魅了の邪視について疑う元悪役令嬢
「そう、お姉さんが男爵家の子に……」
次の日、私は老婦人カルロッタ――少し前から私は彼女を先生と呼んでいる――に洗いざらい打ち明けた。家庭の事情だから黙っていようとも思ったのだけれど、私があまり元気無さそうだったからと聞いてくれた。
どうやら自分では大丈夫なつもりでも思った以上に衝撃を受けていたみたい。
「きっとカレンなら素敵なお嬢様になれますよ」
「お姉さんがいなくなって大丈夫なの?」
「滅入ってなんていられません。わたしが寂しがっているお母さんを元気付けないと」
「それもあるけれど、お姉さんも働いていたのでしょう? お母さんの容態も芳しくないようだし、私が払うお金だけでやっていけるの?」
確かに今まで私とカレンの収入があったからこそ特に困らず生活出来ていた。多分私の給料でも最低限食べてはいけると思う。けれどお母さんを医者に診せたり薬を買ったりすると途端に余裕が無くなってしまう。
「仕事を増やそうかって思ってます。日中はここで働くから日が暮れた後に」
「若いからって無理しちゃ駄目よ。男爵に援助してもらわないの?」
「ある程度は援助してくれるそうですけど、あてにはしてません」
「そう……」
一応カレンは男爵家に行く条件として病弱なお母さんの面倒を見るよう言ったらしい。それに対する回答はいくらか金は恵んでやる、だったそうだ。やはり男爵はお母さんにひとかけらの愛も抱いていないようだ。
「いいのよ。ここでは本音を吐いても」
「……っ。本音、ですか?」
「お母さんはいらっしゃらないわ。私で良ければ傍にいてあげる」
「先生……」
ああ、そうだ。いくらレオノールだった頃の記憶を持っていたって私はまだ子供に過ぎない。いくら強がっても感情が動くのは抑えきれない。
私は先生の腕の中で泣いた。
今までずっと一緒だった家族が、姉がいなくなって寂しかった。
これから私一人でどうすればいいのか不安でたまらなかった。
しばらく泣いたらすっきりした。代わりに先生への申し訳なさがこみ上げた。
「ご、ごめんなさい。わたしったら……!」
「イサベルったら普段は甘えてこないんだもの。たまにはこんな日があってもいいわ」
慌てふためきながら頭を下げた私の頭を先生は優しくなでてくれる。それだけで私はまた涙が浮かんできてしまう。
だから子供は嫌なのだ。こんなにも感情が抑えきれなくて振り回されてしまう。
やっと落ち着けて冷静になってきたので、私は先生に疑問をぶつけてみることにした。
「先生は相手を別の人に間違えさせる方法って何かないか、知ってますか?」
「んー。変装とは違うの?」
「いつもと一緒なのに勘違いされる、って言えばいいんですかね?」
「そうねえ。何を想定しているか詳しく話してもらえる?」
私はお母さんの誤認について説明した。カレンが離れてから何故か私がカレンと思われるようになったこと、出て行ったのがカレンではなく私、つまりイサベルにされていること。私が間違っているのではと思わされるぐらいお母さんが疑っていないことを。
耳を傾けてくれた先生は最初のうちは「よほどお姉さんがいなくなって衝撃だったのね」的な認識だったけれど、次第に顔を険しくさせた。話を終えた辺りでは眉間にしわを寄せて指でぐりぐりと揉む。
「イサベルとお姉さんの胸像とか肖像画とか残ってないかしら? 見比べてお姉さんの方をイサベルって言ったりしていない?」
「先生。わたしの家は貧乏だからそんな贅沢な物なんてありませんよ」
「そうよね。例えば自分の心を保つために幻覚を見たりする場合もあるらしいけれど」
「そんな、お母さんはわたしをカレンと間違えるだけで他は大丈夫です!」
もし精神的に追い詰められた結果妄想に逃げたんだとしたら、あまりに残酷すぎる。だってお母さんはカレンより私がいなくなった方がまだマシだって考えていたことになってしまうから。そんなの信じたくない。
やっぱり専門の医者に診せなければいけないのだろうか? それとも思い切って私がイサベルだって言えばいいのか? 迂闊に踏み込んでしまうと何もかもが壊れそうで怖い。歪ながらも安定しているなら妥協してこのままでもいいのではないだろうか?
