王太子と再会する元悪役令嬢
まさか先生とジョアン様が知り合いだとは思っていなかった。事前に把握していたらいくら賃金が魅力的でもこの仕事は引き受けなかったのに。ああ、でもここより稼げるようにするにはカレンみたいに夜のお仕事に踏み込むしかなかったっけ。
「カルロッタ先生に取り次いでもらいたい。ご在宅か?」
「……あ、えっと……どちら様ですか?」
「ジョアン、と言えば分かってくれるはずだ」
「畏まりました。少々お待ちください」
私はかろうじて冷静さを務めて対応した。だってイサベルとなってから私はジョアン様とは初めて出会う……いや、初めて目にするのだから、恐れるのも敬うのもおかしい。いつものように接するのが正解だろう。
それでも私はすぐに踵を返して先生がいる書斎に戻った。ジョアン様から逃げるようになってしまったのは失礼極まりなかったが、あれ以上あそこにいるとボロを出しそうで怖かったからだ。
「はあっ、は……ぁ!」
裏切られた。レオノールはジョアン様を愛していたのに。ジョアン様のために血のにじむ思いをして王太子妃となるための過酷な教育に耐えてきたのに。あの方のお心がイサベルに傾いたせいで胸が張り裂けそうなぐらい苦しんだのに。
イサベルになったんだからもうジョアン様とは関わらずに済むと思っていた。なのにどうして思わぬ所で接点が出来てしまうんだ? それに私はもうレオノールのようにジョアン様をお慕いする必要なんてどこにも無いのに、どうしてこうも心が揺れ動くの?
「先生、ジョアン様がお見えです」
「まあ、あの子がわざわざここに? すぐに通してちょうだい。ここでいいわ」
「分かりました」
先生に報告した頃には何とか自分を取り戻せた。自分では事務的に述べたつもりだったのに、先生は本から顔をあげてこちらをじっと見つめてきている。その眼差しは私を心配してくれるからか、とても優しいものだった。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ。少し休んでもいいのよ」
「いえ、大丈夫です。少し知っている人に似ていたもので驚いただけですから」
「そう、ならいいけれど……無茶しちゃ駄目よ」
「分かっています」
大丈夫。自分の心に蓋をするのは慣れている。レオノールはそうやって上辺だけは取り繕ってイサベルへの嫉妬と憎悪を覆い隠していた。ジョアン様もイサベルが関わらなければ察しの良い方だ。怪しいそぶりを見せれば何かを勘繰られかねない。
玄関に戻ってくるとジョアン様は先ほどと同じ様子で待っているようだった。とりあえずは私について気にも留めていないようだったので胸を撫で下ろす。
「お待たせしました。中へお入りください」
「ありがとう。ところで君は?」
「この家に務めています使用人のイサ……」
ジョアン様に問われて普段の来客と同じ感じに答えようとして、慌てて口をつぐんだ。
そうだった。ジョアン様はこの後イサベルと出会うことになるんだ。
今回の場合はカレンがイサベルとして男爵令嬢になった。ここで私がイサベルを名乗るとややこしいことになるのは明白。巷を騒がせる娘との関連性を疑われたくはなかった。
「カレンと申します」
カレンがイサベルに成り代わって私にカレンであることを押し付けたんだ。有難く私がカレンになろうじゃないか。
「そうか。身の回りの世話は自分で出来るって言っていたのに使用人を雇っていると報告が上がって来たから不思議に思っていたんだ」
ジョアン様が仰るように先生は多分私がいなくても充分暮らしていけるだろう。何しろ私は炊事、洗濯、掃除の何から何まで先生に教わったぐらいだ。むしろ私の方が授業料を払うべきだろうに。本当に先生には頭が上がらない。
「先生、お連れしました」
「ありがとう。そしてようこそお越しくださいました、王太――」
「先生、すみませんがカレンは気分がすぐれないので休憩を取っても良いですか?」
私がジョアン様を書斎に通すと、先生は笑みをこぼしながらジョアン様にお辞儀をした。そんな礼儀正しい挨拶を打ち切るように私は言葉を挟んだ。何事かとわずかに眉を吊り上げた先生はしばしの間熟考、次に軽く微笑んだ。
「分かったわカレン。下がっていなさい。私は彼と少しお話するわ」
