ぼんやりとした 土岐尚人
夜8時過ぎに携帯電話が鳴った。
出てみるとそれは、幼いころ会ったきりの親戚からの電話で。
「お前の母さん…亡くなったぞ」彼はそう言った。
翌日俺は、エリカを紘海に頼んで、実家近くのセレモニーホールへ向かった。
長い、電車に乗っている時間の中で、俺はずっと、母親のことを思い出していた。
あんなに憎んで、もうずっと記憶を奥に押し込んでいた、あいつのことを。
俺の母親は、とにかくだらしない女だった。もう朧げな記憶しかないけれど、離婚して旦那がいないのをいいことに、夜も出歩いて遊んでいた。幼かった俺をひとり残して。
運よく父親から養育費だけは出してもらっていたので、それを使って俺は高校を卒業し、家を出た。
それ以来、母親には会っていない。
実家の最寄りの駅に着いた。俺は小さな荷物を持ち、ホームへ降り立つ。
セレモニーホールへの道のりは、ひどく足取りが重かった。
セレモニーホールへ着くと、母親が眠ったように横たわっていた。
それからのことはよく覚えていない。お通夜、葬儀を終わらせて、俺ひとりになった。俺も帰らなければならない。
なのに、どうしてだろう。今座っている、実家の近所にある公園のベンチから立ち上がることができない。
何を考えている訳でもない。ただぼんやりと、やっぱり泣けなかったし泣けないな、と思っていた。
ただ、憎む気持ちももうなかった。
すべてが空っぽで、空虚で。
そして本当に、ひとりになったんだ、と思った。
そうやってぼんやりとして、どのくらい経ったのだろう。ふと、目の前に誰かが立つ気配がして、俺は顔を上げた。
「…エリカ」俺は言った。
彼女は、走ってきたのだろうか。息を弾ませて、俺を見つめていた。微笑んで。
俺も黙ったまま、エリカの手を取り、引き寄せて抱きしめた。そのぬくもりを感じて、俺はまたぼんやりと、ひとりじゃない、と思った。




