ヒロイン役を取られる元悪役令嬢
貴族の娘であれば初等教育を終えるだろう年齢になった頃、とうとうお母さんは頻繁に体調を崩して寝込むようになった。何とか定期的に町医者にお母さんを診てもらう費用は捻出出来たけれど、中々調子は上向かなかった。
「ねえイサベル。悪いんだけれど買い物行ってきてくれない? 今から言うのを買って来てくれればいいからさ」
そんな今日を生き抜くのが精一杯な毎日を送っていたある日、私はカレンから買い物を頼まれた。お互いたまにお願いすることがあったから私は何の疑問も抱かずに快諾、出かけたのだった。
それがカレンの計画通りだったなんて思いもせずに。
カレンから頼まれた品はいつも回るお店では売ってなくて、思っていたより繁華街を端から端まで歩き回らなきゃいけなかった。おかげで予想以上に時間がかかり帰りが少し遅くなってしまった。
ところが家の中はとても静かだった。狭い家を見渡しても家事を行っている筈のカレンの姿は無かった。そして、どうしてか分からないけれどお母さんが寝具の上ですすり泣いていた。
「お母さん、どうしたの?」
「カレン……」
荷物を置いて慌てて駆け寄った私をお母さんは姉の名前で呼んだ。
相当混乱しているなと受け取った私はどうにか安心させたいと傍に近づき、お母さんに抱きしめられた。ちょっと苦しかったのと驚きと混乱でいっぱいだった。
「ごめんね、わたしがふがいないばかりに……」
「泣かないでお母さん。カレンはどこ行ったの?」
「カレン? カレンならここにいるじゃないの」
「え……?」
何が何だか分からなかった。思わず私はカレンじゃないって叫びたくなったけれど、何とか堪えた。ここでお母さんを困らせても始まらない。多分わたしとカレンを混同しているんだろうと当たりを付けて自分を無理やり納得させた。
「えっと……じゃあイサベルはどこに行ったの? お留守番してるんじゃなかったの?」
「……イサベルはもう戻ってこないわ」
「戻って来ないって、どうして? 夜ご飯の頃には戻ってくるんじゃないの?」
「そうじゃない……そうじゃないのよ。あの子はね、遠いところに行っちゃったの」
お母さんは嘆き悲しむばかりでちっとも事情を把握できなかった。私はとにかく「大丈夫、わたしがいるから」って言いながらお母さんを抱き締め返した。一生懸命お母さんを励ました。そのかいもあって始めと比べて大分落ち着いてくれた。
「それじゃあお母さん、わたしが買い物に行ってから何があったか聞かせて」
「……カレンが出かけてからちょっとしてからだったわ。カレン達のお父さん、旦那様の遣いがやってきたの」
「……!」
これまで私達家族は父親について一切話題に出てこなかった。イサベルの事情を知っていたからあえて聞くまでもないって判断していたけれど、一番はやっぱりお母さんが何も語ろうとしなかったからだ。
けれどここに至ってようやく事態を飲み込めた。どうやら今日この時こそイサベルが実の父親の家、つまり男爵家に引き取られたのだ、と。そして彼女は男爵令嬢として新たな人生を歩み始めたのだ。
「娘を引き取る、と言ってきたの。勿論私は断ったわ。生まれて間もなかったカレンとイサベルを突き放すようにお屋敷を追い出しておいて何をいまさら、って。けれど……このまま娘達に苦労を追わせるのか、って言われたら何も言い返せなかった」
お母さんはまるで懺悔のように告白する。
けれど私には分かる。どうせ男爵の遣いは上から目線でお母さんを威圧したんでしょう。お前が娘達を苦労させているんだ、お前では話にならないからこちらが面倒を見てやる、のような感じで脅したかもしれない。
「そうしたらイサベルが自分が行くって言い出したの。代わりにお金を恵んでくれって条件を付けて……」
机の上に置かれた見慣れない布袋の正体はカレンが男爵家に行く条件で得た援助金か。縛っていた紐をほどいて中を開くと、私とカレンのお給料数か月……いえ、一年以上分の銀貨が詰められていた。
これならしばらくはお母さんをお医者様に診せられるし薬も買える、と安堵する反面、レオノールが身に着けていた宝飾品一個にも満たないと思うと……レオノールが考えていた以上に公爵令嬢と貧民との間に大きな格差があるのか、と嘆きたくなる。
「じゃあ……わたしのお父さんは男爵様なの?」
「ええ……今まで黙っていてごめんなさい」
ここでお母さんは私の出生の秘密とどうしてこの家に父親がいないのかを打ち明けてくれた。レオノールだった頃はあくまでイサベルは男爵と平民の愛人との間に生まれた娘、と噂で聞いただけだった。だからお母さんの口から語られる真実は驚きだった。
