湯のみ
電車で2駅。歩いて10分。尚人さんに連れられて来たのは、彼が住んでるアパートだった。
2階建てで階段は外についている。尚人さんが階段を昇る。私もその後をついていった。
部屋は各階ごとに4部屋。尚人さんの部屋は扉をふたつ越えたところ、203号室だった。
尚人さんは郵便受けから手紙を取り出し、鍵を開けた。そして扉を開け「どうぞ」と言って私を先に入れた。
リビングの他に部屋はもうひとつ。綺麗に片付けられていた。
家とは大違い、と私は思った。家はお母さんの服や食べたお弁当のからなんかが散乱しているから。私も、急に部屋が綺麗になったらお母さんが驚くだろう、と思ってそのままにしておいた。
靴を脱いで中へ入る。後ろで尚人さんが電気のスイッチを入れる音がした。一瞬遅れて、薄暗い部屋が明るくなる。
「どこでもいいよ、座って」尚人さんは言って、奥の部屋へ消えた。
私はいつもの癖で、部屋の隅に座った。着替えをして出てきた尚人さんはその姿を見て笑った。
「もっとこっちにおいで」
お茶をテーブルの上に置いて座った尚人さんが言う。私は、尚人さんは私の姿が見えるのだから踏まれることもないか、と思い近づいた。
尚人さんがお茶を勧める。私は湯気の立ったカップを持って一口飲んだ。
とても不思議だった。
姿が見える人とこうして向き合って、与えられたお茶を飲むなんて。
今まで何かを与えてくれる人なんていなかった。全部自分で、盗むように飲んでいた。
体の中を温かいものが流れていく。それは、お茶のせい?
ピンポーンと呼鈴が鳴った。尚人さんは立ち上がって、私に奥の部屋まで行くように言った。
私は透明人間なのだから、誰が来ても構わないと思ったけど、尚人さんは私の姿が見えるのだからどうも、私が透明人間だとまだ信じていないらしい。私は素直に、尚人さんに従った。
訪ねてきたのは女の人だった。私は襖を少し開いて様子を見ていた。
女の人は尚人さんに触れようとするのだが、尚人さんはそれを拒んでいるように見えた。
そして5分くらい話していただろうか。女の人は玄関のドアを開けた。
一瞬目が合ったように見えた。
けれど、彼女は何も言わずに去っていく。それを見て私は、やっぱり透明人間なんだなあと思った。
手の中にあったカップは、もう冷めていた。