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アイン・スタンスラインと1つ下の弟ブライアンは、この村で生まれた。
アインは、知恵遅れだった。彼は2歳になっても言葉がうまく操れず、単語で会話をするのが精一杯だった。
一方、弟のブライアンは満1歳で巧みに言葉を操り、物事を情緒豊かに表現できる天才で、村の大人からも期待され、愛されていた。
けれど両親は2人の息子を隔てなく愛し、育てた。家族は貧しかったが、平穏な日々を過ごしていた。母親は永遠の愛を誓うように、2人へ向かってこう祈った。
「あなた達が、誰よりも幸せな人生を過ごせますように」
しかし平穏な日々は長くは続かない。
そもそも隣国オースティア出身のティルテュが夫とともに村へ移り住むことになったのは、アインの彼女であるピーキューの母アイナ・テックシーの働きかけがあったからだ。
「いつか村に来てほしいの。約束して。後悔はさせないから」
点呼が始まるまでの時間を使って、村の外のアカデミーへ通っていたアイナは、そこでティルテュと友人になった。2人はいつか同じ村に住むと約束し、互いに約束を守ろうとした。
外国人を村に住まわせるなど問題外だと村の人々は大反対したが、村で人気のあるアイナが反対を押し切って、ティルテュを村に住まわせた。
ところがティルテュの夫は傭兵上がりの不器用な男で、村の仕事を1つも満足にこなせなかった。アインが3歳になると、家族は生活に困窮するようになった。
ティルテュの夫は、いつしか自分には傭兵稼業しかないと考え、生活費を稼ぐためにエルゴルの紛争地へ出稼ぎに向かった。不運なことに、日帰りのつもりで村を出た彼は戦場で敵に囚われ、命からがら逃げてきたときには、3日が過ぎていた。
点呼を欠席した彼に、村の人々は冷たかった。彼は裏切り者のレッテルを貼られ、村から追放されてしまう。
これ以降村人たちは、ティルテュに対して山ノ神の祟りがあると罵詈雑言を浴びせるようになり、執拗な嫌がらせも行なわれた。
「アイナが招待したというので大目に見てきたが、あんたは本当に駄目だね」
「アイナに迷惑をかけるな」
ティルテュにとって、こういった心無い批判が一番堪えた。彼女は人格者だ。それゆえに彼女は家族に対して浴びせられていた罵詈雑言がアインやブライアンの耳に入らないよう、嫌がらせの手紙や壁の落書きを1人で消し、怒りや悲しみを抱え込み、心の病を発症した。
人格者である彼女でさえも、次第に《出来損ない》のアインに対して強くあたるようになり、弟のブライアンを溺愛するようになった。
「私、こんな嫌なやつだったっけ」
ティルテュは病気の進行により通院頻度が増え、家を空けることが多くなった。
そしてアインが4歳のとき、運命の悪戯が家族を襲う。ティルテュが不在の自宅で、アインがロウソクの火を倒し、火事を起こしてしまったのだ。燃え盛る建物からアインを救い出したのは、3歳の弟だった。この事件によって弟は大火傷を負い、帰らぬ人となる。
もしこの出来事がなければ、アインは仲睦まじい恋人と添い遂げ、村で一生を終えたかもしれない。しかし高貴な精神は時の濁流へ漕ぎ出すこともなく、1つの完成を見ることもなかった。
《出来の良い弟》を失ったことがわかると、病気のティルテュはアインに暴力をふるい、「あなたなんて生まなければよかった」と自分を責めた。
知恵遅れだろうと。アインは自分が何をしでかしたか理解していた。彼の脳はこのとき、鮮明に動き出した。
アインは、頭に文字があるのに、手がそれを表現してくれないもどかしさと戦いながら、母親ティルテュへの懺悔を手紙にしたためた。文字は雅趣のある金釘流だった。
手紙を母の前で読み上げると、母は何度も謝罪し、涙を流して少年を抱きしめた。少年は母親からの愛情を感じながら、天才の弟が成し遂げていたはずの物事を考えるようになった。