「わたしは昔、男爵様の家で働いていたの。旦那様と奥方様の仲はそれなりに良かったのだけれど、旦那様は身体が弱かった奥方様では満足出来なかったみたい。しょっちゅう他の女性に手を出していたわ」
「……もしかして、使用人だったお母さんもその一人だったの?」
「雇われの身だったわたしは旦那様から迫られても断れなかったの。嫌だったけれどお金のためなら我慢するしかなかった」
貴族が使用人や平民を欲望のはけ口にする例は枚挙にいとまがない。彼らは貴族に与えられた特権だと悪びれる様子もないのだ。レオノールだってイサベル等を下賤な存在だと蔑んでいたから、私に怒る資格は無いのだが。
「そんな過ちを重ねて罰が当たったのね。私はイサベルとカレンを身ごもってしまった」
「でもわたし達、生まれた時からずっとここに住んでるよ」
「奥方様の怒りを買ってしまい、解雇されてしまったの。カレン達が男爵家とは無関係だって念書も書かされたわ」
お母さんは被害者だったのに悪者に仕立てられたそうだ。次の職場に持ち込む紹介状も持たされなかったんだとか。せめてもの温情だと手切れ金を渡されたおかげで今の住居に定住出来ているらしい。
身勝手で酷いとは思ったが、追放されただけまだマシだろう。中には誇り高き貴族の血を受け継いだ者が平民として過ごすのを嫌い、赤子が生まれる前におろさせる者もいると聞く。中には口封じで命を落とした者も……。追放で済んだのは不幸中の幸いか。
「じゃあどうして今になってカレン……じゃなかった、イサベルだけ迎えに来たの?」
「それがね、奥方様はとうとうお子さんに恵まれなかったそうなの。だからやむなく旦那様の不義の子を迎え入れることにしたらしくて……」
「イサベルだけ? わたしは行かなくてよかったの? お母さんは?」
「旦那様は自分の血を引く子を一人だけを望まれていたようだったから……」
まあ今ぐらいまで育っていたら一人だけ引き取っても流行り病にかからない限り命を落とす度合いは低いだろう。私達二人とも迎え入れて政略結婚の駒にしてもよさそうだが、一人だけに再教育を施す方がやりやすいとでも判断したのだろうか?
そもそも男爵は私達が女、それも双子の姉妹だったとつい最近まで知らなかったらしい。どうせお母さんや生まれてくる赤子のことなんて必要になるまで頭の中から消え去っていたのだろう。自分勝手で実に貴族らしい。
「もしかして、イサベルはわたしの身代わりになったんじゃあ……?」
「……。ううん。成り上がれる絶好の機会だって思ったみたい。だから自分のせいでイサベルが出て行ったって思わないで」
「そうなんだ……。でもイサベルは要領がいいからきっと上手くやれるよ」
心配したのは本当だ。もしカレンが貴族になりたくなかったのに私のことを思って名乗り出たなら私が代わるべきだろう。私にはレオノールとしての知識と経験があるから充分やっていけるから。
「カレンは貴族になりたかった?」
「ううん、全然。むしろ行かなくて済んでイサベルにありがとうって言いたいぐらい」
だからってあの世界に戻りたいとはもう思わない。公爵令嬢レオノールだったからあれほど謳歌出来たにすぎず、男爵令嬢イサベルでは大胆に踏み越えない限り肩身が狭い思いをし続けるのが目に見えている。
カレンがそこまで大胆に決断したこと自体はそこまで驚くべきことじゃない。上流階級との繋がりが得られる職種を選んでいた辺り、結構前から機会が巡るのを待っていたのかもしれない。もしくは、自分がつかみ取るきっかけを探していたとか。
「子はいつかは親元を巣立つものだけれど……こんなに早いとは思わなかったわ」
お母さんは窓から外を眺める。悲しみと寂しさのあまりに涙が頬を伝った。
「イサベルはもう戻ってこれないの?」
「……ええ。貴族の娘になったらただの一般庶民じゃあおいそれと近寄れないもの」
お母さんが指し示したのは机の上に置かれた書面だった。今後カレンに関わることを禁ずる旨の誓約書のようだ。貧民が傍にいるだけでカレンの価値が落ちる、とでも思っているのだろう。良くある話だ。
「でもわたしはずっとお母さんの傍にいるから」
「そう言わないの。素敵な旦那様が見つかったらカレンだって家を離れなきゃ駄目よ」
この日、私は男爵令嬢となるのをまぬがれ、代わりにカレンが男爵令嬢となった。
そして……この時を境に私はイサベルでなくなった。
カレンがイサベルに成り代わったから。