母と生家を失う元悪役令嬢
「お母さん! お母さん……!」
「君! 危ないから近寄っちゃ駄目だ!」
「でも中にお母さんが寝たきりなんです! 早く助けないと!」
「もうこの炎の勢いじゃあもう助からない!」
必死になって炎が渦巻く我が家の方に押し入ろうとする私を兵士が阻んだ。身をよじって振りほどこうとしても少女でしかない私の力で屈強な大人から逃れられるわけもない。なおも暴れる私は後ろから羽交い締めにされ、遠ざけられてしまう。
既に火は少し離れたこの位置でも熱を感じられるほど勢いを増していた。私の家ばかりでなく周囲の家屋が燃えていて、火消しが水をかけても衰えようとしない。仕方なく周辺のまだ無事な家を破壊してこれ以上被害が拡大しないようにするほどだった。
「どうして、こんな……!」
私は無力にも全てを焼き尽くす業火をただ茫然と眺めるしかなかった。
火が消し止められたのは夜も更けてからだった。まだ現場に散らばった火種になりそうな炭や灰に水をかけて回る作業が行われている。貧民街の家は土と藁と木材で組み立てられた構造が多く、火が襲った場所はほとんど原型を留めていなかった。
どうか偶然外出していますように。もしくは近所のおじさんが助け出してくれていますように。希望的な願いを神様に祈りながら私は生存者の救出作業を見届ける。がれきの下から人が運び出される度にお母さんじゃないかと見に行ってはがっかりした。
「カレン。夜ももう遅い。ここは救助隊に任せて明日朝一に結果を聞けばいい」
肌寒くなって震える私の身体にジョアン様が上着をかけてくださった。初めは何が起こったのか信じられなかったけれど、彼は今までずっと傍にいてくれたのだ。真面目な面持ちのまま前方を見据えるだけでも今の私にはとても心強かった。
「い……嫌です。お母さんに声をかけてあげたいし、手を握りたいんです」
「そうは言うがこれほどの被害になると生存は厳しいだろうな」
「そんなこと言わないでください。いくらジョアン様でも許しませんよ」
「家族が心配なのは分かるが現実は受け止めないと参るばかりだぞ」
ジョアン様が顎をしゃくった先では無残にも焼けただれた遺体に遺族が集まり泣き崩れる様子だった。そう、火災現場からは亡骸ばかりが運ばれていき、生存者の数は限られていた。そんな生き延びた人も重度の火傷を負っていて完治は難しい。
ジョアン様は仰っているのだろう。もはや母親の生存は絶望的だから無駄な時間を過ごさずに休んだらどうだ、と。確かにこの惨状を目の当たりにするとそう思ってしまうのが普通だとは否定しないが……。
「いけないんですか? どうか生きていてくださいって願うのが」
「俺は別に無茶はするな、と言いたかっただけだ」
「……すみません。感情的になりました。別にわたしはジョアン様が人の心も分からない冷血な方だなんて思っていませんから」
「分からないぞ? 何せ俺達が言葉を交わした回数など指で数えられる程度だからな」
いいえ、それは違います。私達は婚約関係となる前からずっと一緒でした。
思わずそう言いたい衝動に駆られたが、それはあくまでいずれ王太子妃となることが内定していたレオノールの話であって私には一切関係ない。
私だけが一方的にジョアン様を知っている。貴族ではない今の身分ならそんな知識すら不相応だろう。
「でしたら、どうして今もなおわたしに付き合ってくれるんですか?」
「さあな。単なる気まぐれかもしれないし、折角知り合った相手が追い込まれて死なれたんじゃあ夢見が悪いとでも思ったのかもな」
「わたしのことはお構いなく。早く帰った方がいいんじゃないですか? お屋敷の方が心配しますよ」
「カレンがもう寝るって諦めるんならそうしてやってもいいぞ」
むう。強情な方だとは分かっていたけれど、イサベルになって改めて体感すると受ける印象が違うものだ。具体的には、市民目線で見ると下の意見を頑として聞かない君主を果たして信頼していいのか、との不安がよぎってしまう。
しばらく待っているといよいよ私の家があった区画の調査が始まった。不安を振り払うために周囲を伺うと仕事帰りらしき近所のおじさん達の姿があった。背負った幼子は既に父親の背中で寝ており、生き残った大人だけが不安そうに作業を見つめている。
次々と運び出される遺体。救助隊の隊員が犠牲者の親族がいないか呼びかけ、自分の愛する者だと判明すると泣き叫ぶ。そんな光景が繰り返されるたびに私は不安と緊張でめまいがして吐きそうになる。
そして、私は残酷に、そして容赦なく現実を突き付けられることとなった。
「あ、ぁ……あぁあ……!」
変わり果ててしまったけれど、見間違えるはずがない。
今運び出されたもう息をしていない女性は、お母さんだ――!