「だとしたら外的な要因でそう思い込まされているって考えた方がいいわ」
「外的な要因、ですか?」
思い悩んでいた私に先生は意外な答えを示した。
「そもそも、イサベルにしろお姉さんにしろお母さんは愛娘を一人取り上げられたのよ。どちらかが贔屓されていたって話はイサベルもしていなかったから、平等に愛されていたのよね?」
「はい。少なくともわたしはそう思ってます」
「男爵にしたって自分の血を引く者が一人でもいれば問題無いのだから、わざわざイサベルを指定する理由なんてある? むしろ年長者を求めないかしら?」
「……いえ、ありません」
先生はカレンを私に挿げ替えてもお母さんの悲しみは同じだと語った。
そして先生は男爵家側にお母さんを誤認させる利が皆無だと語った。
「じゃあイサベルが男爵家に引き取られたことにしなきゃいけなかった理由って何かあるかしら? 私にはそこが思いつかないのだけれど」
「カレンではなくイサベルが……」
そこまで事態を整理してようやく一つの可能性に思い至った。
男爵令嬢イサベルを誕生させたい理由、それは……。
「――あの顛末の、繰り返しを?」
カレンが男爵令嬢イサベルとして成長し、王太子ジョアン様と出会い、本当の愛とやらを育み、やがては婚約者であった公爵令嬢レオノールを退けて結ばれる……ジョアン様の運命の人になるのか?
わけがわからない。じゃあ私が知っているイサベルは私じゃなくて本当はカレンだったのか? それとも私がイサベルであることを放棄したからカレンがイサベルになったのか? そもそも、どうしてイサベルでなければならないんだ?
「じゃあまず最初の疑問だけれど……あった、これね」
先生は私の前に一冊の本を差し出した。レオノールだった頃の知識があるからかろうじて読めたけれど、そうでなかったら今の私では表紙の文字すら読めなかっただろう。何故なら現代語ではなく古語で記されているから。
邪視、とだけそれには簡潔に書かれている。
「先生……難しくて全然読めません」
「イサベルにはまだ早かったわね。これはね、邪視についての研究書よ」
あえてレオノールの知識を伏せた私は本を先生に返した。イサベルとしてはようやく読み書きが出来る程度の学習状況なのもあって先生は疑いもせずに受け取る。先生が文を指し示しながら一つ一つの単語を丁寧に教えてくれたため、少し申し訳なさが芽生えた。
「目は口ほどに物を言う、って言われるように眼差しだけで人の考えや感情は分かるものよ。逆に自分の意思を相手に伝えるのだってね。怖い人が睨むだけで相手をすくみ上がらせることだって出来るわ。邪視はその延長で、相手に呪いのように重大な影響を与える効果があるの」
「でもそれって民間伝承じゃなかったでしたっけ? 相手を見つめたら石にする怪物とか、相手を死なせちゃう天使とか」
「教会が異端だって認めていないだけで実在する、ってまとめているのがこの本よ。イサベルが言ったような事例は……あった。特定の人物を誤認させちゃう邪視、みたいなのがあるみたいね」
「……!?」
先生が開いた頁を見て私はもう少しで驚きの声をあげるところだった。
確かに先生の仰っている記録は誤認の邪視に違いなかったが、私はそれより向かいの頁に記された記録から目が離せなくなった。
相手を惑わし、心を意のままに操る魅了の邪視。
滑稽だと馬鹿にするのは容易かった。けれど私はどうしてもレオノールだった頃体験した破滅に至る一連の流れを思い出してしまった。そしてジョアン様を始めとする数々の殿方の愛を受け、庇われるイサベルの姿を。
アレは本当にジョアン様方がイサベルの健気で純粋な在り方に惚れたからだろうか? それともレオノールが思い込んだとおりにイサベルが言葉巧みにあの方々を虜にしたのだろうか? まさか本当の心を上塗りするみたいに魅了して……。
「あら、お客様がいらっしゃったようね」
「え? す、すみません! すぐに応対します……!」
愕然としてしまい気付かなかったけれど、確かに玄関扉が叩かれる音が聞こえる。
私は慌てふためきながらも先生に深く頭を下げてから退室、速足で玄関へと向かった。何しろ先生の家で奉公する使用人は私一人だ。
そして普段だったら不審者対策に扉越しで一旦話を聞くのだけれど、今日ばかりは過程を飛ばして初めから扉を開けてしまった。
「すまない。こちらはカルロッタ先生の家で合っているだろうか?」
私は来客を見て固まってしまった。
変装しているけれど間違いない。
彼は、王太子ジョアン様その人だった。