*** 3 ***
「君は飛び方を忘れてしまったの?」
ギムナジウムで鳥の飼育係をしていた頃、アインは、鳥籠で育てた鳥が飛べなくなる姿を何度も見てきた。
飛べなくなった鳥は、人の介助がなければ生きていくことが出来ない。しかし介助を受ける鳥は、空を飛びたいという願望など最初から持っていないように、幸せそうだった。
楽な方に流れ、飛ばなくても生きていられる環境に慣れてしまったら、もう飛び立とうとは思わないのだろう。そして自分に空を飛べる才能があるなど、思いもしなくなるのだろう。
自由な思想で世界を闊歩する少年、アイン・スタンスラインにとって、故郷の村は鳥籠に等しい。
彼は村のしきたりに従順でありながらも、世界に飛び立ちたいという気持ちを枯らさず持ち続けていた。人の介助を受ける鳥のように、自分の才能を忘れてしまってはいけない。この鳥籠をいつか出なければならない。彼はそう考えていた。
しかしそんな鳥籠で出会った友人たちは、アインの人生にとってかけがえの無い宝物でもある。
幼なじみで恋仲のピーキュー・テックシーは、弟を自分の手で殺めてしまったアインの心を癒やし、アインに人から愛されることの価値を教えてくれた。彼女の愛がなければ、アインの前向きさは生まれてこなかっただろう。
アインがこの村で出会った少年たちは、村の大人にコントロールされる子供の顔と、自立した大人の顔を使い分けることのできる聡明な少年たちだった。
だが、ただひとり。村の大人に決してコントロールされない男がいた。ギムナジウムで出会った5つ年上の友人ウェールズ・バレンツエーガだ。
ウェールズは学校に行く意味を見いだせず、学校をサボってはアトリエに籠もって油絵を描く生活を繰り返しており、フォルクスコールを10年かけて卒業している。
世間体を気にする父親はウェールズを監禁し自殺。母親に救い出されたウェールズは、父の書いた遺書につばを吐いたという。
母親は病に倒れ、ウェールズは結局ギムナジウムの2年間を看病で過ごし、さらに世間から離れた存在になってしまう。
19歳でギムナジウム1回生となったウェールズ・バレンツエーガは、14歳のアイン・スタンスラインと出会った。アインは常識的な人生を外れたウェールズに興味を持ち、彼と喧嘩を繰り返しながらも友情を築いていった。
ウェールズは人の本質に深く迫る男で、「何故?」という言葉を口癖にしていた。彼は出来事の要因や因果を見つけ出すことを好み、アインに対しても、「何故?」を幾度となくぶつけた。
人はなぜ?を繰り返されると、自分の行動の動機を責められているように感じ不快になるものだ。しかしアインはウェールズが自分に興味を持ち、自分の本質を探ろうとしてくれることに好感を抱いていた。
ウェールズは、アイン・スタンスラインがなぜ隣国オースティアのアカデミーへ進学するのかを問うたことがある。
「何故、エルゴルではダメなのだ」
「なぜなら――」
アインは何故?という質問に必ずなぜならと答えた。
「それはエルゴルの国王選出基準のためだ。エルゴルでは、心技体を兼ね備えた人物を国王にとの方針から、格闘技大会によって国王が選出される。つまり、身体能力という先天的資質によって、ヒエラルキーが固定されてしまっている。だから国外を目指す必要があると考えた」
ウェールズは言葉を噛み締めながら頷く。
「2つ目の何故を問おう。何故、オースティアなのだ」
「なぜなら。オースティアは後天的な努力によって、若くして権力を得られるからだ。オースティアは、毎年アカデミーの主席が閥徒という国政を行なう政治家に推薦される仕組みがあり、早ければ20歳前後で国政へ参画することができる。偏差値トップのアカデミーで主席になれば、有力派閥のエリートとして将来の出世が約束される」
力強い言葉。
ウェールズはアインの目をまっすぐに見た。