「ああぁぁあああっ!!」
私は天にも届くだろう叫び声をあげ、そして気を失った。
■■■
「……」
重いまぶたを開けて私の瞳に映ったのは見知らぬ天井……ではなく寝具の天蓋だった。掛け布団や敷布団は身体を包み込むようにふかふかで、枕は頭が沈み込みそうだ。触り心地も優しく落ち着く。こんなにも贅沢な寝具で眠ったのはレオノールだった頃以来か。
寝起きであまり上手く考えられないまま身体を起こし、室内を見渡す。間取りや家具、調度品、絨毯や壁紙等からも明らかにやんごとなき方の屋敷にいると推察出来た。今の私では一生働いてもこの寝具一式すら揃えられないだろう。
身を起こして……脚に力が入らず身体がふらつく。壁に手を付きながらやっとの思いで窓までたどり着いた。太陽の光が差し込んでいてとても眩しい。手で遮りながら眼下に広がる景色を目の当たりにして、言葉を失った。
「王、宮……?」
そこはイサベルとしては初めて目にし、レオノールとしては我が家も同然である王宮の庭園だった。噴水、花壇、迷路、お茶会を楽しむ席など、幼少の頃に駆けずり回った記憶が呼び起こされる。
「やっと目覚めたか」
しばらく見惚れていると背後から声をかけられた。振り向くと普段着、しかし平民からすれば目が眩むほど豪奢な作りの衣服に身を包んだジョアン様が部屋の入口近くで扉に寄りかかっていた。
「一昨日から丸一日寝ていたから腹が空いてるだろう。すぐに食事を持って来させる。それから喪服は汚れていたから勝手に洗ったぞ。そこの衣装棚の中だがそのまま持って帰った方がいいな。代わりの服はこっちで勝手に用意した。どうせ古着だから金は要らんぞ」
「あ……あの、ここは……?」
「俺の屋敷だ。カレン、おまえ昨日の夜遅くに気を失ったから俺がわざわざここに運んできたんだぞ」
「……わたしなんかを?」
信じられない。王太子の身分であるジョアン様が一介の市民に過ぎない私を案じて一晩泊めただなんて。彼なら気絶した小娘なんて使用人や役人に任せるなり、最悪放置したって何の問題も無いのに。
にしてもどうして私はこんなところにいるんだろうか? 昨日……いえ、ジョアン様の言葉通りなら一昨日私は先生の埋葬を見届けてから遺品を家まで持ち帰ろうとして、ジョアン様に手伝っていただき、それから――。
「――ぁ」
それから、家は、お母さんは――!
私は残酷な現実を思い出し、頭が真っ白になり、がくがく震える身体を自分で抱き締めて、とめどなく涙が溢れ出て、喉から絞るように叫びが――。
「我慢するな。思いっきり泣けばいい」
ふと、私の頭に大きな手が触れた。いつの間にかジョアン様が私をあやすように抱いていたのだ。既に彼の背は大人の男性と同じぐらいにまで伸びていたから、私の顔が丁度彼の胸部辺りに来る。
父親を知らない私が初めて触れる殿方の身体は……大きく、頼もしかった。
「あー。俺も祖母が亡くなった時こんな風に母親からされてな。結構落ち着くんだ」
「ジョアン様ぁ……! お母さんが、お母さんが……!」
私は泣いた。多分レオノールだった頃を含めてもこれほど泣いたことはなかっただろう。悲しかったから、寂しかったから。父親から捨てられ姉は出ていき、恩師と母は先に旅立った。知人は少なからずいても心を打ち明ける相手はもう誰もいない。
私は……一人ぼっちになった。