
どうして彼は、いつでも私の前に現れてくれるのだろう。