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サイトウが提案したのは、ロマリアの龍の山、通称フジヤマに棲む、龍の力を借りることだった。
龍の山は高度10000メートルを越える世界最高峰の山だ。同時にこの山は、頂きに龍が棲むという伝説がある。
しかし、ほとんどのロマリア人は龍を見たことが無かった。龍の山に登山する人々も。目的地は高度8000メートルに建築された神殿で、それ以上の高みへは足を踏み入れなかった。
しかし人々は龍の鳴き声や、食事跡を観測しており、龍の存在は確実とされていた。古文書にも龍の存在が記載され、強い意志を持つ者しか、龍の信頼を得られないということが書いてある。
龍の力は強大だ。
一匹の怒り狂った龍が、ロマリアの城下町を滅ぼしたという言い伝えも残っている。サイトウは、アインならば、この龍の信頼を得られるのではないかと考えていた。
「確実じゃないけど、今は龍にもすがりたい気持ちだ」
アインは龍を味方にすることができれば、一個師団に匹敵する戦力が得られることを認めた。
彼らはさっそく龍の山に登る準備を整え、翌日には山へ向かって移動を始めた。一刻を争う事態ではあったものの、緊急事態ほど落ち着いて、時間をかけて物事に対処することが必要だ。
2人は7日をかけて山を攻略し、10000メートルの頂に到着した。1日1000メートルの山を登り、体力的な限界はとっくに超えている。
そこにはとても澄んだ目をした、1匹の蒼い龍が佇んでいた。龍は念話を用いてアイン達の頭に直接語りかけた。
「立ち去れ。ここは人間の来る場所ではない」
「龍よ、今マタリカ大陸に危機が近づいています。どうかあなたの力を貸していただきたい」
アインはサイトウから聞いた伝承の勇者にならって、口上を述べた。
「人間が争い傷つけ合おうと、私には関係のないことだ。私は人の国を重要視していない」
「そうですよね。だとしたら龍よ、俺という人間を試してもらえないか? 俺は、人の国のためにあなたの力を借りようとしている訳じゃない。アイン・スタンスライン個人の願いのために、あなたの力が必要なんだ」
この青年は、リングリットを救うためだけに、10000メートルの山を超えてきた。
「面白い。これまで試練を受けた人間は、例外なく壊れた。耐えてみるが良い」
龍はアインの意識を、マナ次元へと誘った。マナ次元は6次元にある世界で、縦、横、高さ、時間、意識の5次元空間を観測することができる。
それは地獄すら生ぬるい精神の拷問だった。
龍によって操作された記憶は、アインが幼少の頃に犯した罪、つまり弟を火事で亡くしたことや、母親を悲しませたことに対する後悔と絶望を何千回も反復させた。肉体だけが、操作された記憶と現実との連結点となった。
だが龍はそんな甘えを許さない。意識だけを別の生き物――芋虫や魚や軟体動物――に憑依させ、何千というシチュエーションの死を経験させた。
幾多の拷訊で、人間の尊厳は失われた。もはやアインは、死生の概念が崩壊した世界にいた。
その拷問の合間に、龍は、「少しでも助けを懇願すれば、元の世界に戻してやる」と囁く。しかしアインはこの地獄のような時間に耐え続けた。
龍は彼の心を折ろうとする。
「諦めない限り、この地獄に永久に続く。何故耐える? そうして苦しむことに何の意味がある。お前は一人の人間として楽しみを享受したくはないのか」
アメーバのような姿を与えられ、あらゆる負の感情を叩きつけられたアイン。しかし、彼は自分がアインであるという意識を保ち続けていた。
目に見えぬ精神が、自分はアイン・スタンスラインであると、アイン・スタンスラインであらねばならないと告げる。
精神の中心には変えられない理想があった。
「あなたが与えてくれた長い時間の中で、俺は俺が世界に存在している訳を考えた。俺には強い力がある訳じゃない。金や地位や名誉がある訳じゃない。それでも世界のために人生を捧げたい。人としての意識が無くなっても、苦しみしか無くても、後悔と絶望しか無くても、世界の問題解決に携わることが俺の幸せだ。世界の問題を解決し続けた先に、全人類が求める理想の世界がある」
龍は首を振った。
「お前は、真に利他的な存在だというのか。そんな人間がこの世に存在するはずが無い。お前は弟に対する後悔と、母親の仕打ちに対する絶望で、人間という機能を失ってしまった。お前は人を」
人を超越した存在——に成り果てたのか?
「そうかもしれない。だけど人としての機能を失ったことが、結果としてあなたに評価されるなら、すべては無駄じゃなかった。弟と母親が育ててくれた心は、ちゃんと生きている。俺はその恩返しをしなくちゃならない」
龍はアインに対する試練を解いた。後にサイトウが述べたところによると、現実世界ではわずか10秒の出来事だったという。アインは両手を何度か握り、現実をゆっくりと享受した。
龍は言う。
「お前は私がこれまで見てきた、利他的と呼ばれる人間とは違うようだ。私の見てきた人々は、人間社会の理を謳い、正義を盾に見栄えの良い計画を掲げはするが、実現に向けた行動の伴わぬ、嘯き家に過ぎなかった。彼らには、意見こそあれど意志はなく、自分の身に火の粉の降りかからぬ場所で管理することを望み、無責任で、自分へ危害が及ぶとすぐに逃げ出す。お前はそんな人間とは違い、私の試練に耐えた。信念を持つ男よ、私はお前を信頼しよう」
龍は自らをファシス・ラビルと名乗り、アイン・スタンスラインの願いへ協力することを誓った。
アインはこの時『実行こそが信仰なり』という言葉を思い出していた。
この言葉は、オースティアのエル・クリスタニアアカデミーに所蔵されていたスベリア聖書の一節に記載されていたもので、信仰に対する態度を説いたものだ。この言葉はあらゆる物事への取り組み方に応用することができる。
つまりどんなに美しい言葉を吐いたところで、実行が伴わなければ事態は変わらないということだ。大事なことは、机上の空論に固執することではなく、何をやったか、だ。
アイン・スタンスラインはそのことを本能的に理解していた。だからこそ彼は、行動し続け、国政の評論家ではなく、国策の実行者たろうとした。
「実行することで限界を超えられるなら、誰にだって超えることができるさ」
彼は世界の、人間の未来に希望をいだいた。
アインとサイトウはファシス・ラビルの背に乗り、アルテリアへ飛び立った。