「では3つ目。何故、権力を求めるのだ」
「なぜなら世界の問題解決に関与したいからだ。そのために権力が必要となる」
ウェールズは眉間にしわを寄せた。
「4つ目の何故。何故、お前は世界の問題解決に関与したいのだ」
「なぜなら、才能と愛に溢れていた弟が俺の物差しだからだ。弟が生きていたら、世界の問題をどれだけ解決できたかわからない。弟のようにできる自信は無いが、俺は弟に受けた恩を世界に還す義務があると信じている」
アインは恥ずかしげもなく言い放った。
ウェールズはやれやれと両手を上げる。
「最後の何故。何故、弟のことをそれほど高く評価するのだ」
「なぜなら。弟は、俺が母親に虐げられていた頃、俺を1人の兄として扱ってくれたからだ。一番苦しかった時に、生きる原動力をくれた記憶は何物にも代え難いもの。違うかな」
アインの選択の理由を聞いたウェールズは、穏やかな笑みを浮かべていた。ウェールズは芸術の国アルテリア行きを熱望する男だった。彼もまた、自分の躍進を阻む村の常識を破壊し、世界に飛び出したいと考えていた。
***
——糸はつながろうとしていた。
この村には故郷の土地を捨てたものと、その家族に、山ノ神の祟りがあるという言い伝えがあり、ゆりかごから墓場までを、村で過ごすことが強要されている。
例えば12年前、アインの父親が出稼ぎのために村を出て戻らなかった時、村人たちは《夫の脱村を止めなかった裏切り者》としてアインの母親を責め立てた。当時、母親は村人に頭を下げ、二度とこんなことがないように子どもたちを育てていくことを、誓うしかなかった。
これからアインが村を出れば、母親は、夫だけでなく息子の脱村をも止められなかった裏切り者として、村中から再び批判され、追いつめられるに違いない。
アインは、かつて母親が自分に冷たい言葉を浴びせたことを記憶していた。いまも辛い記憶は消えないものだね、と苦笑いするだろう。
しかし彼は、母親が村人の批判によって苦しめられることを当然の報いだとは考えなかった。村人に気に入られる少年を演じていても、母親を売り渡すほど腐ってはいない。自分自身の夢をかなえるために、誰かを不幸にしては意味がないのだ。
アインにとって、この村の記憶は否定したくない大切な思い出だ。恋人であるピーキューと村で一生を添い遂げる選択肢が頭をよぎったことだってある。
だがアインは鳥籠の外に興味を持ち続けた。
彼の魂は、弟に受けた恩に報いることを宿命付けられている。
村の常識を覆したいというウェールズの情熱にも支えられ、アインの熱は、心は死ななかった。
アインはホワイトボードを復元してウェールズの意見を求め、《何故、人々が山ノ神を信じているのか》について、原因を探った。
山ノ神を重要視し、村に閉じこもる生活を続けるうちに、村人は年々貧しくなっている。
いまでは国民食のカレーをつくれない家庭や、腹いっぱいのご飯を食べられない家庭さえあるという。それなのに人々はなぜ山ノ神にこだわり、貧しさに耐え忍ぼうとするのか。山ノ神の祟りとは何なのか。
「何故、山に神がいると感じたのか」
「何故、山が命を支配すると考えたのか」
2人はホワイトボードに書き込みを続け、《何故?》を繰り返した。その根源を突き止め、原因を取り除くために。アインの母親が村の外から仕入れた歴史書に目を通し、村の成り立ちを追っていく。
そして呪われた原因に気づいた。
呪いは、エルゴルの初代国王アレクサルの弟、イブカサルに起因していた。かつてイブカサルは兄との確執で心を病み、この村に聳える深い緑に覆われた山に救われた。
故にイブカサルはこの山を神の山と名付け、国策である大異動に背き、土地へ定住することを決めたのだ。兄アレクサルとしても、弟を傷つけたのは自分だという後ろめたさがあったのか、彼の決定に強く文句は言えなかった。