アインは外国の文献に興味を持ち、母親の書架から月10冊の本を読破し続けた。世界の歴史、法律、地理、天文学、数学、気象学、統計学……。彼は次第に村で手に入らない本を母親にねだるようになった。
母親は息子のために、村で唯一となる本屋を経営した。つまり、データや根拠、論理性を軽んじ、自分の持つ感情や感覚を頼りに生きようという村の方針に真っ向から歯向かった。例え土地預かりから汚れ仕事だと揶揄されようとも、母親は経営をやめなかった。この母にして、この息子ありだ。
そして2年が過ぎ、3年が過ぎ。
アインは村での暮らしの中で、目標を定め、計画と実行、評価と改善を繰り返すことが、物事を良くしていくポイントだと知っていった。
例えば、真っ直ぐに歩きたいと考えて、砂場で一歩足を踏み出せば、足元に自分の足跡が残っていく。足跡を目安に次の着地点を決めれば、いずれは歩いた軌跡がまっすぐな線になるだろう。
アインは、人生もそのようにありたいと考えていた。彼の前にはいつも、天才であった弟の影がちらついている。
「君が生きていたら、どのように生きたかな」
アインは、記憶にしかいない聡明で明朗闊達な弟を目標にした。内省的な自分と、外交的な自分を両方育てていきたいと考え、本を読んで知識を広げるとともに、物怖じせず誰とでも会話をするように努めた。
会話の中で、知らなかったことを教えてもらえれば幸運だし、自分の悪いところを指摘してもらえたら、改善する課題が見つかる。
理不尽に怒る人や、不機嫌な人と対峙し、ぞんざいに扱われたら、許すことで自分の度量を広げられる。自分の成長の遅さに悔しさを露わにすることもあったが、彼は日々挑戦をし続けた。
「今日は何を議論しようか」
いつしか、彼は人生をより良くしていくための議論が好きになった。その中で彼は時間が有限であることを意識していく。
きっかけはアインが8歳の頃、6歳から18歳までの男女を集めて、《人生で大切にすべきもの》を議論したことだ。
愛、地位、名誉、健康、夏休みや、お母さんという意見も出た中、アインは《時間》を大切とする意見に感銘を受けた。やりたいことをできず命を落としてしまった弟に、一番与えたいものだったからだろう。
時間を明確に意識した時、アインには9年間のフォルクスコールと、3年間のギムナジウムという12年間の義務教育が《時間》を闇雲に消費させているように思えた。
「無理を通して道理をカチ超える」
アインはそう言って憚らなかった。義務教育を飛び級しようというのだ。彼は学校に飛び級を認めさせ、必要な学力を得ることと、浮世離れしないために年相応に遊ぶことを計画し、ほとんど軌道修正することなく実行した。
その生き様はまるで2人分の人生を生きるみたいに、慌ただしかった。
幅広い属性の友人と語らうことを好んだかと思えば、巣箱を作って動物を飼ったり、鍛冶と狩りに興じたり、子どもたちだけで村を出て隣町の様子を見にいく大冒険をした。
子どもの時間を大事にした後は、大人との時間も大事にし、村で飼っている牛の世話をして馬糞にまみれたことも、カリグラフィに傾倒して村の正式文書を書いたこともある。4歳の頃から、文字を書くのは苦手だ、なんていいながら。
彼は大人と子ども、異なる二点の視野で物事を見、生きていく。
恋をして、欲動に心を奪われそうになった時でさえ、彼は愛だけを育て、欲を殺し続けた。
彼の心底には、弟に受けた恩を世界へ還すという信念がある。それが世界に人生を捧げることになっても。
***
「アイン、朗報よ。最後の手紙が届いたわ」
ティルテュがはしゃいだ様子で言った。手にはギムナジウムから送られてきた封筒が握られている。天才として村に名を轟かせたアインは、15歳で村のギムナジウムを卒業することが決まった。アインはついに、将来を切り拓くための、最後の試練に挑むことになる。それはカルドラを倒した日、ホワイトボードに刻まれた彼の計画。この山ノ神に縛られた村の《境界を超える》こと。
そして生まれた国を捨て、隣国オースティアのアカデミーへ進学することだった。