「何かあったら呼んでください。失礼します」
イサベルである私が彼が王太子であると知る必要は無い。それから本当のイサベルだと知られたくはない。事態をややこしくする真似は避けたい。そんな私の願いを先生は察してくれた。無礼な真似を見過ごしてくれつつ。
私は隣の部屋に逃げてから本を読み漁る。なるべくジョアン様を意識しないように。努めたおかげで気にはならなかったけれど、本の内容は全然頭の中に入ってこなかった。これはまた読み直さなきゃ駄目だろう。
少し経った後、呼び鈴が鳴るのが聞こえたので私は書斎に戻った。既にジョアン様は上着に袖を通して帽子を被っていたので、どうやら帰り支度の最中のようだ。先生からジョアン様を送り届けるよう指示されたので従う。
「カレンは俺が何者か知りたくなかったのか?」
そのまま帰ってくれれば安泰だったのに、よりによってジョアン様から話しかけられてしまった。さすがに先生に雇われた使用人として答えないわけにはいかない。無礼を働けば主人の品格も疑われかねないから。
「知らない方が身のためだって勝手に思っただけです」
「そうか。なら俺も正体は伏せておこうか。何のために来たか知りたくはないか?」
「それも知らなくても仕事に支障はありませんので」
「俺は昔先生の教え子だったんだ。もう自分から教えられることは何もないって言われて別の教師があてがわれたんだが、アレなら自主勉した方がマシだな。また先生から教わりたいって願いに来たんだ」
まさかの真実だ。先生が昔ジョアン様の教育係だったなんて。レオノールだった頃を含めても初耳だ。ただ博識な先生だったら王室お抱えの教育係を命じられても不思議ではない、と納得する自分がいた。
「じゃあ先生はまたジョアン様の先生になるんですか?」
「残念だが断られた。もうすぐ王立学園に通い始めるんだからそこで専門の教師に学んだ方がいい、ってね」
「そうでしたか」
そうか。もうそんな時期になろうとしているのか。
ジョアン様とレオノールが王国最高峰の学び舎、王立学園に通うようになる時期が。
貴族の子息息女は例外無く王立学園に通うことが義務付けられている。家の事情でどうしても通えない場合でも後日通うことを強要されるのだ。それは家計が厳しい男爵家の娘だろうと、次の王となる王太子だろうと例外ではない。
レオノールがジョアン様から婚約破棄を言い渡されたのは卒業を控えた最高学年の時。逆算すると今はそれから大体四、五年前ってことになる。
……毎日を生きるのが精一杯で自分の年齢とかどうでも良くなっていたな。
「ところでカレン」
「はい、何ですか?」
玄関まで戻ってきてもなおジョアン様はこちらに語りかけてきた。レオノールでなくなった私にどうして今更興味を示すのだ、との苛立ちと煩わしさすら芽生え始めた私は何とか自分の感情を抑え込む。
「どうして俺に怯えている?」
そんな私を何もかも見透かすように、彼は問いかけてきた。
思わず玄関扉へ伸ばしていた手が止まってしまう。
「……ジョアン様がやんごとなき家の方だとは無教養なわたしでも分かります。こうして言葉を交わすのも恐れ多い、と思ったら悪いですか?」
「畏怖とは違うな。明確な拒絶が見て取れるぞ」
「ジョアン様にお話しするような深い事情はありません」
もうこれ以上踏み込んでくるなと言っているのに。彼はレオノールやイサベルに対してもそうだった。人の話よりも自分の直感や思いを優先させて行動を取る。国と民を導く王者となるべき方はその方がいいのだろうが、一般市民個人にとっては迷惑この上ない。
「気をつけてお帰り下さい」
早く帰れ、と暗に言いながら私は玄関扉を開いた。けれどジョアン様はこちらを見つめるばかりで外に出ようとしない。そして顔に張り付かせた微笑は決して上っ面なものではなかった。
「確かに俺はカレンの思った通りの存在だが、それ故に敬われたり愛想を振りまかれたりするばかりだった。俺から目を逸らそうとする者が他にもいるとはな」
幸か不幸か、私はジョアン様の興味をひいてしまった。
「カルロッタ先生の教え子カレンか。覚えておく」
私が一体何をしたというのだ。
愕然とする私を尻目にジョアン様は満足げに笑いながら帰路に就いたのだった。