イブカサルが始めた大異動への反抗は、いつしか古い言い伝えに変貌していく。
故郷の土地を捨てたものとその家族には、山ノ神の祟りがあると。言い伝えはいつしか力を持ち、村人は村を見下ろす森厳な山に畏怖の念を抱いた。そこは2000年前の最終戦争で亡くなった神が祀られている神の山だと信じて止まなくなった。
それは、大異動という家族の絆を引き裂く国の施策に反発した人々の願望だっただろう。
人間の願望はいつしか山ノ神という信仰対象を創り出し、自分たちの主張を正当化する武器となった。その主張がいつしか独り歩きし、人々を縛り付ける呪いとなって今に存在しているのだ。
2人はこの呪われた神を取り除くためのアイデアを模索する。設定すべき課題は《何故?》という因果を引責するものではなく、《どのようにして》という発展の連関でなければならない。
「収穫祭を利用したらどうだろう」
10月第2週末に開催され、山ノ神の恵みを祝う収穫祭。祭りのクライマックスには村民代表の挨拶があり、この年の挨拶は、村のカリスマとなったアインが行なう予定だった。
山ノ神を殺すチャンスはただ1度、この挨拶の中にあった。少年たちは失敗の許されない挑戦に臨んでいく。
***
収穫祭当日。村中が陽気なムードに包まれ、今年の豊作を讃える。
午後から夕方にかけては、子どもたちの遊戯が行われ、大人たちは感動の渦に包まれていた。村の歴史がこの後も続いていくことを、誰もが疑わなかった。
それはクライマックスの最後の瞬間まで同じだったろう。中央公園の舞台の階段をアインはひとつずつ踏みしめて登る。彼は全村人を前に堂々と立った。誰もが彼の一挙手一投足に着目していた。
「この故郷の山に、私は育てられました。あらゆる辛さも楽しさも、この山と共にありました。私はこの山が大好きで、これからも山を忘れることはありません」
彼はいくつも感謝を述べ、頭を下げた。
そして、静かに言う。
「だが、山よ。あなたは、私たちの人生を、縛ることはできない」
アインはスピリットから《消えない松明》を復元し、森へ放った。山一面に油絵の具を染み込ませた縄が張り巡らされており、松明の炎を山の隅々に届けていく。アインと仲間の仕掛けた点火剤だ。
瞬く間に山は炎に包まれた。
村人は、村のカリスマの突然の凶行に悲鳴をあげた。なぜ自分たちのコントロール下にあった子供がこんなことをする? 自分たちと同じ信仰を、この少年も信じていたのではないのか?
しかしアインは、「そんなものはお前たちの願望が創り出した幻だ」と言い放つ。
そして村人の悲鳴を切り裂く声で吠えた。
「聞こえるか、山ノ神よ! お前が本当にいるのならば、この炎を消してみろ! 神風を吹かせ、人の愚かな行いを止めてみせろ! その程度のこともできぬ神なら、そんなものは神ではない!」
アインの言葉は、閉塞感を突破しようとする村の若者すべての言葉であった。
燃え盛る炎は、山ノ神の畏敬も祟りも焼き尽くしていく。実体のない、言葉だけの存在である神からの解放。それは紛れもない、魔法からの世界解放であった。
その後村では、山ノ神を信じる人々と、他の人々との間で争いが生じた。
だがこの争いはスムーズに収束していくことになる。アイン・スタンスラインと15年間を共に歩んできた村の若者たちは、既に新しい世界を受け入れる勇気を携えていた。そして村の未来は若者たちが創り出していく。
神の棲む、山を失った村人は、アインの母親に罪の償いを求めのではなく、山ノ神の呪縛から村を解放する方向へ進み始めた。
故郷の人々が前を向いて歩き出していく中、アインとウェールズは故郷の村を出て、それぞれの目的地へと旅立っていく。
ピーキュー・テックシーは、2人の背中をいつまでも見送っていた。これが彼との永遠の別れになることを覚悟しながら。